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第2回クオリアAGORA 2015/グローバリゼーションって何?



 


 

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第2回クオリアAGORA 2015/グローバリゼ―ションとは何か!?/日時:平成27年7月23日(木)18:00~21:00/場所:京都大学楽友会館会議場-食堂/スピーチ:中西寛(京都大学大学院法学研究科教授)/【スピーチの概要】グローバル化の進展で急速にフラット化した世界。 その一方で、日本人の考えや行動原理に刻み込まれた日本らしさとは何か、が改めて問われています。 第2回は国際政治学者の中西寛京都大学教授を迎え、「グローバリゼーション再考」をテーマに問題提起をしていただきます。 討論では、世界遺産に登録された「和食」をリードする若き料理人の高橋拓児さんらを迎え、日本人のDNAに刻み込まれた本質を探りながら、グローバル時代を生き抜く戦略を考えます。 /【略歴】中西寛(京都大学公共政策大学院教授)1962年生まれ。 京都大学法学部、同大学院博士後期課程、シカゴ大学歴史学部大学院を経て、91年京都大学法学部助教授、2002年同大学院法学研究科教授。 15年度より公共政策大学院に移籍。 専門は国際政治学。 (一財)日本国際政治学会理事長を務める。 「国際政治とは何か-地球社会における人間と秩序」「歴史の桎梏を越えて」など著書の他、「グローバル・カオス--複雑化する国際政治の構造」「勢力圏競争が抱え込む不確実性:超カオス時代の大国間政治」など論文多数。 




≪WEBフォーラムはコチラ≫

 


長谷川 和子(京都クオリア研究所取締役)


きょうは、「グローバリゼーションって何?」というテーマで、京都大学公共政策大学院の教授の中西寛さんからお話をうかがうことにしております。 


その前に、ご報告がございます。 今年で4年目を迎えましたクオリアAGORAの第2回から、ほぼレギュラーに近い形でディスカッサントとして参加をしてくださいました堀場雅夫さんが、去る7月14日にご逝去されました。 このクオリアAGORAをスタートするにあたって、堀場さんはこんなことをおっしゃっていいました。 「現在、とても単機能の人間が多い。 科学や哲学などオールラウンドの理解が求められている時代に、『知の越境』というんでしょうか、異分野の方々の交流する場が必要です。 それがクオリアAGORAの果たす役割で、その成果を、是非皆さん方に持って帰っていただきい」と。 そして、堀場さんは「すごいと思うことに挑戦することが、幸せにつながるんだ」ということもおっしゃっておりました。 京都が大好きで、京都を引っ張って来られた堀場雅夫さん。 その思い、その成果を、これからもAGORAの中でも引き続き実践していきたいと考えております。 


では、堀場さんのご冥福をお祈りして、黙祷を捧げたいと思います。 


( 一同黙祷 )


有り難うございました。 それでは、これから、中西さんにお話をしていただきます。 京都は、フラットな世界なんだけども、京都の役回りもいろいろあるよっていう思いも込めてお話していただけると思います。 では、よろしくお願いいたします。 



※各表示画像はクリックすると拡大表示します。     

スピーチ 「グローバリゼーションって何?」


京都大学公共政策大学院教授 中覀 寬さん

京都大学公共政策大学院教授
中覀 寬さん


今、堀場さんご逝去のお話が出ましたが、私もこの場とかで、何回もお話をうかがっておりまして、非常に残念です。 「おもしろおかしく」というキーワードで、お仕事もされ、人生も楽しんでおられていて、そういう点から言いますと、今日わたしがお話するトピックは、ちょっと硬く、抽象的、難しい内容ではあります。 私は、国際政治学というのが専門で、普段は、今話題の安保法制とかの話をしているのですが、これでは、まるでおもしろおかしくというわけにはいきませんので、「グローバリゼーション」というテーマで、私なりの考えをお話させていただき、幸い、きょうのパネリストのみなさんは、私とは全然違う分野の方々ですので、何かうまくフュージョンというか、いい意味でおもしろおかしいお話になればということで、きょうのおテーマを用意いたしました。 


私の自己紹介のところを見ていただきたいのですが、実は、私の名前の字が中覀というちょっと「西」とは違う字体が入っています。 この「覀」が私の正式な字です。 普段は、こだわっていないのですが、テーマの都合でこの字を使いました。 後から、これについても話が出てくると思いますので、ちょっとおぼえておいてください。 


グローバリゼーションということは、このクオリアでも何回もお話があったと思いますし、みなさんも、普段から、もう耳にタコができるほど聞いておられると思いますけれども、私の見ているところでは、日本人には、グローバリゼーションというのは、どうもこう、実感として、なかなか理解されていないんじゃないかなと思います。 その典型的な例が、大学でありまして、最近は「スーパーグローバル大学」ですか、そういう言葉を文科省のお達しで使って、それをめざすという大学も、京大も含めて多いんですけども、考えてみれば「スーパーグローバル」という言葉そのものが、最もグローバリゼーションに反した表現で、日本を一歩外へ出れば、っていうか、日本の中でも、一体何を意味しているのかよく理解されていないわけです。 そういう言葉を使うことで、なんか、グローバリゼーションに近づいているというイメージを持つこと自体が、グローバリゼーションを日本人がわかっていないことの典型ではないかと思います。 


グローバリゼーションという言葉が使われるようになったのは、世界的にいっても1980年代です。 1980年代というのは、ご記憶のある方も、まだ生まれていない方もいらっしゃるかもわからないですが、80年代の日本は、言うまでもなくバブルであり、日本の経済的な存在感っていうのが絶頂期にあったころでしたが、そのころ、中曽根康弘さんっていう首相がいて、彼の政権の標語は「国際化」「国際国家」であります。 その時には、国際化、国際化と、今のグローバリゼーションと同じようにスローガンにしていたのですが、世界は、その頃に、グローバリゼーションをということをだんだんと意識し始めていたと。 日本では、グローバリゼーションという言葉は、まだ、カタカナとしてもあんまり使っていなくて、「インターナショナリゼーション=国際化」っていう言葉を使っていたのですが、本当は国際化とグローバリゼーションというのは、根本的に違うものです。 


その違いというのが、80年代にもわかっていなかったし、現在でもよくわかっていないじゃないかと思います。 日本人がなぜ違いがわかりにくいかというと、根本的には、やっぱり日本が島国で、外国との交際が、海を越えて行われるので、内と外という区分が日本人には、非常に自然に染み付いているからだろうと思います。 だから、国を開くっていうことは、国際化だというふうに、明治時代からずっと思い込んでいて、その流れでグローバリゼーションも理解していると、いうことではないかと思います。 


国際化とグローバリゼーション違いについては、「国際主義」と「「グローバリズム」というふうに、ちょっと言葉を変えると、まだ少しわかり易くなります。 国際主義=インターナショナリズムっていうのは、「外国と仲良くしましょう」「内向きでなく、国際協調をやりましょう」という意味になる。 これに対して、グローバリズムっていうのは、地球規模―グローバルっていうのは地球という意味ですが、「地球規模の人類社会を志向する」。 つまり、国境、国籍というようなものを取っ払って、社会が、大きく言えば人類規模で統合、あるいは一体化していく、そういうものをグローバリズというわけです。 


日本の場合は、国境が海ですから、外国の社会と国境を境に接していて、国境付近で普段から異なる民族の人が行き交うということを実感として感じないわけですね。 ですから、国際主義とグローバリズムと言っても、違いがよくわからない、ということではないかと思います。 一方、世界の殆どがそうなんですが、他の国と国境で接している国は、国際化というのは、まず国境がきちんと管理された上で、ほかの国と仲良くしたり、あるいは協力したりすることなのに対して、グローバリゼーションというのは、国境とは関係なしに、その国境を越えて内と外の人が交流しあうことだと言われれば、その違いが実感としてわかる。 それで、世界は、1980年代ぐらいから、グローバリゼーションとかグローバリズムの方に向かっているのに、日本は、やっぱり、どうしても国際化っていう発想になりがちだということでないかと思います。 


あらためてグローバリゼーションって何かと考えた時、いろいろな定義があると思います。 曰く、アメリカ化である、とか、あるいは、情報革命であるとか…。 いろんな考え方があると思いますが、まず少し大きく取って話してみたいと思います。 文明論、科学技術史がご専門の伊東俊太郎さんという方が、「比較文明」という名著の中で、人類の歴史というのを五つの「革命」で特徴付けています。 最初は「人類革命」、これ、5~7万年ぐらい前にアフリカから現在のホモサピエンスというのが、ヨ-ロッパ、アジア、ユーラシアに出て行って、世界中に広まった時代があったわけです。 その後、おそらく3万年ぐらい前に、日本にもやってきただろうと。 そして、1万年ぐらい前に、農業革命、5000年前に都市革命、2500年前に精神革命とあるんですが、これは、みなさん歴史で習われたように、世界のいくつかの国で比較的独立して起きています。 


都市革命に関連しては、中国、メソポタミヤ、エジプト地域で起きる、あるいは、イスラエル、パレスチナ地域、インドで起きる。 ある種の関連性はあったかもしれませんが、基本的には、ほぼ同じ時期に、独立していくつかの文明圏が生じるという形で起きてきます。 精神革命というのは、われわれが文明として考えるような、とりわけ普遍宗教ですね。 キリスト教、インドのヒンズー教の前のバラモン教、中国であれば儒教を中心とした壮大な体系、あるいはギリシアにおけるヘレニズム文明というのが起きる。 ヤスパースは「枢軸時代」といっているのですが、この革命は基本的に独立して起きている。 日本は、中国文明圏の中で、2000年から1000年前くらいの間に国家形成をしたということになります。 


さらに、科学革命。 これは、ヨーロッパでルネサンスころに起き、伊東さんは12世紀のルネサンスを強調されていますが、15、16世紀から始まって、いずれにせよ、現代世界につながるのは科学革命の時代です。 いろいろな考えがあるんですけれども、ここで私は、科学革命というのは、科学の力を得て、人類が、人類革命以来、数万年ぶりに、一体化をしていく、人類がひとつになっていくという、そういうプロセスというふうに考えています。 


そのプロセスについてとりあえず科学の一つの典型である数学というのを例に取ってみたいと思うのです。 もちろん、私は、数学の専門家ではありませんが、数学者の加藤文元さんという人が中公新書で「物語 数学の歴史」という本を書かれています。 その中で強調されているのは、西洋数学と東洋数学という区分をとりあえず立てて、そういうふうに世界の数学史というのを見た時、18世紀までは、西洋と非西洋、東洋といっていいんだろうと思いますが、そこでは決定的な差はないというのが主張されています。 幾何、算術、微積分学に代表されるような解析、というようなものは、ヨーロッパで18世紀ぐらいに発達していることは確かだけれども、加藤さんに言わせると、日本でも有名な和算というものがあったように、数学的成果そのものは、根本的には違わない。 差がついたのは、19世紀だというのです。 科学革命というのは、長く取るとヨーロッパのルネサンスぐらいからですけれども、特にきょうのグローバリゼーションとの文脈でいうと、19世紀ぐらいのヨーロッパで、一つ大きなジャンプがあったんではないかということです。 


これは、数学の世界では、非ユークリッド幾何の登場がきっかけのようです。 それまで幾何は平面を前提にしていたのが、曲面であるとか、曲面にもならない抽象的な空間での幾何というものを考えるようになった。 そこからですね、だんだんと幾何、算術、解析という区分を超えて、19世紀の末には、集合論という非常に抽象的なものをヨーロッパ数学が生み出したわけですね。 で、こういうジャンプが長い目で見ると、今日われわれが実感している情報社会とか、コード化とかビッグデータというものにつながってきている。 ビッグデータって言葉は知っていても具体的に実感のない方も多いかも知れないですが、みなさん、まず間違いなく、ビッグデータを使っているというか、その一部になっています。 ビッグデータというのは、例えば、Googleで検索すれば、みなさんはGoogle社に自分のデータを提供していることになります。 無料で便利だからgoogleを使えるのですが、それはGoogleに自分の興味という大事な個人情報を無料に提供してGoogleのビッグデータの一部になっているわけです。 Amazonで本を検索して本を買えば、Amazonのビッグデータになっているわけで、まったくそういうことをしない人以外は、意識せずとも、みなさんの個人情報はビッグデータになっているわけです。 これが典型的なグローバリゼーションのひとつのあり方で、別に外国に行くとか交流するとかいうことではないのです。 クリックひとつで、世界中のものが買えるという便利な時代になっているわけですけども、そういうものを生み出した基礎というのは、19世紀のヨーロッパに発した科学革命ということではないかと思います。 



そういう流れで見た時、日本を含めた極東というのは、19世紀のグローバル化に対して残された最後のフロンティアであったのではないかというふうにいえるのではないかと思います。 東アジアという時に、中国、日本、朝鮮、インドシナを、ここではとりあえず考えています。 私の専門に近い国際政治史の観点でいえば、18世紀までにこの東アジア以外の世界は、ほぼヨーロッパによって植民地化されていました。 程度の差はありますが、例えばアメリカ両大陸、インド、中東、アフリカの沿岸部はヨーロッパの植民地になっていた。 今日的に言えば、グローバル化、ヨーロッパ主導のグローバル化の枠組みに入っていた。 その中で、唯一残っていたのが、東アジアで、中国とか日本、朝鮮、インドシナのベトナム、これですべてではないけれども、この辺が残っていた。 19世紀中頃ぐらいに、日本やその少し前に清朝中国は、ヨーロッパ列強の軍事力、国力によって開国を行うことになった。 アヘン戦争とか黒船がやってきたとかそういう話であります。 


世界史的な記述としてこれは正しいのですけれども、その背景にあったのは先に触れた科学革命です。 この文脈でいうと、19世紀に起き始めたのは、「言語障壁、あるいは言語防壁の突破」であったのではないかと思います。 中国を中心としたこの東アジアは、中国が発明した漢字を使っていますね。 この漢字というのは、コード化が非常に難しい文字体系なわけです。 これを使っているために、ヨーロッパを中心とした文明というのは、なかなか東アジアには入り込めなかった。 しかし、19世紀になると、すぐではないですけど、だんだん、こういう東アジアの言語もコード化ができるようになってくるわけです。 ですから、極東のグローバル化、極東の開国というのは、ただ、軍事的な力、あるいは物理的な力によって中国や日本を開国させたという、そういうことだけじゃなくて、文明的に、ヨーロッパ起源のグローバル文明の中に東アジアも取り込んでいく。 そういうプロセスが19世紀に始まったというふうに考えることができます。 


その後、19世紀の後半から、日本では、明治維新から明治国家を作り、さらに、日清、日露戦争に勝ち、それと並行してアメリカが世界大国となり、ソ連が世界革命を志向するという、そういう流れになるわけです。 19世紀の中頃ぐらいから20世紀のアメリカやソ連というのが、日本人が考える近代国家の典型的なイメージは強い国家のイメージだったんですが、これらの近代国家というのは、科学革命の文脈からいうと国家が大きな行政機構、官僚機構を作って情報を集積する、そういう形で国力を高める、あるいは、国家としてのまとまりを持つという、そういう時代、そういうシステムでありました。 これが、20世紀のある時期までは、かなり効率的だった。 国家にいろんな情報を集めていって、国家のエリートがその情報を活用する。 その究極の型が原爆や水爆の開発ですけれども、巨大な科学力の集積を政府が後支えをするとそれによって、新しい国力の源泉を生み出すというプロセスになっていったわけですね。 


しかし、そういうプロセスは、1960年代から1970年代に限界がきて、中央集権はむしろ効率が悪いということになってきたんだろうと思います。 これはインターネットの歴史を見ればよくわかります。 インターネットはアメリカで発明されたわけですけれども、そのきっかけは核戦略からです。 ソ連から核兵器が打ち込まれた時に、意志決定機構―アメリカの核のボタンを押すところ-が1カ所だけだと、そこが破壊されてしまうと反撃できないので、意志決定機構を複数に分散させておいて、相手から攻撃されても反撃できる体制を作っておいてソ連からの核攻撃を抑止する。 つまり、打っても無駄だぞということを示すという発想から複数のコンピューターを結ぶネットワークを作ろうという発想からインターネットが開発されたわけです。 しかし、これが、アメリカのすごいところなんですけど、一定の段階でこれを軍事技術として専有するのではなくむしろ科学界で学者に発達させようというふうにして、西海岸の、どちらかというと反政府的なカウンターカルチャーが強い、オタク的な人たち、ゲイツとかジョブズとかの先祖みたいな人たちがいっぱいいるあたりにもっと作れといって発達してきたのがインターネットいうことです。 ですから、このインターネットの技術史というのは、メガ国家の近代国家は効率的でなくなり、むしろ、そうした国家に代わって、社会が技術を発達させていく方が効率的だ、というふうに変わってきたことの典型だと思います。 


別の特長は、保守主義の変化や環境主義の台頭です。 1960年代までの先進国は、保守というのは、国家志向、秩序志向である。 これに対して、左派というのが、自由であるとか解放であるとか進歩であるとか、そういうことを言うというものであったのですが、この時代から、保守主義がむしろ反・国家になってくる。 あるいは、環境主義という右か左かよくわからないようなものがこの頃に出てくる。 これも時代の変化を表していると思います。 


社会もこうした流れに即応して、個人化とネットワーク化が顕著になります。 それまでは個人というのは、近代思想の理念としての単位ではあったのですが、実際には人々は共同体や家族を単位に生きていかざるを得なかったわけです。 しかし、この時代から、科学技術がもたらしたいろんなものを使えば、一人でも生きていけるっていう時代になってきたんですね。 ですから、お一人様で生きていた方が身が軽いということになっていく。 例えば、インターネットさえあれば、買い物はできて、みんな運んできてくれるし、家族がいなくても食事も困らない。 給料も自動的に振り込まれる。 もちろん、自ずと限界があって、いろいろな社会問題はあるわけですけれども、そういうことが現実化してきたということであります。 こういうような状態が、1970年代から、一挙ではないですが、この2010年代にかけて世界でどんどんスピードを増して進行してきた。 このことが、基本的なグローバリゼーションの流れであろうと思います。 


今、グローバリゼーションへの対応の一つの型を示そうとしているのは中国ではないかと思います。 中国は過去30年間、ものすごくグローバル化しました。 世界から資本とか技術とか、あるいは知識などを集めてきて急速な経済発展をしたわけですが、今、中国は、分かれ目に来ているのではないかと思います。 習近平政権からはそういう印象を受けます。 中国は長い歴史を見ても、古く見れば漢の時代、短く見て宋の時代、1000年ほど前に「集権独裁体制」、非常に大きな人口、数億人から現在は13億人ですけれども、そういう人口を統治するという技術を、世界の中で最も発達させた国家なんですね。 そういうシステムを、このグローバリゼーションの中で、なおも維持できるかどうかというチャレンジを、習近平体制は今、やろうとしている。 


たとえば最近、「国家安全法」というのを作っていて、これは、あらゆる危険要素を制圧する権限を国家が持つことを決めた法律なんですが、あれを執行しようとすると、まさにグローバリゼーションとの格闘ということになると思います。 中国は、グローバリゼーションの影響排除というか、いいとこ取りをする形で集権独裁体制を維持できるかできないか分かりません。 世界の中でできるとすれば、中国だけだと思います。 その中国でも、大変だと思いますが、中国の政治体制はそれにチャレンジしそうです。 


これに対して、日本は、歴史的に中国とは違った基盤をもっていて、中国とは異なったグローバリゼーションへの対応をしてきました。 ここでは内なるグローバリゼーションと表現しています。 日本は自前で精神文明を作ったわけではない。 中国から、あるいは、インドからもらってくる。 あるいは、日本の基盤になる神道のような世界観は、広い意味では「汎神論」。 議論があるところですが、ギリシア文明に似ていなくもない。 色々な要素を外から受け取ってくる。 それをうまくミックスするのが日本文明のあり方です。 その意味では、日本の歴史そのものが、内なるグローバリゼーションをやってきたということができるわけです。 


ここで、日本語を例にとってみましょう。 日本語というのは、考えてみると非常に普遍的な言葉です。 中国でも、最近こそアルファベットも使いますけれども、基本的には、外国人の名前でもなんでも、漢字に直さないと中国語に入らなかったわけですね。 中国語=漢字世界というのが、非常に強くあって、そこに翻訳していくというふうにしないといけなかった。 一方、日本の場合には、文字としてはまず漢字が入って、そこから「仮名」を作り、それも二通り作ったので、それを活かして、世界のどんな言葉であっても、日本語で発音して、仮名で入れるとか、明治の日本がやったように、新しい漢語を発明して入れ込むとか、そういうことがやりやすい言語であります。 しかし、日本語は普遍的な側面を持っているのですが、逆に、それは「壁」ともなる。 これは、先ほどお話ししたコード化というようなことを考えると、日本語というのは、ある意味では、中国語よりも更に高い壁があるかもわかりません。 


「漢字廃止論」というものがあったことをご存じでしょうか。 殆どの人が知らないと思いますけども、戦後の日本ではかつて漢字廃止論が唱えられた時代がありました。 戦後に限らず、明治のころからありました。 近代化の大きな制約要因は漢字だということで、日本語を漢字で書かないようにしようという運動であります。 特に、戦後の一時期注目されたものにローマ字運動がありまして、広がらなかったですけど、一部、熱心な人がいました。 梅棹忠夫さんも、熱心なローマ字推進論者であった時がありまして、「知的生産の技術」という岩波新書のベストセラーのひとつですけれども、その中でも、ローマ字推進運動の経験を結構書かれています。 しかし、これは結局うまくいかなかった。 


これ、なぜかと考えると、日本語は、非常に簡単な音韻体系、これも世界でも珍しいほど音韻として少ないですね。 「あいうえお」しかなくて、あとは子音で区分している訳です。 中国でしたら4声があり、ベトナムなら6声、あるいは韓国ですとハングルの母音は日本よりもたくさんありますよね。 日本語はとても単純な音韻体系なので、日本語の文字は漢字とひらがな、カタカナを使って区別しているのです。 これを、例えば、ローマ字や仮名だけで、つまりアルファベット的な表音文字だけで書くと、とてもじゃないけれども意味が取れない。 なぜならば、同音異義語がいっぱいあるからですね。 だから、われわれは、話す時に、抑揚、アクセントで区分することもありますが、基本的には、目で、どの漢字を使っているかを見て、同音異義語を区分している訳です。 そういう形になっているものは、非常にコード化がしにくいということができます。 漢字であれば、コード化することは、現代ではできますが、漢字でも、ひらがなでも、カタカナを使ってもいいというものは、かえってコード化がしにくいという面があります。 



京大でもグローバル化と言っても、本を作る時の最も大きなハードルは、日本語ではないかと思います。 例えば索引を作るのがものすごく大変なんですね、日本語で文章を書くと。 というのは、書き方が一通りじゃないから、送り仮名をどう送っているかとか、そういうことで、人によって全然書き方が違うし、あるいは、同じ人でも別の書き方をしてたりするので、索引を作るのに、ものすごい手間がかかるわけです。 これがアルファベットだったら、ある単語を検索して何ページ、何ページというのは一瞬で出てきますよね。 そういうことが、日本語の本では非常にやりにくいのは、かなり、日本語に由来する性質であろうと思います。 


われわれが、グローバリゼーションの時代にどう生きるかという時に、一つの選択は、日本語をやめてしまうということがあるだろうと思います。 京大も、真剣にスーパーグローバルをめざすんだったら、日本語の授業はやらないというのも一つのやり方であろうと思います。 そういうふうな決断を日本人がするんであれば、それはそれでもいいと思います。 しかしもちろんこれは極端な選択で、グローバリゼーションの中で生きていくのにこの道しかないのなら大変厳しいことです。 別の道もあるのではないか、ただそのためには日本の文化を通常とは違った角度で見直す必要があるのじゃないか、というのが残りの話です。 


お話ししたように、19世紀に西洋で起きた科学革命で、膨大な情報をコード化することが可能になった。 これが、グローバリゼーションの基盤にあるわけですが、それでもまだコード化されない部分があるんじゃないか。 人間が作りだす意味世界、意味っていうより、もうちょっと広くいえば、「人間性」という部分があるんではないかと。 そして人間性にはコード化できない部分があることは、日本人だけでなくて、世界の人が感じていることではないか。 その部分、ある意味でニッチな部分ですが、その部分を、日本人はもっと自覚することによって、グローバリゼーションの時代にも生きていけるんではないかなというふうに思います。 


例えば、日本の生み出した文化の一つに俳句というのがあって、日本語だと17文字、世界で一番短い詩の形だということで、今は英語などでも今やりますが、日本語で考えた時、人文字に入るのは日本語の全音韻しかない。 それをNとすると、Nの17乗ですべてで、物理的には俳句はそれで全部出来て終わり。 もちろん膨大な数ですが有限だから、その中で意味のある俳句に限っていけば存外早く俳句は尽きてしまうと思われるかも知れません。 実際、「俳句滅亡論」も唱えられたことがあります。 しかし、俳句というのは、単に文字を17個並べただけではなくて、そこに生じる意味は、日々変わりゆくのです。 言葉も日々変化し、新しい言葉が創られたり、意味が変わったりしています。 ですから、従来、意味のなかった言葉の組み合わせが意味を持つようになってくる。 あるいは、最近の俳句だと、従来の日本語にはなかったようなアルファベットを使ったような文字とか、そういうものも使えるようになってくる。 それだけでなく、俳句は、何かについて語るだけでなく、それについて沈黙することが意味をもつことを示す代表的な詩型だろうと思います。 そのように考えると、おそらく、俳句という世界は、それはそれで無限ではないか。 


今人工知能(AI)についての議論が流行ですが、AIが発達すれば一瞬で俳句を物理的には全部作れるかもしれないですが、それでは発達したAIが詩としての俳句を自分で作るようになるかというと、これは今のところ考えられない。 大きなチャレンジだと思います。 最近、将棋のプロとは対戦しているようですけれども、これから、プロの俳人とAIの勝負も面白いかもしれません。 まだ、だいぶ先だろうと思いますが…。 


コード化と意味ないし人間性の対比は、デジタルとアナログやライブといったものの対比につながります。 コード化して体系化したものっていうのは、結局デジタルということになると思うんです。 ただ、デジタルというのは、いくら細かく行っても、数学的には本当の無限には達しない。 本当の意味での無限とは実数の無限ですね。 デジタルの無限は自然数の無限なので、数学的には離散的無限ということになって数が少ない無限なんです。 


「ほんとに数が多い連続している無限というのは、実数の無限だ」というふうに、カントールという人が言ったそうですが、実数の無限というのはデジタルではできなくて、アナログだろうと思います。 あるいは、ライブというふうに言いましたが、そういう予測不能な遭遇、混合、そういったものがもたらす情報というのはコード化しにくい。 例えば今、音楽でもCDが売れなくなったのに、むしろレコードが見直されている。 もちろん、そんなには売れないですよ。 でも、レコードを再評価する人が出てきているというのは、やっぱりアナログの情報量がデジタル情報よりも豊かだと感じる人が一定数いる、ということだろうと思います。 あるいは、観光とか、食事とかも、コード化されない、自分自身の一瞬の経験、ライブがもたらす感動というものに現代人は意義を見いだす傾向が強まっているように思います。 


西田幾多郎が1930年代に「日本文化の問題」という講演をしています。 ご存知のように、西田先生の言っていることは難しいんですけれども、彼の言っていることを今日のお話の文脈で考えると面白いのではないかと思います。 引用いたします。 「日本文化は、ベルグソンが言っている時のようなもので特色づけられる。 いわゆる形のない文化、芸術でいえば音楽的な文化である。 」―音楽は、音という一瞬にして消えていくものを並べることによってある種の意味が出てくる、そういうタイプの芸術ですよね。 西田先生は、音楽のそうしたあり方が、絵とか文字よりも日本文化の本質に近い、と言うんですね。 それで、日本文化は「これまで色々の外国文化を採り入れて来た。 こちらに固定した文化を有(も)っていれば他の文化を自分の文化にするか、他の文化から壊されるかのどちらかであるが、日本文化は次々に外国文化をそのまま採り入れて自分がまた変わってくところに特徴を有ち、種々な文化を綜合していく。 (中略 )それで、日本文化が世界史的になるのは、凡ての文化をまとめて行き一つの新しい大きな綜合的文化を作って行くところにあるのではないかと思う、―ここに非常なフレキシビリティーを有っているわけである」と言っています。 


最後に、これに関連して料理について触れておきたいと思います。 日本料理、和食がユネスコの無形文化遺産になったんですが、あとで、高橋さんもいらっしゃるので和食とは一体何なのかということを教えていただければと思います。 それで、和食が文化遺産に選ばれた理由について四つそこに書いておりますが、ここにいらっしゃる方は、こういう立派な日本料理ってどれだけ食べていらっしゃるでしょうか。 私は、残念ながらあんまり食べる機会はないんですけれども…。 外国人には、一定、日本料理は人気がありますが、アンケートを取ると面白い結果が出ています。 寿司、刺し身はいいとしても、後は、4つの定義のものとはだいぶ違うんですね。 ラーメン、天ぷら、カレー、お好み焼き、うどん、とんかつなどであります。 


これ、和食、日本料理と言っていいかどうか。 でも、外国人からすると日本料理なんですね。 結局、日本料理というのはですね、先ほどの西田さんを引用して言った、「本質のないフレキシブルな日本文化」の典型であって、日本料理というのは否定的にしか定義できないんじゃないかなと思います。 つまり、フランス料理でも中華料理でも何々料理というように世界には多くの文明国が、自前の食事のスタイルを作って来た。 日本料理が、それと並ぶような存在かというと、ラーメンやとんかつ、カレーまで入れれば、そうは言えないんじゃないかということです。 これは、世界の主要な料理文明のどれにも当てはまらない料理であり、同じようには定義できないものであると思います。 


でも、そうかと言ってこれらに価値がないわけではなくて、そういう、こう、アナログなニッチなものは、人間社会には必要なものではないか。 さらに言えば現代社会においてむしろ価値が増しているのではないか。 そういう文化を日本人は、自然のものとして持っているわけです。 ところが、日本人が自らの文化を見る時に、外国のモデルで日本を見たがる。 中国や西洋をモデルに、日本も同じだとか追いついていないとかやっている。 しかし日本は別のやり方で内なるグローバリゼーションをやってきて、それが日本の文化の型なんだということを自覚しないことが、日本の一つの大きな問題、「スーパーグローバル」のような珍妙な言葉を生みだしてしまう問題ではないかと思うわけです。 残念ながら、もう時間も来ましたので、スピーチはここまでにいたします。 





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