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第4回クオリアAGORA 2015/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

 

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ディスカッサント

くいだおれ取締役

柿木 央久さん


武庫川女子大学名誉教授

高田 公理さん


京都大学大学院理学研究科教授

山口 栄一さん



モデレーター

写真家

荻野 NAO之さん





荻野 NAO之 (写真家)


では、まず、ディスカッサントのお三方に、普段、どういう時に、どういうところで京野菜を食べますか、ということをお聞きするところからはじめましょうか。 そういう質問するとなると、お前はどうなんだということになるので、ちょっと自分のことから言っておこうと思います。 うちは、まあまあ、比較的うちで料理らしきものはする方だとは思うんですけれども、じゃあ、京野菜を自覚的に使っているかというと、それは、残念ながら、ないです。 たまたま、買っているということはあっても、ある料理を作るために京野菜をわざわざ買ってというのは、ちょっとありませんですね。 まあ、どっか外に食べに行く時に、京野菜を売りにしているところで食事をする際、意識して注文するということはあります。 で、それは、どういう時かというと、例えば外国人のお客さんが来たというような時なんですね。 そういうのが、私の現状なので、まあ、お三方は、もっとちゃんとそういうものを食べておられると思うので、どんな時、どういうところで京野菜を食べているのか、お聞きしてみましょう。 山口さんどうぞ。 



山口 栄一 (京都大学大学院思修館教授)


きょう、私はたまたま教育学研究科に呼ばれて、ある講演をしました。 そこで「結晶成長において、結晶のできの良し悪しを、作り手はどのように目利きするのか」を問われたんです。 私は、次のように答えました。 「私は科学者なのに、えらく非科学的なことをいうけれど、いい出来の時は、ものが語りかけてくるんですよ」と。 「ものが語りかけてくるとしか、表現できない」と。 すると、予想通り「なんのこっちゃ」という、反応だったんですけど、精神科医の人が「実によく分かる。 結構、無意識が関係している」と言ってくれたんです。 


ですから、きょうのお話を聞いていて「京野菜をどう定義するか」は、最終的には生産者なんだ、と。 なるほどなあと思いました。 生産者の心意気なんですね。 つまり、生産者は、ものと語らっているということですね。 京野菜は、語りかける。 そういうキャラクターを持っている野菜なんだろうなあっていうことがよくわかりました。 確かに食べてうまいですからね。 


それで、ふっと思いついたことがあります。 私の大学院博士課程の学生さんで、青森県の農業試験場の方がおられました。 山本晋玄さんとおっしゃいます。 彼、突然4年前に私の研究室を訪ねて来られて、「ぜひ入門したい。 そしてコメ農業をこれからどうするか、それを博士論文にしたい」とおっしゃるわけです。 彼は、システムダイナミクスを用いてTPPが導入されても日本のコメ生産が持続し、最終的に世界に輸出されるようになるまでのシナリオをみごとに書きあげて、技術経営の博士号を取り、また青森県庁に帰られました。 1年半前のことです。 


その彼から、3日前にお米が送られてきました。 「青天の霹靂」というブランドです。 そこで、折角ですからコシヒカリの新米を買ってきて、食べ比べしました。 すると、この「青天の霹靂」のほうが圧倒的にうまいんですよ。 「青天の霹靂」の系統樹を見ると、「ひとめぼれ」がはいっているので、まあ、コシヒカリ系統が少し入っているのですが、きょうのお話を聞いて、心から、心をこめて作るとうまいものができる、ということがよくわかりました。 


それで、一つ間藤先生に質問していいですか。 あの17の必須元素の中に、なぜモリブデンが入っているんですか。 モリブデンなんて、生物の成長に関係ないんじゃないでしょうか。 



間藤 徹 (京都大学大学院農学研究科教授)


ないと枯れます。 恐らく、胚配位結合を作れる金属で、太古の海ではモリブデンは濃度が高かったようなんです。 鉄も酸化されており、鉄は酸化されてしまってほとんど海水に溶けておらずモリブデンは溶解度が高くて、生体に取り込まれるチャンスが高かったんじゃないか、と?。 モリブデンは酸化還元に関与するんです。 特にニトロゲナーゼというのが、窒素ガスをアンモニアに変えるのに一番大事だといわれているんですけど、これが、モリブデン酵素なんです。 モリブデンがないと生命は成り立たない。 非常に大事です。 



山口


モリブデンなんていうけったいな物質が入らなきゃいけないんだというのは、多分、ある種経験的にわかっていることかもしれませんが、多分、心のこめ方で、入れ方も変わると思うんですね。 要するに、半導体と一緒で不純物が決めるんですね。 



間藤


確かに、不純物が一番効いてたりする面もある。 



荻野


山口さんは、普段、どんなところで京野菜を食べるんですか。 



荻野


京都にいる時は、普段もほとんど外食なので、その時は、京野菜を食べています。 外食に行くときは、できるだけいいものを食べようと…。 前にも言ったと思いますが、私「味の素アレルギー」なんですよ。 基本的には、それを使わない料理屋さんに行きますので、そういうところでは京野菜を出してくれます。 京都にいる時は、ほぼ毎夜に、そういう贅沢をしています。 



荻野


では、柿木さん、どうでしょう。 



柿木 央久 (くいだおれ取締役)


私、神戸、阪神間で育って、生まれは大阪。 仕事も大阪。 京都に住んだことはないんです。 阪神間で京野菜を買う、まあ、大体京野菜を使うお店っていうのは殆どないんですが、買うとなると、デパートの地下の「京野菜コーナー」ということになります。 


私、あの店を閉めてから、もう7年になりますが、実は、日本の外食業界に絶望しておりますんで、外食はほとんどしません。 で、基本的に全部家の料理を食べています。 それで、どういうふうに食材を選ぶかというのは、おいしいものを食べたいというだけなんですね。 これ、山口先生がおっしゃったと同じように、おいしいものを見てですね、おいしそうというのではなく、向こうから語りかけてくるというか、買いたくなるんです。 うちでは、家内と私で、料理の分担ができているんです。 私が魚、家内が野菜というわけです。 私は、魚を買いに行った時は、献立ではなく、季節に合わせて買いたい魚を買い、それから、どうやったら一番おいしいかを考えます。 家内の方は、スーパーではなく、産直の売り場とかで、おいしそうな野菜をとりあえず買ってきます。 


それで、今回の京野菜ということなんですが、この定義というのはちゃんとしないと具合がわるいなと思います。 食べ物屋というのは、実は、偽装との勝負でして、最近、よく偽装問題が表に出ますけれども、あんなの、われわれから見ましたら、起こって当たり前です。 生産地から、市場の流通、仕入れの業者。 仲買人、その先、調理場からお客さんへと段階がありますが、どの段階でも偽装は起きて当たり前です。 まともにやろうと思うと、各段階で、ちゃんとほんものの注文したものが来ているかどうかチェックするのが一番大事なんです。 ところが、例えば鉄道系のホテルでは、経営者が鉄道から来ていますから、そのへんが全然わからないんですね。 


もうひとつ私が、食の業界に絶望している理由なんですが、情報です。 今、みなさんは食に関する情報は、ネットも増えてきましたが、ほとんどテレビと思うんです。 テレビコマーシャル。 後は新聞、雑誌…。 それらの情報は、まず、嘘だと思ってください。 それぞれ、個々の情報が全部間違っているかというと、そうでもないんです。 そうではないんですが、正確に言うと、極めて不正確な情報で、トータルに見ると嘘になってしまう。 


職人さんとか、仕入れの流通の人は、実際のことを知っています。 例えば「何がうまい。 何がいい、何が悪い」とか。 しかし、お客さんとか経営者は、そのテレビとかの情報で踊るわけですよ。 だから、シバエビならシバエビがいいとか…。 ところが、流通を実際にしているところとか、ちゃんと自分で見ている業者、職人というのは、そういう見方はしないですよ。 まず、いいものか、うまいものか、どうかで選ぶ。 だから、私の知っている店は、ちゃんとおいしい、いいエビを選んできて、単にエビとしか書かない。 産地とか、何々エビと書かないんです。 そういうこととは関係なく、ちゃんとしたものを選んできて出すので、偽装なんか必要なく、起こり得ないんですよ。 


そういう意味で、京野菜っていうのも、どういうふうに京野菜かどうかを判断しているのか。 まず、一つには、京野菜と行政が決めている品種がありますね。 まずそれがあります。 で、今、間藤先生と石割さんがおっしゃった、話題になっている京野菜は、その中でも本来の京野菜のクオリティーを備えているものだと思うんですよ。 ただ、それを、ぼくらみたいな京都育ちでないものには、それは違うとか、そうでないとか判断できない。 だから、仮に、阪神間のデパートで京野菜といわれるものを買っても、それが京野菜というのに値するものかどうかわからない。 ぼくも、エビイモとかミズナは大好きなんですけど、その産地が、京都かどうかはわからない。 兵庫県産とかだったりします。 それでも、京都産のものが手に入りやすいわけではないので、一応満足して食べていますけれども、それが京野菜なのかどうかわかりませんと答えるしかない。 もう少し、その辺り、おいしい野菜を勉強したいと思っていますけれども…。 



荻野


じゃあ、高田さんどうぞ。 



高田 公理 (武庫川女子大学名誉教授)


ぼくの場合は1週間、3×7=21食として、うち外食は2回ぐらい。 だから、90%近くは自宅で食べていることになります。 京野菜に限りませんが、野菜は銀閣寺道バス停近くのメルシーマルギンの八百屋・河卯さんで買います。 非常にまじめに野菜を扱っている店です。 魚は主として「マイ・ウェイ」という不思議な名前の店で買います。 ここの主人は、堺で千利休に魚を納めていたという由緒ある魚屋さんの末裔だそうです。 その人が千早赤阪村の農家の女性と結婚したんですが、やっぱり、どうしても魚屋がやりたいというので、京都の修学院に店を開いた。 ここで魚を買うと、その特徴や来歴をきちんと説明してくれます。 で、そういうのを聞くと、さきほどから指摘されているように、テレビをはじめ、マスコミ情報のインチキさ加減がよく分かります。 ヨメさんと一緒に、そういう店で話を聞き、自分の目で見て魚を買い、家で料理して食べる。 ぼくの食生活の基本形は、こういうことになろうかと思います。 


ぼくの場合は1週間、3×7=21食として、うち外食は2回ぐらい。 だから、90%近くは自宅で食べていることになります。 京野菜に限りませんが、野菜は銀閣寺道バス停近くのメルシーマルギンの八百屋・河卯さんで買います。 非常にまじめに野菜を扱っている店です。 魚は主として「マイ・ウェイ」という不思議な名前の店で買います。 ここの主人は、堺で千利休に魚を納めていたという由緒ある魚屋さんの末裔だそうです。 その人が千早赤阪村の農家の女性と結婚したんですが、やっぱり、どうしても魚屋がやりたいというので、京都の修学院に店を開いた。 ここで魚を買うと、その特徴や来歴をきちんと説明してくれます。 で、そういうのを聞くと、さきほどから指摘されているように、テレビをはじめ、マスコミ情報のインチキさ加減がよく分かります。 ヨメさんと一緒に、そういう店で話を聞き、自分の目で見て魚を買い、家で料理して食べる。 ぼくの食生活の基本形は、こういうことになろうかと思います。 


そこで……間藤先生のお話を聞きながら「社会学」について考えてみました。 というのも、ぼくは今年の3月まで、社会学部で教えていたのですが、それ以前に、社会学の講義を聴いた体験が皆無なんですね。 だから却って「割合ええ社会学の講義」ができたんではないかと思っています。 つまり、社会学は英語ならSOCIOLOGY――ヨーロッパで始まった学問です。 この単語を分解して、その意味をたずねると「SOCIETYについてのLOGOS」ということになります。 ところが、SOCIETYに対応する日本語が見つからなかったからか、明治中期に福地桜痴という新聞記者が、その翻訳語として「社会」という言葉を作ります。 それでSOCIOLOGYを「社会学」と呼ぶようになりました。 でも、少し考えてみると、SOCIETYに対する日本語は、もともと日本語にあった「世間」に対応するのじゃないか。 で、LOGOSは「知性」のほか「話」といった意味をはらんでもいる。 とすると、SOCIOLOGYを素直に「世間話」と翻訳してもよかったように思うんですね。 


こう考えてみると、SOCIOLOGYを「世間話」と訳しておいてくれたら、ずっと楽しくて立派な学問になっていただろうな、などと、なかば冗談、なかば本気で想像するのですが……。 実際、東大で社会学の講座を作るとき、フェノロサだったと思いますが、彼は社会学のかわりに「世態学」という名前を考えていたようです。 この名前が選ばれていたら、SOCIOLOGYの運命は変わったでしょう。 だけど社会学は、もっぱらデュルケムだとか、マックス・ウェーバーだとか、日本のことなど何も知らない欧米の学者の本を翻訳して学ぶだけの、つまらない学問に堕してしまった。 こういう学問は碌な成果をあげることができません。 ところが、ぼくは幸い、社会学の講義を受けたことがないので、ひたすら現代を中心に日本の世の中、つまりは「世間」がどういうことになっているのかを考えてきたわけです。 というわけで、学問としてはまだしもこちらのほうが上等なんじゃないかと考えている次第です。 


こうした問題は社会学だけに限りません。 多くの学問は欧米の学問の輸入で間に合わせてきたようなところがあります。 でも、それでは駄目なんじゃないか。 そういうことに気づく人が少しずつ増えてきた。 そこで間藤先生のお話ですが、ずっと農学をやってこられて、「この農学ではあかんのんと違うか」ということにお気づきになり、日本の大地と気候と文化に則した農業をめぐる学問として展開され始めた。 そういうことではなかろうかと思います。 


今ひとつ、この話は昭和40年代の日本の養鶏事情につながります。 当時、ぼくは初生雛人工孵化業、つまりは鶏のひよこ屋をやっておりました。 ちょうどそのころ、日本の鶏が在来種から急速に、アメリカやカナダからの輸入種に取ってかわられたわけです。 その際、アメリカやカナダの種鶏場のやりかたは実にすごかった。 孵卵器で暖めると親鳥の雛になる卵を日本に輸出するのですが、その1代目は、採卵鶏なら卵をよく産むし、ブロイラーなら60日で2キロぐらいまで育つ。 でも、2代目になると全然だめ。 で、結局、日本の鶏のほとんどが、生産効率のいい輸入種の採卵鶏とブロイラーに取って変わられたわけです。 ちょうど日本人が「モーレツに働かされた高度成長期」の話です。 が、それからしばらく、1980年代の終わりごろになると、とくに肉用種の場合、名古屋コーチンだの比内鶏だの、いわゆる「地鶏」、つまりは在来鶏が重用され始める。 やっぱり日本の風土に合った遺伝子を持つ鶏を大切にしていこうということになってきたわけです。 


少し長めのタイムスパンで捉えると、いろんな面でこうした大きな時代の流れが観察できるように思います。 つまり近代という時代は、徹底して普遍的な科学でやっていこうとした。 農業に則してその象徴を取り上げると、たぶんアメリカのモンサントといったような企業が思い出されます。 ところが、こうした動向に伴う問題が今日、徐々に顕在化し始めている。 まあ、モンサントの農薬は、世界のどこででも通用するのでしょう。 でも他方では「殺人的」とでもいわざるをえないような問題を顕在化してもいる。 それが今日までの農薬の基本だったのでしょう。 しかし最近、「うーん、やっぱり、ちょっとおかしいんと違うか」という疑問が出てくるようになった。 それが野菜の世界、魚の世界にも伝わり、間藤先生の農学や近大の養殖漁業などを活性化させている。 それが「焦眉の現在」という時代なのだという気がするわけです。 


そういうわけで、ぼく自身、野菜に関しては、何十年も河卯さんに勤めている人のお勧めを頼りに野菜を買うわけです。 魚もマイ・ウェイで買うようにしています。 すると、戻りカツオは日本海、対馬あたりで獲れたのがうまいといったことを教えてもらえる。 現場の話を頼りに、食生活を営んでいるといったところです。 



荻野


ではもう1回、京野菜とは何かということで少し、お話しを続けたいと思います。 それで、ちょっと質問を加えさせていただきたいんです。 それは、京野菜の京というのは、京都市なのか京都府なのか。 川とか山とかで区切られた地形で食文化も違ってきます。 この辺を念頭に置くことも大事だろうかと思うんですが。 間藤先生からどうでしょう。 



間藤


そうですね、まあ、これが京野菜で、これが京野菜でない、というのは、結構不毛の議論なんで、恐らく本質ではない。 これ、石割さんのほうが詳しいんですが、京都府は「伝統野菜」、京都市は「旬野菜」というように、行政的な垣根がありまして…。 これは京野菜、これはそうではないとかの区別がありますが、これはあまり意味がないんだろうと思います。 もちろん、京都でも、大原野のタケノコ。 あれは、大阪層群といって、昔この辺まで海が来ていたころの地層が残っていて、いい竹が生える土壌なんです。 それから、宇治のお茶もそうですね。 宇治川の霧がかかるし、やはり大阪層群。 本来、余り良い土じゃないんですね。 でも、お茶にはいい土壌なんですね。 栄西がいろんな所に植えたんですけど、宇治に残った。 この二つのものには合う土壌で、土壌が、もちろん規定している部分もある。 


もっとベタな話をしますと、ナスっていう水をかけて作る。 よく水をもつ。 トマトっていうのは水を切って作るものです。 だから、ナスやトマトって言うけど、本来は、ナスが得意な人は、トマトが下手だし、トマトの上手な人は、カチンカチンのナスになるはずなんです。 本来は、そうなるはずなんです。 そういうところが、他の地域とは違う定義になったかもしれない。 しかし、今の農業では、技術的にいろんなことがわかっていますからアジャストしながらできるし、トマトは、ビニールハウスの水耕栽培で1年中できるようなシステムになっていますので、地域的な違いはもう難しい。 


もちろん、きっかけは京野菜なんですけど、最前の話にも出たように、大阪野菜でもいいし、加賀野菜でもいいし、結局、ローカルにそういうものがはぐくまれてきたのは、もちろん自然環境もあるけど、バックグラウンドもあるわけで、京野菜の定義というところで、あんまり、京都市と京都府が鍔迫り合いしていますけど、そんなようなことは本質じゃないだろう。 ぼくらが、自分たちの生活をハッピーに送るためにどうするかっていうスタンスが大事で、たまたま、ここは京都なので京野菜なんですけど、それで、いいのではないかと思います。 



高田


京野菜という表現には、いくつかの意味があると思います。 マーケティング的には、「これこそ日本文化のふるさと京の都の野菜なのだ」と感じさせるためのネーミングなんでしょう。 だけど、一般に京野菜といわれているものは、いわば鉄道をはじめ近代の流通機構が成熟する以前に京都周辺で栽培され、それ以上は外に出ていかなかった野菜を指すのではないですか。 つまり京都盆地で作られたものは京都盆地で消費されていた。 それが京野菜というものなんだと思います。 もっとも現在は既に、賀茂で作られていたナスが一部、亀岡あたりで作られている。 で、そういうのも含めての京野菜と考えていい。 こんないいかげんなことではダメでしょうか。  



石割 照久 (京野菜マイスター 嶋石社長)


もともとは、京都府が「京都の伝統野菜」というのを打ち出して、その定義は、明治以前に作られていた野菜ということで打ち出しました。 で、これに対し、京都市のほうが、「旬野菜」というのでいこうと。 旬の時期に作る野菜を京野菜とした。 ところが、これ、いろいろやっていくとごちゃごちゃするので、総称して京野菜になったという感じを持っております。 


ですから、もともと、京都市内で作られていたという賀茂ナスなんですが、芹川セリカワマルナスといわれたものが今の賀茂ナスです。 伏見の酒蔵のある、ちょうど高瀬川の西側、下鳥羽の芹川町というところがあるんですが、そこで作られていたのが最初。 そこから順番にずーっと上がっていったと言われています。 まあ、伏見城があった関係で、あのへんにいろんな野菜が集中しています。 九条クジョウネギなんかでもそうです。 稲荷建立の時、ネギは精が強いですから、仕事される方の滋養強壮のためのもので、大阪から持ちこまれたのが始まりといわれています。 京都府下全部を含めて京野菜と現在はそう言っていますが、もともとは、丹後とか亀岡あたりは穀物を主に作っていた。 最近になって野菜を作る人が多くなってきたわけです。 


それから、ショウゴイン聖護院ダイコンですけど、これも言うと、聖護院と名がついておりますが、もともとは名古屋の尾張オワリダイコン。 それが、この吉田山のむこうっ側向っ側の山裾の肥沃な土の中で作られてああいう形に変化していったんですね。 京都の水菜ミズナは、今の壬生菜ミブナのことです。 今の水菜ミズナっていうのは、大阪の水菜ミズナです。 もともと、大阪から入ってきて、どうなったのか分からないのですが、壬生あたりで突然変異をして壬生菜ミブナという名前で区分けしたんですね。 これ、京都では、少し魚が新鮮でないので、炊く時、臭みをとるのに壬生菜ミブナと一緒に炊きました。 そして、壬生菜ミブナは捨てていたんです。 魚だけ食べていた。 


こういうことで言いますと、京都の市内、盆地の中で作られていたものというのが、京野菜のルーツではないかなと思いますが、もう、九条ねぎも丹後でも作られていますので、まあ、府内で作られている伝統的なものとか旬の野菜とか総称したものが京野菜ということになっていると思うんですね。 



荻野


なかなか京野菜とは何かということは難しいようですが、京野菜の定義については、ある程度、この場で共有できたかと思います。 それで、これから、次世代の農業を考えるというふうに移っていきたいと思います。 



木村美恵子 (タケダライフサイエンス・リサーチセンター長)


私は、健康のためにも、高くても、地元のいい野菜を食べることが大切だと考えており、それを実践しています。 これまで、京都の人のすばらしい味覚というものがあって、京野菜ができてきたのだと思います。 ですから、これからも、消費者の側に立って、おいしくて健康にいい野菜を提供しようという視点から、京都の野菜づくりが進めていかれたらと思います。 安いからいいという風潮はダメです。 若い人にいいものを食べさせないと…。 いいものを食べれば体にいいんですよ。 



間藤


木村さんがおっしゃる通りで、石割さんが、私たちと組んでくれたのは、そこなんですよ。 この農場でできたものを食べると、学生も、スーパーのものよりおいしいということがわかってくる。 農場の試みは、こういうふうに作ったものがいいんんだということで、木村さんのおっしゃることの一つの方向付けになると思っています。 



柿木


私は、副業で音楽批評をやっているんですが、例えばロックとは何か、ジャズとは何かという命題があって、それで、あんなのはロックじゃない、あんなのはジャズじゃないというのが出てきます。 それと、そんなのは京野菜じゃないというのと、非常に似ています。 これ、つまり、ジャンルの問題とジャンルを超えて、それがいいのかよくないのかという評価が、ごっちゃになっているんですね。 


京野菜も、ジャンルとしてみれば、京都伝統の野菜ということで、賀茂ナスとか何種類かあります。 まずそれがひとつの定義。 ややこしいのは、なるほど京都でできたカモナスなんだけど、それにもおいしいのとまずいのがある。 じゃあ、仮に京都以外のエリアでできたカモナスがおいしかったら、それをどう見るか。 で、仮においしかったら、そのおいしさは、京都でできたものと同じようなおいしさなのか…。 例えば、兵庫県で賀茂ナスを作りました。 非常においしいんだけど京都の賀茂ナスと味が違うぞ。 こうなると、京野菜とは呼ばないでしょうね。 これ、音楽としてはいいけど、ロックじゃないよということになるわけです。 逆にですね、石割さんが今やっておられる、今までは火を通しておいしいようにできていたカブが、生で食べたらおいしいようにできたと。 これは伝統的な京野菜の味とは違うわけですね。 でも、おいしいと。 これを京野菜と呼ぶのか。 実は、ロックとかジャズっていうのは、学問的にある程度の定義をしたり、仮説を立て定義をすることはできるんですが、最終的には、みんなそれをそう呼ぶかどうかというところで決まるるわけです。 


それから、現実に考えると、食材の流通なんですけれども、今、スーパーとかで出回っているものは、近畿一円、かなりのものが中央卸売場を通ったものです。 魚に関しては非常にいいものがあるんですが、野菜については、いいものがあんまりない。 量と規格が野菜は全てなので、そんなにいいものがない。 大阪でも、例えば、ナスの非常に上手な農家があるんですが、それは、中央市場にはいかないで、料理屋とか小売店とかに直接行くんです。 残りは、道の駅に行くんですね。 だから、そういう流通から考えると、京野菜と呼ばれているもの、誰もがそう呼ぶようなものは、中央卸売市場を通さず、料理屋や小売店などに直接流通しているのだと思います。 そして、これ、新しい農家がやっているのではなく、連綿と作り続けている農家がそういうことをしている。 


例えば、日本酒なんですが、おいしいお酒を作れるかどうかというのは、材料とか技術も大切ですが、肝心なのは、実は、どういうものがおいしいかを感じることができる舌なんです。 ちょっと、石割さんにもお聞きしたいと思うんですけれども、恐らく、連綿と続けられてきた農家さんは、こういうのがおいしいというものを共有しておられて、今、そういう世界に戻ってきたんじゃないかと思うんですね。 音楽を作るのと似ているかもしれないですね。 京野菜とみんなが呼ぶようなある種の流通のシステムがあって、京野菜と思うような味があって、これが連綿と受け継がれていく。 だから、初めて食べた人も、間違いなくおいしいと思うだろう。 そんなたぐいのものが京野菜ではないかと思うんです。 



石割


うちは、もし流通の方がおられたら申し訳ないんですが、すべて直接売っています。 京都含めて全国300ほど料理店を持っています。 後は、東京の某百貨店と老舗のスーパーになります。 うちは、自分のところで穫れたものを、決して高く売るんじゃなくて、原価をはじき出して機械償却の分を含めて、「これだけですよ」という部分で出しています。 ですから、「何でこんな安いんや」と言われるぐらいの値段で出ています。 後は、流通マージンとかで高くなっているんだろうと思います。 自分とこでは、決して高く売っていないです。 先ほど味覚の話がありましたが、味覚を育ててもらうために、おいしいもの、より安全でいいものを提供していくということを、食を担っている一番元の人間がやっていかないと、これからみなさんに食べてもらえなくなっていく、と思っております。 


それともうひとつ、きょうのテーマで、この先を考えていくという部分なんですが、これから、みなさんが何を求めているかという、そのことを見ながら野菜づくりをしていかないといけないと思っているんです。 例えば、白菜なんかでも、大きなものをスーパーでは切って売られていますね。 それを、まるまる1個の状態で買ってもらえるようにしていこうと思うんです。 そのために、そんなに大きくないサイズの白菜も作る。 ここの農場でも、そういうのと、従来通りの大きさのものを作る試みをして、若い人たちがどういう選択をするか、ということを見ながらやっています。 これ、今後の農業に、ずいぶんヒントになります。 ということで、農家も、昔ながらの伝統的なものを守っていかねばなりませんが、技法なりを少しずつ変えていって、次の世代につなげていくっていうようなやり方をしていかなければ、農業の発展はない。 私は、そう思って、そういうやり方をしています。 


荻野


では、ご参加のみなさんから意見をうかがってみましょうか。 



三木 俊和 (大阪経済大学大学院)


私は、和食と農業に関心を持っています。 自分自身でも、野菜は、道の駅や近所の小さな店で買うようにして、妻の勧めで、蒸すことで野菜本来のうま味を出して食べるようにしております。 それで、うかがいたいのは、京野菜といいながら外国産の種苗を使っていたり、無農薬とか有機野菜と言う定義が曖昧だったり、それがいいかどうかも疑問符がつくというような話を聞きます。 これ、どうなんでしょう。 



間藤


有機に関しては、今、法律ができています。 守るか守らない別ですけど、これ以外は有機と言ってはいけないというように定義ははっきりしています。 苗を作る時も有機に使う苗は、こうあるべきだというのがあるんですけれども、苗から完全有機というのは、これ難しくて、苗のところは不問に付すというのが今の状況かと思います。 有機の苗は有機の種からとらなければいけないので、最低2年はかかる。 苗に関しては、有機栽培はするんだけど、種が有機栽培されたものからきていない場合もあります。 それが輸入されている場合もあります。 なので、グレーゾーンですね。 


それをしても有機として通ります。 それは、ただ、生産者の方の心意気の問題なので…。 大事なのは本質ですから、法律に違反していなかったらいいのかということです。 定義付けをしてしまうと、本来、有機というのは、物質循環の中で野菜を作ってというふうにあるべきなのに、これは法律で許される殺虫剤、肥料であるっていうんで、法律にしてしまったが故に本質を失っている部分もあるんですよね。 本来は、肥料を入れなかったら、虫もつかんだろう。 だから、無農薬になるというのが結果であって。 これさえ使わなければ、これは有機といっていいよっていうと、いろいろ虫を殺してしまうわけですよ。 これは本質ではないので、けしからん有機があるよ、というひとつの論拠になるんです。 



石割


あのね、種屋さんの種は、ほぼといっていいほど外国産です。 特にF1種っていわれるものは外国産ですね。 有機の議論については、今、間藤先生がおっしゃってる通りでグレーゾーンがあります。 法律を守らなければならないところはきっちり守る、というのが現状で、種、苗については少し疑問が出ていますね。 



山口


次世代の農業ということで、ちょっと日本酒の話をしたいと思います。 実は、20年ぐらい前、日本酒が大変レベルが下がった時期がありました。 大量生産で、酒飲みに飲ましときゃいいって感じだったと思います。 ところが、アメリカから、セーラ・マリ・カミングさんが長野の酒蔵にやってきて「日本人がこんなお酒を作っていてはダメだ。 ちゃんと作れば、世界が認めるお酒になる」といって、その言葉で、その酒蔵がいいものを作り始めたんですね。 そうやって、日本酒がとてもよくなってきた。 


農業も同じです。 今や農業は、もう産業じゃなくなって、誤解を恐れずに言えばもう「福祉」になってしまった。 農業人口は既に5%で、それも切ろうとしている。 産業ではなく福祉だから、若者が農業にチャレンジしようと思わない。 しかし京野菜は、野菜界のシャネルです。 価値があるんです。 価値が有るものを作れば、必ず感性が磨かれ、産業として勝てる。 これ、セーラ・マリ・カミングさんのお酒の例が示していることです。 


私は、北海道で農業従事者の取材をしたことがあります。 その中で三浦さんという、三浦農場という100ヘクタールの畑をたった一人で耕作している人とお会いして、目からうろこの話を伺いました。 彼は、小豆、大豆、ビートそして小麦を輪作しています。 で、小豆は、決して卸売市場には出さない。 混ぜられるからですね。 せっかくいいものを作っても台無しになりますからね。 基本的に六花亭に出す。 そういうシステムを彼は作りあげた。 年間10億円ぐらいのお金を回す本当のベンチャー企業です。 このように北海道では、立派に産業として農業が成り立つんですが、本州に来た途端、福祉になっちゃう。 だから、どうやったら次世代の農業が作れるかというと、それは決まっていて、価値の高いものを作るしかないと私は思います。 



柿木


私は、その、価値のいいものとは何かというのが、一番大きな問題だと思いますけどね。 



山口


ええ、だから、もちろん、それは、京野菜がシンボリックにそれを代表している。 誰も、この中で、京野菜がまずいといいませんよね。 



柿木


実は、そこに、疑問を投げかけたいんですよ。 ブランディングとは何かということで、それをみなさんは誤解しておられるんじゃないか。 実は、辻調理師学校の企画の方が仰っていたことなんですが、ブランディングというものをやめようというのです。 ブランディングというものはテレビなどマスメディアに馴染むものなのです。 結論から言うと、京野菜、京野菜っていうのはやめなきゃだめじゃないか。 そうではなくて、おいしいもの、おいしい野菜というのが、まずあるべきことで、そのヒントというか、手がかりに京野菜をするのはいいが、京野菜かどうかというのは、いま、おっしゃっていた有機かどうかとかいうことと同じで、あんまりそういうこと、境目を言わないのが大事だと思うんです。 



山口


ぼくは反対です。 それはある種の悪魔のささやきで、今日示された1枚のスライドがすべてを物語っていると思うんです。 つまり、京野菜っていうのは、生産者が決めている。 生産者の心意気が京野菜を作っているんだと。 これは目からうろこです。 私が最初に言ったように、心意気がいいものを作るんですね。 もちろん目利きが要ります。 消費者の目利きが必要ですけど、幸い、私たちは目利き力を持っている。 



柿木


実は、食の味覚に関しては、マーケットが日本全国一様じゃないんですね。 われわれ、食べもん屋から見ますと、まず、関東と関西では圧倒的に次元が違います。 関西が上ですから。 で、その関西も一様ではなく、われわれ大阪人からすると、京都の懐石料理は大しておいしくないんですよ。 京都で感心するのは、野菜料理、豆腐料理とか、お麩料理なんです。 これは、料理屋のレベルというより、京都に住んでいる方の注文がうるさいんだと思います。 だから、京都という所は生協とかでも、いい野菜、おいしいものを安く売っています。 逆に、魚に関しては、大阪、神戸の方が目利きがうるさい。 やっぱり、京都は種類が少ないし、ごく一部のものに関しては非常にうるさいですけども、鮮魚一般に関しては、やっぱり全然レベルが違うと思います。 


あとケーキ。 これは、圧倒的に神戸がレベルが高い。 どういう違いに現れるかというと、例えばフランスパン1本が、200円で売れるか230円で売れるかの違いなんですね。 神戸では230円で売れるんです。 大阪とかのマーケットでは、200円超えたら売れない。 おいしいから、お金を払うということにはならないんです。 確かに、この5年ぐらいでは大阪も変わってきましたが…。 目利きも、一概にはいえない。 



山口


おっしゃるとおりだと思います。 魚に関しては、京都から西へ行くほどおいしくなっていくと思います。 私は博多出身なので、特にそう思います。 時々、大阪に行きますけど、大阪は、残念ながら「安かろう悪かろう」の世界だなといつも思うんです。 何でこんなふうなブランディングに失敗してしまったのかと思います。 



柿木


私は、もう、今の外食には絶望してますから…。 



深見 治一 (京都学園大学副学長 バイオ環境学部長)


私は亀岡にいるんですけど、JA直売の「たわわ」というところで野菜を買いますが、それは、みな生産者の名前が書いてある。 丁寧に作っておられておいしいです。 ただね、私、吉兆のシェフの方に、大学に来てもらって、コシヒカリと日本晴を同じ炊き方で炊いて、どっちがうまいって試したことがあります。 そしたらね、区別がつかない。 炊きたては、全然変わらない。 そういうふうに考えると、ほんとうにおいしいとかおいしくないということは、なかなか難しい問題だと思います。 どういうものをおいしいっていうのかっていうのは。 私は、新しくて、作りたてのものっていうのが野菜もそうで、京都産やからっていうんじゃなくて、新しくて、フレッシュなものがおいしいと考えます。 それと、私、温室で作ってもいいと思っているんですけど、農薬もきれいに洗えば取れるし、かえって虫や菌でがんになることもありうるし、どこのものでも、こだわらずに、ちゃんと育てた健全で、新鮮なフレッシュなものを食べていくことが大事だと思います。 京都産とか、そういうこだわり方を余りしてほしくないですね。 



間藤


京都のものを、京都で食べればいいわけです。 遠くから運んで来たものでなく、地元のものを地元で。 新しければ、何でも大抵おいしいですからね。 すぐ食べれば。 



高田


「ホンモノとニセモノ」という区分、「上等と安物」という区分が、しばしば混乱するように思います。 くわえて今ひとつ、たとえば日本酒に則して言うと、1990年代には「純米吟醸こそ日本酒の理想型」といったイメージが広がりました。 あるいは同じころ、越乃寒梅などに代表される越後の「水のような酒」が重用されたといった事実もあります。 でも、こうした酒が今では余りはやらないようですね。 



柿木


うちで新潟県の地酒のフェアをやった時、新潟と言えば普通は水みたいな酒といういわゆるきれいな酒ですが、新潟の県事務所の人に選んでもらったら、そういうものは選ばれなかったんです。 いわゆるきたない酒、灘、伏見と同じようなタイプの酒がおいしいと選ばれたんですね。 越の寒梅は、新潟ではあんまり売れていなくて、それを、東京でブランディングして成功しただけです。 評価は全然高くない。 



高田


そういうこともあったんでしょう。 でも、東京で評価されて、それがナショナルなレベルに広がると、ちゃんと値段も高くなるんではないですか。 



柿木


マーケット全体ではそうではないのに、テレビという媒体の中ではそういうことになってしまったんでしょうけども。 







松原 守 (京都学園大学バイオ環境学部教授)


ぼくも、バリバリの分子生物学者で、今まで野菜なんて作ったことなかったんですが、畑に行って、学生と一緒に作るようになりました。 できたものは、ほんとにおいしい。 京野菜はおいしく、ブランド化もされていておいしい。 例えば、テレビでやっているサプリみたいに健康にいいとか、やってみるとか、さらに、付加価値をつけるにはどうしたらいいかとわれわれも考えているんですが、京野菜に付加価値をつけるにはどうすればいいんでしょう。 



高田


今のお話の参考になるかもしれないのは、ワインの世界におけるボルドーワインの戦略です。 たしか19世紀の後半ごろ、イギリス人が中心となって、ボルドーワインの評価の基準が決められました。 で、以後、それが基準となってワインの良し悪しが評価されるようになった。 その結果、たとえばアルゼンチンのワインなどは、味がどぎつくて余り高く評価されなかった。 ところが、20世紀の後半になると、日本で本格的なワイン造りに従事した浅井昭吾さん(故人)などが、そのアルゼンチンのワインを、味の濃厚なアルゼンチンの牛肉に合わせると、むちゃくちゃ旨いなどと言って高く評価するようになります。 つまり、単一の価値基準を設定して頂点から裾野までを一列に並べるスペクトルのようなもので、ものの価値を一意的に決定するやりかたは余りよろしくないように思います。 味に関しても、うまいものはいろいろあるわけで、「これぞ美味」といった単一の思い込みに支配されるのは面白くないように思います。 



荻野


農業従事者には酷な質問かもしれませんが、石割さんご自身が10年前、20年前と今と、お作りになっている野菜は、変化してきましたか。 常に同じ味なのかどうなのか。 農家の場合、経験を積んだらおいしくなっていくものなんでしょうか。 若い時はダメだったけど、今はうまくなった。 同じ農家から出てくるものなのに、先代の時はよかったけど今はダメだとか…。 いや、これ、石割さんのことじゃないですよ(笑)。 こういうことが伝われば、売れるのかということと関係してくると思うんですけど。 



石割


確かにおっしゃると通りで、私、最初、農業が嫌で、ハイテク企業に務めていたんです。 この会社は、ほとんどがオーダーメード受注で、お客さんから来る注文にすべて答えるというやり方の会社でした。 それを辞めて農業に入って、最初は、市場がいいとするものを作っていました。 それは何だというと、化学肥料をやって、農薬をかけて見た目,容姿がべっぴんであればいい。 味は二の次。 形もすべてこのものという規格にはまったものを作っていました。 これは違うやろって気づいたのは2、3年後です。 それで、自分で試行錯誤して、少しずつ味がよくなってきたころに、ある料亭の大将に巡りあい、「おれのいうもん作ってくれへんか」と言われたわけです。 しかし、それが漠然としていて、どんなもんやわからへんのですよ。 ひとつのものとしては、壬生菜だったんですけど、もちろん品種はわかっていたんです。 ですけど「おれの言うもの。 この味や」と言ってもらえるまで、3年通いましたね。 


それから、料理人は、舌が肥えていて、その味覚は十人十色ですから、それで、そのうちの7、8人が「うん」と立てに首を振ってもらえるものを探して作ろうとやってきました。 そうすると、味はやっぱり変わって来ています。 おいしくなっているという表現がいいのか、どうかわかりませんが、需要に応じて作れるようになってきました。 それで、初めて、京野菜というブランドじゃなくて、マイブランドになりました。 それで、全国から引き合いはバンバン来ていますし、自分で納得いくものしか作っていません。 料理人がほぼ80%、残りが高級百貨店、高級スーパーに動いています。 



荻野


すると、石割さんの野菜の味は、誰が決めているんでしょう。 



石割


料理人ということでしょうか。 私は、こんなんやろなあと思って出してるだけです。 自分では、こんなんでいいだろうと思っていても、味の悪い時はあるんですよ。 そういう時は、全然売れないです。 それは、もう廃棄です。 



間藤


去年の米は全然売れなかったんですね。 



石割


そうそう、肥料やって多収にしてやろうと思ったら、だめでしたね、それも有機肥料なのに…。 お米は肥料やったらおいしくなくなるんですよ。 やらないほうがおいしい。 



深見


自分では、味を確かめないんですか。 



石割


いや、確かめます。 でも、自分の舌も間違いがあリます。 こういう味ではないという指摘があると、ここで、初めて発見ができて一つ進歩するんですね。 畑の見学に来た方から、「味をコントロールできるのか」という質問がありますけど、それはできます。 京大で作っている野菜も、企業秘密なんですが、毎回、肥料を変えています。 



荻野


ご自分で味をみられる時は、生で試されるのですか。 



石割


生でも、焼いたりもします。 火を入れておいしいもの、生で食べておいしいものやはり、昔は、ずっと火を入れていたが、今は、火を入れないものがあります。 それで、どっちにも対応できるよう、畑で少しずつ肥料が変わっています。 それこそ、条間で変わっているみたいな、そういうやり方。 基本は一緒ですけど、後の追肥で少し変わります。 



柿木


和食では、出汁を使っての料理もしますね。 これについても、料理人さんから生とか焼く時と違った注文がありますか。 



石割


料理人さんはそのようで、いろいろうちでも実験しているんです。 牛糞堆肥、鶏糞堆肥、魚かす…。 で、魚かすを多く入れると、カツオの出汁のきいた菜っ葉になります。 ある時、料理人さんが「これ、何やったん?」って聞かれるので、「魚かす多い目ですわ」といったら、「それでか、わしとこの鰹節が変わったかと思った」とおっしゃったことがある。 だから、ある程度、コントロールできます。 



荻野


今まで、味っていう言葉がよく出てきましたね。 アートの世界では、誰かがいいと評価すると、まあ、そこから売れていくということがある。 野菜の場合、は腐ってしまうし、年々変化するし、この辺が難しい。 時差があってはいけないし、味の評価をいつ誰がというのは、とても重要なファクターですね。 



柿木


日本酒の例がよくわかりやすいとお思います。 味にはいくつか種類があって、ひとつは、誰でもおいしいというのがある。 もうひとつは、学習している間にわかるものがある。 経験的に身についているものがあるんですね。 


日本酒の新種品評会で金賞を取るのは、鑑定をやっている先生方がおっしゃるんですけど、香りが立って、水みたいに雑味がなくて、こういうものが高い点数を取る。 でも、おいしい酒っていうのはそうじゃないとおっしゃるんです。 うちでね、幹事さん泣かせの酒というのがあって、灘の白鷹の純米吟醸酒なんですが、普通の冷酒は一合、二合飲んでると、飽きてくるんですよ。 ところが、この酒は、一口目ちょっと重いんですが、飲み飽きしない。 ペースが落ちず、むしろ、ピッチが上がってくるんです。 こういう酒は、われわれのような料理屋や酒販店の商売には有り難い。 灘、伏見にはこういう酒が多いですね。 


食べ物でも、ぱっとおいしいと思っても、すぐに箸が止まるものがあれば、いつまでも箸がとまらないっていうおいしさもある。 例えば、養殖のマグロ。 あれ、畜養は、プロとかマグロをよく食べている人はおいしいとは思わないそうです。 脂身が臭いんです。 うちが仕入れているマグロ屋さんが言ってたのは、あれは、お寿司で一貫、二貫だけ食べるからおいしい。 1回死ぬほど食べたらおいしいと思えなくなる。 


まあ、好みが違うので、味がどうだとはなかなか言うのは難しいんですが、ただ、ある程度情報共有していくと収斂していく部分もあるかもしれません。 



荻野


今のお話うかがっていて、きょうのテーマで、何が一番モデレートしにくいかって言うことがわかってきたことがあります。 きょうの「次代の農業を考える」って、例えば、これ、私の分野なら「次代の写真を考える」て書いてるようなもんなんですね。 これ、みなさんにもわかりやすく言うと「次代の文章を考える」ってことになるわけです。 すごく多様ですね。 作家、詩人…。 写真家でも、チラシを撮っている人から、1枚何千万円という値段で取引される人もいます。 このことが、今、やっと農業にもいえるんだってことがわかってきました。 


それで、石割さんの作られている農作物というのは、ひょっとすると芥川賞作家の書く文章かもしれない。 次代の農業を、石割さんの農業を例に考えるというのは、芥川賞作家のことでもって、次代の文章をすべて考えようとしていることになるかもしれないのです。 つまり、割烹の料理人とかの味だけで出来ている農業だけでは、次世代の農業はなりたたない。 津々浦々の人間が食べる野菜を、石割さんのやり方では賄えないでしょう。 



柿木


きょうのテーマで、もうひとつ難しいのは、付加価値とは何かです。 商売してますと、いいものがなかなか売れないってことを言ったと思いますが、いいものが高い値段がつくっていう、そういうシンプルな原理って成り立たちません。 「高いからいい」っていうような、そういう資本主義は終わりつつあるんじゃないかと思うんです。 もっとも、安ければいいかって言うと、決してそうじゃなくて、ある程度、少しは高くなっちゃうっていうことはあると思います。 でも、先程、石割さんもおっしゃったように、すごくいいものを作ったから、じゃあ、すごく高くなるかって言うと、むしろ逆なんですね。 美術の世界でも、今みたいにマ」ーケットが出来て、作品が流通して値段がつくようになったのは、ピカソ以降なんですね。 それ以前は、コレクターが、勝手に値段をつけて買っていた。 


スーパーとかデパートとかで100円で売っている魚とか野菜は、漁師や生産者には10円、20円くらいしか入らない。 後は全部流通経費なんですね。 しかし、それが無駄かというと、流通を経ることで、規格が揃ったり、品質がより分けられたりという効果があるから、必ずしも悪いことではない。 ただ、流通にもそれなりの問題はある。 うちで、仮に、石割さんの野菜を譲ってもらえる事になっても、まずルートがないから、ものすごく高いものになっちゃいます。 それだったら、うちの近所の農家で、割といい野菜が穫れるのでそれを買うということもあるんです。 


食べ物屋をやっていて、「目利き」というのが何かというと、ただ「いいものと悪いものを見分ける」というのではなく「これはどのぐらいの値打ちがあるか」、コストパフォーマンスを見分けることをいいます。 その時、その時に、いくらが妥当だということがわかることです。 それは、買い手と作り手の間の相場感、信頼関係でできているってこともあるかもしれないとも思うんですね。 付加価値がどういうことなのか。 農家さんが食えないってことは問題ですけど、ものすごく高い値段をつける必要があるかどうかも考えて、この辺り、何が付加価値かということが難しいところなんだろうと。 



荻野


今のお話しを聞かれ、どなたか何かありますか。 



池田 達哉 (サンスター財団)


付加価値って何だろうということなんですが、今、厚労省は、日本人の野菜の1日の摂取量を350グラムを目標にしています。 実際は280グラムぐらいで、70グラム不足しています。 それで、付加価値という意味で言うと、それだけの野菜の量でも、栄養素が十分摂取できる少量高機能野菜をつくればどうでしょう。 



荻野


今の、効率の話でもありますね。 ぼくも、大量生産よくないと思いますけれども、もし、縄文人に弥生人が始めた農業について聞いたら、あんなもの、人工的で、単一に毎回同じものを作って、うまいわけがないし、栄養もないというかも知れません。 実際、米は、今の化学肥料の前から、そうやって効率化の歴史だったのではないかと思います。 今の効率的栄養をというのも、ずっと農業が追い求めてきたことで、うまいとかうまくないとかいうことも同時にしてきたと思うんです。 その、効率とうまいうまくないというところの関係性、あるいは可能性はどうでしょう。 



石割


例えばホウレンソウで言うと、食べやすいを求めて、その結果どうだというと、鉄分が昔より落ちています。 ですから、高機能だとか、そういうことに、いろいろ特化していくと人間の体が退化していく方向に持っていかれるようなものも出てきます。 口を動かし、噛むことでいろんなところが動くっていう部分。 高機能も大事でしょうけど、先ほど縄文人に関しておっしゃったとおり、余り人工的に効率化するのは問題があるかもしれない。 


今、トマトで一番おいしいと言われている代表はアメーラですけど、甘いのでおいしいとされている。 甘いというのはかなり果糖があるので、糖分とりすぎになる。 1個以上食べられないですね。 トマトは酸味と苦味と甘みのバランスが取れたものがいい。 うちでは、野菜が持っている本来の味を重要視して作っています。 そうすると平均して売れていきます。 何もかもがバランスだと思いますがね。 



高田


年間とおして何種類ぐらいの野菜を栽培しておられるんですか。 



石割


00超えていると思います。 それ、地元のものだけでなく、ヨーロッパのものも作っています。 それは、ミネラルを多く添加しないとダメなので、岩石を割ったもので、自然のミネラルを入れています。 



間藤


これだけ、出自の違う方がおられるので、議論はいろいろ振れると思うんですけど、石割さんところの付加価値っていうのでいくと、先ほど、山口先生が「本州の農業は福祉」とおっしゃったが、ぼくはそうは思わないんです。 農家の「たつき」、生計といいますか、どうやったら、農家がちゃんと農業生産をやっていけるのかを考えることが必要ではないか。 今でも、やっぱり、毎日、ご飯食べないといけないわけですけど、それがどっから来ているのかと考えた時、米、野菜はほとんど国産。 新鮮なものを食べている限りはほとんど国産です。 ファミレスとかファーストフードは、コストの関係で外国産を使わざるをえないですけど…。 そんな中で、日本の国土、それとやっぱり、排泄物も生ごみもあるわけで、それをどういうふうに環境中で処理していくかって考えると、あれを、もう一回農業生産に再利用するというのが元素の循環において、非常に重要なファンクションになります。 そうなった時、農家というのは、その循環にも大きく関わるし、かつ食べるものを作るというところにも機能するわけですね。 


1億2千万人がものを食って排泄し、生ごみも出ているわけですから、それを、アメリカに輸出できない以上、これだけ輸入していて、入超で、どんどん入ってきている。 だから、もう一回、これらを農業で循環させれば、日本の国土を保全しながら、ぼくらがハッピーに食べて、みんながハッピーになれるのではないか。 生産者が勝ち残って、生き残ってとなると、こういう事も含め、付加価値の高いっていうのが、ひとつのポイントになるだろうと思いました。 これで、農業に対しての注目も増え、生産者の生活も、ぼくらもおいしいものを食べられるっていうのがある。 


確かに、今は、効率化が非常に進んで、とにかく面積をでかくして、コストを下げて安いものを作ったら安く売れるんだとなってて、食べるってことが、ひどく貶められている気がするんですね。 特に、ぼくは、農学部の人間なので特にそう思うんでしょうが、これの復権、おいしいものをいい時に食べたいと思う。 石割さんところの野菜はおいしいので、どういう秘密があるのかなというのが、コラボの一つの理由だったんです。 さっき、石割さん、お米の失敗について言いかけられたですけど、ぼくなんかにしたら、肥料の成分含有率でしかものを見ないわけです。 けど、農作物には、成分の含有率、吸収量だけではいえない部分があって、それ、ぼくには全然わからない。 学者なんだけどわからない。 それで、石割さんの横で見て、実学を学ばせてもらっているわけなんですが、農業は福祉だったりするんじゃなしに基幹で、この国の産業として成り立っていかないとダメなんじゃないかと思います。 最初に、きょうの「次の時代の農業」っていうテーマを聞いた時、そのためのアイデアをみなさんからいただき、それを共有し、磨きをかけていけたらいいなと思って出てきたわけなんですよ。 



山口


福祉の話ですけど、これ少し誤解があるので、注釈しておきます。 市区町村ごとに農業に投じられている税金を精緻に求めまして、これを分子とします。 そして分母に生産農業所得を置きます。 そうすると、本州は殆どの市区町村で1を越えていることが分かります。 ということは、どういうことかっていうと、税金を農業に投じないで、戸別に配って農業をやめてもらったら1ですから、そのほうがまだましだということです。 ある種のモラルハザードが起きている。 これ、決して生産者がモラルハザードしているんじゃなくて、投じられる税金の8割は、基本的に農業生産者以外のところに行っているんです。 だから、産業として全体にモラルハザードが起きている。 唯一の例外は北海道です。 北海道は、1以下で、産業として成立している。 何かがおかしいのです。 生産者は一生懸命やっているんだけど、どっかにモラルハザードしている人たちがいて、それをなんとかしなきゃいけない。 



間藤


そのことは、そうだと思います。 



荻野


では、農業が産業っていうことなんですけど、印刷業界の例で言うと、村上春樹だけでなく、例えばポルノですごい売れる本が出るとか、ちょっと、質がどうとか高級な本がどうとかの問題より、いろんなジャンルの本がどんどん出て本を読む人が増えるということで、業界全体が活気づくことが大切ではないか。 で、農業も、まず、フィールドの活性化っていうことを考えてみたらどうでしょう。 とりあえず、いい野菜、悪い野菜っていうより、カロリーメートよりファミレスの野菜、っていう具合に、まずみんなが野菜をたくさん食べる、食べてもらえるという、そういう土台を作ること。 どうやったらすべての農作物が活性化するかっていうことを考えたらどうかと思うんですが。 



柿木


日本全国を一緒に動かそうというのは出来ない。 日本人全員が食にこだわるっていうのは理想だが、それは無理で、食を楽しむ、おいしいものを食べたいという人を組織していくことです。 







井藤 美由紀 (園田学園女子大学講師)


野菜を食べる人が健康な人だと想定して、お話が進んでいると思います。 食は、命の瀬戸際にある人と、その患者にとってはさらに切実なものです。 これからは、超高齢化社会になります。 ニッチな作物として、そういう人、終末期の方、そういう人たちに向けた野菜は考えられないでしょうか。 



石割


以前は、アレルギーの人に向けてやったことがあります。 結局、克服は出来なかったですけど、ある程度食べられるようにはなりました。 そういうことは、これから考えていかないといけないかもしれませんね。 



荻野


高齢者の問題は、たしかにありますね。 それと、私の甥っ子は偏食で野菜嫌いなんですけど、実は、小さな子どもも味がわかっているんじゃないか。 もし、石割さんのところのような野菜で、野菜炒めを作ったら、野菜嫌いはなくなるかもしれない。 



石割


分析しないとダメなんです。 人によって、この野菜を食べるとのどがイガイガする。 このジャガイモはお腹の中でごろごろするとか、あって。 そういう分析をしていくと、ジャガイモは柔らかいのを調理するとか、アクを取るとか…。 野菜の持っている性質と、子どもやお年寄りが何が原因でそうなっているか、ひとつずつ分析してこういうアレンジをすればというようにやったんですけど、これはずいぶん勉強になりました。 



深見


何かもっと野菜をつくるのにも、素人でも出来て、もうちょっと簡単で、おいしく儲かるようにできるにはどうするかということですね。 



間藤


うまくいってるところには、みんな後継者がいますね。 後継者がいないところは親がうまくいっていない。 



柿木


食べ物屋をやっていて感じたことなんですけど、外食だけでは口は肥えません。 自分で材料を買って包丁を持つということをしないと。 魚を自分で釣り、プランターでもいいから野菜を自分で作るというのも早道です。 これで、味覚は上がっていきます。 それと、ある程度の野菜を作るのは誰でも簡単だけど、それ以上のレベルを作るのはとても大変だとわかってくる。 これで、うまいものには価値があることがわかり、いろいろ、目利きもできるようになってくるのではないか。 とにかく、野菜は近いところのものがいいです。 



荻野


いまのは、誰でもが、ということかと思うんですが、写真は、昔、ライカ1個買うのに、家一軒の時代がありました。 その頃は、誰でもが写真をといえば「馬鹿か」といわれたものです。 それが、キャノンやニコンとなり、今では、スマホとかで、そう80%かなあ。 10人、100人に1人から、どんな人も撮るようになっています。 野菜も、そんな時代が来ているんでしょうかね。 



柿木


家庭菜園というと、葉物は簡単です。 小松菜を作ったことありますけど、これがうまいんです。 簡単なもの作ってみれば、それがいかにおいしいかがわかるし、さっきもいったように、野菜づくりが実に奥が深く、いかに難しいかということもわかってくる。 



荻野


お菓子を1回作ると、砂糖がこんなにいるのかとびっくりすることがありますけど、野菜を自分で作ってみたら、肥料のことととか、こんな化学肥料を使うのかというようなこともわかってくるんでしょうね。 



前上 英二 (類設計室)


会社としても農業をやっています。 きょうのお話を通じて、脱市場というのがこれからの農業の方向性であろうなと思いました。 それと、循環というのも大きな要素なんでしょう。 



石割


脱市場とかおっしゃる通りで、正当な対価をえられないから、農業の後を継がないというのが圧倒的に多いですね。 ですから、自分が生活できるという中で、後継者が育っていくと思いますし、現実に、先程、間藤先生がおっしゃったようにちゃんと儲かっている農家は後継者がいます。 うちで、今、毎年研修生の受け入れをしとるんですが、研修生に何を教えているかというと、つくる野菜はマニュアルがあるから、その辺にある本をさがしてそれを見なさいと言っています。 それよりも、何やというのは、コミュニティーの問題とか売り方。 市場へ売っていくのか、直接売っていくのかというようなことを教えているんです。 そりゃ、作ることも、ちょっとしたコツとか教えますけど、それはほとんどやっていないんです。 それよりも、農業に関してとは違う形のものを教えています。 そうしないと、独立した時に、作るのは作っても、どうしていいかわからなくなる。 作るのは作れてもどう出していいかわからない。 だから、脱市場やないですけど、売れるところに持っていけるようなセッションを作るようなことを教えるのが今一番大事かなと思っております。 そうすると、農業人口も増え、新規参入も、十分息ができるだろう。 そうでなかったら、ほとんどものが売れない状況です。 



木村


大学の農学部で、作り方を生産者に教えてもらわなければいけないなんて、一体、どうなってるんでしょう。 それと、水耕栽培が流行っているわけですが、あれはどうなんですか。 



間藤


水耕栽培は、軟弱野菜とか、それに合った種では、いいこともあります。 防除の必要もないですから。 


農学部は、その通りで、文系学部が要るとか要らないとか言われていますけど、あれに、どうして農学部が出てこないか自分で思うんですが、何の役にも立ってないですよね。 それは、初めにも言いましたが、最初から、もう分野に分けて専門馬鹿ばっかり作るんです。 インテグレートするという方向が一切なしで、これの専門家ってやっていくんですけど、その先は「農」ではないんですね。 医学部や工学部の下請け、つまり似非医学部、似非工学部だったりするわけです。 つまり、生化学が出来るとかですね、そういうテクノクラートを要請しているわけですね。 「農」という言葉は格好だけで、木村先生のおっしゃる通りで…。 


ただ、学生の中で、この何年か、5年ぐらいで、石割さんの講義に出てきたり、石割さんの研修生になったりとか、農業を主体的に、メーンに考えようという学生も出てきております。 大学の対応は遅れていますけどね。 



高田


そこで思い出すのは「百姓」という言葉です。 今では死語のように思われるし、場合によると差別用語ともされるのですが、これって「百の姓(かばね)」を意味する尊敬語の一種だったわけでしょ? つまり百姓は「百種類の仕事がこなせる人」だったわけです。 実際、鎌や鍬が痛むと鍛冶屋になって修理するか。 そうかと思うと、わらを編んで縄やわらじをこしらえる。 ところが近代化の進展と共に、めざすべきは何かの専門家、いわば「一姓」だということになってきた。 これって、人間の能力をやせほそらせたということにほかならないように思うのですが、いかがでしょうか。 /p>

ところが今日、ぼつぼつ多様な仕事に手を染める人が出てきたようです。 和歌山の山のなかの街で出会った若者の一人は、月曜は煉瓦か何かを焼く工場、火曜は農家の手伝い……といった具合に、曜日ごとに異なる仕事をしているのだとうそぶいていました。 これからは彼のように、いろんなことができる人が大事だという側面にも関心が集まるのではないか。 そういうことを農学部でも是非、教えてほしいと思いますね。 その点で「農」の世界には多様な仕事が広がっているように思います。 ならば「百姓に戻る」ことの意味が、あらためて明らかになるような気がするのですが……。 



荻野


では、時間も迫ってきたので、これまでのお話で頻繁に出てきた市場、流通、脱市場、脱流通などキーワードに、これから、きょうのお話を通じて、思ったこととかありましたら、意見を出していただきましょうか。 その後、間藤さん、石割さんにお話をうかがってみようと思います。 



前上


生産者側から見ると、気まぐれな消費者に付き合っていけないという気持ちがあるんじゃないでしょうかね。 



高田


そこで紹介しておきたいのは大分県の大山町(現在は日田市の一部になった)です。 ここでは1960年代に、田んぼを潰し、「梅栗植えてハワイへ行こう」というスローガンのもと、農業における脱稲作と多品種少量生産に着手しました。 で、当時5000人だった人口が今なお4000人にしか減っていない。 何故かというと、週4日しか働かない。 しかも全国平均では200万円余りの農家所得が、ここでは500万円に及んでいる。 で、若者が外に出ていきたがらない。 何故そんなことが可能になったのかというと、例えば規格外のイチゴも自らの手でジャムにするなど、農産物の二次加工を手がける。 さらに1990年前後には「木の花ガルテン」という、生産物の大規模販売店を展開して三次流通にまで手を伸ばす。 ここでの農家は、文字通り「百姓」をめざしてきたわけです。 やれば、一つの自治体でもこういうことが可能になるのだという一例です。 



柿木


多様化が大事なんですね。 これ一つじゃないということです。 流通にしても、すごくたくさんある必要はないが、これだけがいいっていうのではない。 それでは、スーパーになってしまう。 



荻野


売り方もいろいろということでお話ししますが、こないだ、四条通で変なおばあちゃんに出会いましてね、リヤーカーを引いていて、そこに野菜がいっぱい載っている。 もっとおやっと思ったのは、それに「人生相談承ります」という札がかかっている。 自分は「神降ろしができます」なんても書いてある。 実は、私、シャーマニズムも写真のテーマなので、これは、聞いてみないといけないと思い、話しを聞いたわけです。 結局、野菜を買ってしまったんですけど…(笑)。 それで、どうしてこんな売り方をしているのかと聞いたら、娘だかに、会いに来るついでに、こんな売り方をしてるんだというんです。 家にいても、人生相談にも来てくれないし、野菜を作っていてどうせ余っているからっていうわけです。 まあ、こんな売り方も、多様化の一つの例としてありかなと思いました。 



上田 源


先生方が、味がわかったと感じたのはいつ、どこでだったでしょう。 私は、まずい、だけはわかるんですけど。 



山口


私は環境が変わるたびに、味とは何かを発見しました。 15歳の時に、博多から東京に引っ越したんですけど、その時に、東京のものを食って、こんなまずいものを食べるのかと思いました。 38歳でフランスに行った時は、野菜の多様さに驚きました。 おいしいのはイギリスのパースニップ。 そして、さっき話したように、フランスから日本に帰った時に出現した味の素アレルギー。 最近では、脳腫瘍の手術をし、しばらく匂いがわからなかった時です。 ですから、環境が変わるたび、ぜんぜん違うものを食った時、初めてああ、味ってこんなんだと知りました。 年を取るにつれて舌は確実に鍛えられます。 



上田


相対化する基準があるんですね。 マクドナルドやファーストフードばかりの私は、きっとどこに行って何を食っても一緒で、わからないでしょうね。 



高田


ぼくは京都の中央市場の近くで生まれ育ちましたので、物心ついたころから、うまそうなものを自分で買ってきては自分で料理して食べていました。 そういう体験のなかで「味」というものがどういうものなのかを知ったのだろうと思います。 



上田


これ、われわれが40代ぐらいになって、消費の中心になった時に、ぶっちゃけ味がわからなかったら、買わない気がすごくするんですよ。 日本酒も飲まないし、刺身食べながらカシスオレンジ飲める世代で、40になったらどうなるんでしょうね。 



高杉 政一 (ケービデバイス社長)


うちのちびのこと言いますと、学生時代に、ちょっといい寿司を食いにいかしたら、それから、回転寿司にいかなくなったんです。 いい音楽や本、絵画と一緒で、いいものを経験すれば、40になったら自然に、いいものうまいものがわかるようになります。 



上田


それ、自己内発的に変わっていくのか、外的要求によってか、それが漠然としている。 



高杉


うまいもの、食べれば自分の舌から、変わっていきますよ。 


で、ぼくは、京都生まれなんですけど、京野菜っていつから出てきたのかわからなかった。 多分、生産者の方が、「おれらは、京都の人間で、一流のものを出すんや」と考えて、京野菜が生まれ、近年、定着したのかと思います。 



石割


その通りで、京野菜と言われるようになったのはごく最近ですね。 今まで、伝統野菜という形で、25~30年前ですけど、自家採種している野菜を復活させようというイベントをやり、これが伝統野菜になり、最初にも言いましたが、旬野菜も出てきて、京野菜になったわけです。 とにかく、関東方面ばかりでなく、全国的に「京」という一文字がつくとすごいネームバリューになるんです。 



荻野


食べたらわかる、これ信じたいと思うんですね。 多様な味覚というのは、各自が多様な食をしないと仕方がないと思いますね。 お金を稼ぎ始めた時、ちょっと贅沢をする。 それは、その人その人で出会いは多様にあると思うんですけど、その1回で目覚めるというか、開花するというか。 それを信じたいですね。 そういうチャンスが、例えば、フランスであったように、カップルで行くと高級レストランの料金が半額になるとか…。 



柿木


この世にこんなうまいものがあったのか、というのは、あの店に行かないとということではないと思います。 これ、食べ物だけでなく、音楽でも絵画でも、こんないいものがある、こんなうまいものがある、これを積み重ねていくと、味覚だけでなく、いろんなチャンネルがあって、感覚は向上していきます。 それにしても、みんなが全部同じ反応っていうことはないんですよ、向き不向きもあるので。 まあ、最後までわからんという人がいても、それは仕方ないかなあ。 



鈴木 祥太 (京都大学)


おいしいものを食べる経験はすると思いますが、健康にいいもの、おいしいものを毎日食べる。 そんなお金と時間、そして自分で作ってという余裕があるかというと、ないんですよ。 



柿木


毎日うまいものを食べる必要はありません。 大事なのは、まずいものを余り食べないことが大事と思いますよ。 時々食べればいい。 ちょっと若いうちに経験すると、人生豊かになるかなって言う程度です。 



荻野


時間が迫ってきましたけれども、大変多様なお話をしていただき、まとめることはできませんけれども、いろんなヒントがたくさん出たと思います。 それでは、きょうのスピーカーのお二人に言葉をいただいて、お開きに代えたいと思います。 



間藤


いや、そんな簡単に答が出たら、何も困ることはないんです。 いま、おいしいというお話だったんですが、心配ないです。 難しいことではなく、おいしいものは食べたらわかりますよ。 


それで、ぼくが、今農業で感じていることは、市場と言っていいのか、ものの値段だけで全部動くのが、すごく癪に障るんですね。 稚拙な言い方でしか言えないんですけど、大事なものがきっとあるだろうし、お金でないものを何とか、要するに、その濃度勾配に従ってものが流れるのを、何とか逆流させるような動きを作れたらいいな、と。 それが、付加価値だと考えたりしているんです。 例えば、京都というのは、「そうだ 京都行こう」っていった時、「なんでや」と、絶対突っ込まれないのが京都らしいです。 そういう意味の京野菜っていうのもあるわけですけど、石割さんとやっていて、京野菜もあれば、大津野菜、宇治野菜もあるっていうふうに広がっていけばいいって思っているんです。 そういうふうに、たくさん何とか野菜というのができていくのが、ぼくらが幸せに生きていけるヒントじゃないかと思います。 そういう意味での付加価値「京都」なんですね。 



石割


おいしものというのは、シンプルな料理をしてください。 時間をかけて作るんじゃなくて、火に通して塩で食べる。 簡単な料理でおいしいものはおいしいです。 そういうふうな形でやってみてください。 それで、次世代の農業については、いろいろあると思うんですが、私の場合、今の農業ではダメやと思って30歳の時にやりだして、変えていって今の農業をしているんで、できたら先を見てほしいなかなと思います。 それから、世の中の動きですね。 、私は、普通の雑誌だけでなく、女性誌も読みます。 そこからも何かヒントが得られます。 子どもに、くだらないテレビ見ないようにしなさいといいますけど、私は、その中にもヒントが落ちていると思います。 ですから、世の中をよくしていこうと思うように見ていけば、いいものが見えてくるので、そういうようにやっていただければ、農業は次へと継続していくのではないかと思います。 



長谷川


どうもありがとうございました。 農業は、確かに、環境との関わりとか、特別に大事にしなければいけないジャンルであり、産業の中で特別なものと捉えられてきたのですが、きょうさまざまなジャンルの方に、それぞれのお立場からお話をしていただき、農業の持つ特殊性と普遍的な産業の部分というその奥の深さがよく見えてきたと思います。 今後、こうした機会で、さらに議論を深めていければと思います。 では、次回もよろしくお願いいたします。 





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