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第9回クオリアAGORA 2016/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

コンファレンス

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ゲストスピーカー

花園大学文学部仏教学科教授

佐々木 閑さん



特別参加

京都大学総長

山極 寿一さん



ディスカッサント

武庫川女子大学名誉教授

高田 公理さん


京都大学大学院理学研究科教授

山口 栄一さん


京都大学大学院理学研究科教授

高橋 淑子さん



モデレーター

写真家

荻野 NAO之さん





長谷川 和子 (長谷川和子)


今夜は、公務でお忙しい中、山極総長も討論に加わっていただくことになりました。 まず、山極さんに、今のお話を聞かれどう思われましたか。



山極 寿一 (京都大学総長)


佐々木さん、どうもありがとうございました。 総長として大学を預かる者にとって、大変参考になるお話でした。 現在、3千人いる教員を食わせなくちゃいけませんから…。 お話をうかがっていて、これからは、「みなさん、襤褸(ぼろ)を着て、午前中はお布施をもらいに行きましょう」というのが、一番大学の自治を守るにはいい方法かもしれないなあ、なんて思ってたりしていたんですけど…。


それで、仏教サンガの話は、結構、大学と似たところがあるなあと思いました。 まあ、大学というのは自治が約束されていて、裁判めいたこともやるわけですね。 一番厳しい罰ってのは懲戒免職なんですよ。 学生についても、退学処分、放学処分というのが一番厳しい。 それが、外の刑事罰とか民事罰とかいうものとは、関係はあるでしょうけども独立しています。 「律」があるんですね、大学には。 だから、「大学の自治」ということが言われるわけです。


それから、研究ということに関しても、まさに、おっしゃられたように、自分が好きなことをする。 これに関しては、アカデミズム、学問の自由、研究の自由という言葉でよく言います。 何を考えてもいい。 考えること、表現することに関しては、決して後ろ指を指されない。 ただし、それが、社会に出ていった時、どう責任を取るかっていうことに関しては、仏教サンガと元々は同じだったかも知れないけど、今は、ずいぶん違うなという気がします。


それはですね、私が学生時代は「産学共同」なんて言ったら、「とんでもない話だ」とよく言われていたものですけれども、今は、研究費を作らなくちゃいけないし、しかも、昨今はですねえ、大学は、すぐに役に立つ研究をする必要がある。 それが、国民に対する、国民の税金で暮らしている大学の役割であると言われるものですから、成果を「もの」に変えて、あるいは、「考え方」として、きちんと社会の改善に結びつかなきゃならないという考え方が、どんどん入ってきました。 ですから、研究がこんなに社会のために役立っているということを、モノや何らかのムーブメントを通じて見せなくてはならないということが求められるようになったんですね。 これを、政府は「大学の説明責任」だっていうわけです。 しかも、大学は、研究だけでなく、教育の機関ですから、大学で育てた人材をどういうふうに社会のために役立てるかということが検証され、「大学はちゃんとやってないんじゃないか」などと評価されるようになったんですね。 ここが、私が学生時代から今の歳に至るまでの40年余りで、劇的に変わったなぁ、と思っているところです。


そこで、ちょっと聞いてみたいのですけど、宗教組織はですねぇ、仏教サンガもそうなんですけど、人を育てるというミッションはなかったのだろうか、と。 どんな仏教の宗派でも檀家があります。 本山があって、地方にブランチがあってですね、どんどん、寺が分かれて、日本中に、すごい数のお寺さんが散らばっていると思うんですけどもね。 その中で、昔は、寺子屋っていうのがありましたよね。 お寺に、坊さんになるためだけではない人を、何かしら育てていたというようなミッションは、あったのか、なかったのか。 もし、あったとすれば、それは、学校に近いものだったろうと思うんですね。


よく、大学というのはオープンな場所であるっていうわけですが、ぼくが、大学を「窓」と表現したのはですね、大学は、普通「門」って言われているわけですね。 例えば、東大に「赤門」があるし、「狭き門」といわれるように、門に例えられる。 ということは、つまり、大学のキャンパスは、俗世間とはちょっと違う場所なんだ、と。 一歩入れば、それは、お寺や神社と同じように、そこは「聖域」であって、社会の一般常識が通用しなくてもいい場所である。 だから、門で、そこを分けているんだという考え方があるんですね。 でも、最近は、大学のキャンパスを守るために門を閉じてですね、一般人の通行を禁じているという大学もずいぶん多いですよ。 本学では、入学試験の時も門を閉じないので、文科省から来た事務員がびっくりして「京大っていうのは、ほんとに自由なところですね」って言ったことを覚えているんですけどね。 実際に、一般道が大学のキャンパス内を走っているので、門を閉じません。 こういうのも、最近、ずいぶん変わってきたかなぁ、と思います。 どんどん、大学が、安全性というのを考えて門を作って、正門を閉じて閉鎖的にしている。 まあ、ロックアウトしてるんですね。 そういう風潮が、最近出てきたなと思います。 それから、「不正」ですね。 そういうことも、どんどん報道されるようになって、その処分が、新聞で報じられる、そういう時代になりました。


ま、大学とサンガの似ているところとか、違うところとか、いろいろあるんですけど、まず、仏教の教育というとこからお答えいただきましょうか。



佐々木 閑 (花園大学文学部教授)


社会に役立つ人材を育てるという考え方は、釈迦の仏教には全くありませんでした。 なぜならば、仏教という宗教の存在意義は、社会の中で生きられない人たちを受け入れる受け皿でありますから、その人たちを社会にもう一度還流していくということは、仏教の仕事ではないのであって、戻りたい人は、自分でいくらでも戻ればいいわけです。 「出家」と「還俗」ということに関しましては、非常に自由でありまして、出家の儀式で、これ1時間ぐらいのものですが、それでお坊さんになれます。 で、僧侶を辞めたい時はどうするかというと、誰でもいいんです。 言葉のわかる人の前に行って「私は僧侶を辞めます」とか「もう、お釈迦様を信じません」とか、何でもいいから一言いうと、それでもう、僧侶は終わりなんですね。 で、しかも、何度でも繰り返し出家は可能です。 「足抜け」を許さんとか、そういう、組織として人間を縛るようなことは一切ないですね。


では、教育をどう考えたかといいますと、大変精密な教育システムがサンガの中にあります。 ただしそれは、社会のために役立つ人を育てるのではなくて、出家者として自分のやりたい道、つまり修行ということを徹底的にやれるような、基本的な素養を身に着けさせるための教育を徹底的にやるんです。 これ、5年間です。 ちゃんと決まっています。 お坊さんに初めてなりますと、自分の教育者を必ずひとり決めなければなりません。 その人の下について、朝から晩まで同じことをやるんですね。 それが5年間です。 その自分の師匠のことを、インド語では「upādhyāya(ウパードヤーヤ)」っていうんですが、これがなまって、中国に来て漢字に変わって「和尚」という単語になります。 だから和尚というのは、5年間の義務教育の間の先生なんですね。 それぐらい厳しい教育を受ける。 しかし、それは、社会的に何かの技を身に着けるということでは全くないのであって、出家者としての修行の達人になるためなんです。


じゃあ、教育を受けたその成果を社会にどう還元するのかというと、「煩悩」を消すという「道」を社会の人たちに広く説くんです。 それ以外のことはしない。 例えば、満月と新月の夜には、お寺は完全開放され、そこへ信者さんたちがいっぱい集まってきて、そこで夜が明けるまで、僧侶たちはお説法をしなければならない。 説教をするんです。 一般の人たちは、朝までそこで仏陀の教えを聞く。 そして、自分の家に帰ってそれを実践する。 ということで、サンガという特殊な生き甲斐を追求する組織の中の特別な生き方、あり方を、今度は外界に対して発信していくという形での、社会への還元なんです。


これ、大学に置き換えたらどうなりますか。 大学は、そこに、いろんな生き甲斐の道があって、その中には、自然に社会に役立つこともいっぱいありますよね。 そこが、仏教と違うところです。 大学の中での生き甲斐を追求している、その生き甲斐そのものが、自然と、科学・技術、その他いろいろな形で社会に還元されていくという形で行われているわけですから、同じ教育といっても、人材をどうするかっていう話に関しては違いが出てくると思いますね。



山極


まあ、1963年までは、高校生の大学進学率は15%ぐらいでしかなかった。 それが、大体90年ぐらいから30%を超え、2004年からは、50%以上の高校生が大学に進むようになり、今は、中学生のほとんどが高校に入り、そのうちの半分が大学に来る時代で、その大学生のほとんどが、また社会に出ていく。 つまり、大学から社会に出ていく人が多くなったわけで、そういう大学の現状から、職業訓練みたいなものを大学でもするべきだって意見も出てくる。


確かに、昔みたいに、ほんの5%ぐらいしか大学にいかなかった時代―帝国大学の時代、大学から官僚とか、大学の中にいて研究ばかりしているとか、一般の人たちとは絶縁されて大学があった時代―そのころの大学は、今と違って、サンガと近かったんじゃないかという気がしますね。



佐々木


そうですね。 そういう意味では、大学は、社会に出ていくための基礎的な素養を身に着けるコースと、それからもうひとつは、出家の道へ自分の生き方を変えるコースと、この両面を兼ね備えた組織だと私は思っているんです。


ところが今のやり方は、出家の方の比率をできるだけ減らして、社会還元ばっかり考えているから、目先のことを考える組織になりつつあるんで…。 実は、その中で、出家を可能にするような特別なシステムがあるということを、大学自体がもっと強くアピールすべきではないかと思っています。



山極


もうひとつね、後で高橋さんが言ってくださると思っていますが、科学技術そのものが金になり始めた、ということがあるんですね。 大きな産業や実際に使える「もの」に結びつき始めた。 だから、発見がどんどん特許につながっていって、そして、ちょっと前まで、企業も、研究所を持って基礎研究をやっていたわけですよ。 もう、今は、基礎研究をやっている余力がないから、その部分を全部大学に任せて、後は応用だけになっていくという事情があるんです。 これ、山口さんがよく知ってるでしょう。 だから、大学の教員でいて、どこかの会社の役員になっていたり、相談役になっていたり、そういう兼任をしている人が、最近非常に多いですよ。 特に工学系、医学系、それから農学系もすごく多いですね。 ほんとに、純粋に学問だけをやれる人というのが、非常に少なくなってきたということがあると思います。



佐々木


そうですね、これねぇ、お坊さんで言いますと、すごく人気が出てきてファンがどんどん増えて、お布施がいっぱい集まるお坊さんなんですね。 そういうお坊さんがどうなっていくかというとね、だんだん、堕落していくんです。 どう堕落するのかというと、本来は、自分が向上して悟りに向かうという高尚な、金とは何の関係もない目的で人生を送っていた人が、次第に、世俗的な金銭や人気、権力に目的を移していき、そのために修行をするようになるんです。 発見をするために研究費をもらっていたのが、いつの間にか、研究費をもらうために発見をするようになっていく。



山極


金をとるために研究をするっていうようになる。



佐々木


そうそう、そうなっていくんですよね。 そうなると、聖域としての仏教僧団が崩れていくのと同じように、出家者を生み出す特別な場である大学本来の形は崩れていきます。



山極


もうひとつだけうかがいたいことがあるんです。 そもそもね、世界宗教が出てきた時期って、大体同じころですね。 つまり、2500年前ごろ、なぜ、そのころに宗教が出だしたかっていう話なんです。 それは、人間が「なぜ」という疑問を感じるようになったからだという説がありましてね。 ジュリアン・ジェインズというアメリカの心理学者が著書の『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』で言っていることなんですが、ちょうどギリシャ神話でいうと、「イーリアス」と「オデッセイ」の間にそういうことがあったというわけです。 イーリアスもオデッセイも叙事詩なんですけれど、イーリアスは何も疑問を持っていない。 すべては神のために。 神がささやいているんですね。 どこからか、そのささやきが聞こえてきて、自分はその通りにやっている。


しかし、オデッセイになると、自分が悩むわけですね。 なぜ、こんなことをしてしまったんだろう。 あの時、こうしておけばよかったのにっていう、反省や疑問というのがふつふつと湧いてきて、過去のことと現在のことが、因果で結ばれているっていうんです。 はっきり違うそうです。 まさに、そのくらいの時に、宗教が力を持ち始めたというのは、人々がいろいろな悩みや疑問を持ち始めたということなのかもしれない。 あるいは、例えば、エジプトのピラミッドがどうしてできたのかなんて話がありますけど、あれは、人々が疑問を感じなかったから、何十年もかかって、あれほど巨大な建造物ができたんという話がありますけど、でも、あの時に、まだ、宗教は必要なかったのかもしれない。


宗教が必要になったというのは、人心の乱れとか、先ほど「四つの戒律」のお話がありましたね。 「獣とセックスしちゃあいけない」というのはすごいと思いましたけど、イタリアの羊飼いはそれで、結構裁判になるそうですし、アフリカでも「俺のヤギを強姦した」って訴え、それを裁く裁判があるそうです。 こういう戒律ができて、よくレヴィ=ストロースが言っている「自然から文化に至る間の制度」というのは、決してその行為があったからといって誰かが死ぬようなことではないけど、それをやると、社会に困ったことや困った関係が生じてしまう、それが起こったら社会が乱れるので、これを強く禁じたわけですね。 そういうことが、「道徳」として人間の社会に現れるようになったというのが、ひょっとしたら、その時代に関連しているのではないかと思うんですが、その辺は、どう思われますか。



佐々木


えっと、科学的な世界観と今おっしゃった宗教的な世界観の乖離ですね。 ちょっと簡単に言いますと、科学的な世界観というのは、これは、論理的に物事を見つめていった結果として、人の思惑とは関係なく、まあ、言ってみれば自動的に現れてくる世界です。 それは、私たちが普段、日常的に、常識的に思っている世界が、科学的世界観によってどんどん覆っていくわけです。 ニュートン力学から量子論までのいろんなものを見ますと、そんなことはありえない、そんなバカな、というようなことが次々に世界の真実として現れてくる。 従って、科学的世界観は真実なんだけども、われわれが受け取りにくい世界なんですね。


宗教的世界っていうのは、それとは全く逆でありまして、本質的には、われわれが望むから現れてくるんですね。 なぜ望むのかというと、われわれは、死というものを「自分の将来の絶対的な最終ポイント」として知ってしまいますから。 これ、人間しか知らない。 ゴリラはどうでしょうかね…。


自分の死を想定して生きている生命体は、人間だけだろうと思うんですが、つまり、ほかの動物よりも人間は、はるかに不安を抱えて生きる生き物なんですね。 従って、その不安を払拭する形として、自分の行きつく末を幸せなものにしてくれるような世界観をいつも求めるわけです。 で、それにピッタリ合うようなものが出てきますと、それはワッと広がるわけで、例えば、神様がいて、死んだら極楽、天国へ連れて行ってくれますよという世界観が出てきて、それがみんなの中で共有されると、それは、われわれの不安を一挙に取り除いてくれますから、とても幸せな状態になる。 そういう意味では、死を意識した生命体であるからこそ、宗教的世界観がぜひとも必要であって、求める方にも合わせて、何らかの宗教家という人たちが、それを作るわけですね。


先ほどの話で、イーリアスからオデッセイの間って、お話しされたんですけど、私には、はっきり、詳しくはわかりませんけど、少なくとも初期の段階においては、世界というものが与えられて、われわれはその中で自然に生きていけば、死の苦しみから逃れるということでみんな同じであった。 ところがやがて、われわれが活動することが、今度は世界のあり方に影響を与えるんだと、つまり、世界とわれわれの活動の間に、直接的な何かの因果関係があるという思いが出てくると、われわれ自身が何をして、何をしないかということによって、われわれの死後の世界が変わってきてしまうということになって、そこに、宗教的なタブーというか規律が出てくる。 そこから、われわれが今考えている一神教世界とか仏教のような世界ができて、そこで「為してはならないこと」というものが出てくるのではないかと思います。 これは、ちょっと大雑把な話で申し訳ないです。


従いまして、科学の世界観というのと宗教の世界観っていうのは、「真実だけども受け取りにくい世界観」と「真実ではなくてもわれわれにとって都合のよい世界観」っていう形で対立すると思うんですね。


そして、仏教の特殊性はどこにあるかといいますと、そうやって作ってきたわれわれの死の恐怖を和らげるために作られた世界観が、因果則による機械的世界であるということなんです。 そこが面白いですね。 普通ならば、そこに救世主を持ってきて、救ってくれるんだというところに宗教的な面があるんですが、釈迦だけは、それを違うと言ったんですね。 むしろ、因果則だけで動いている世界だからこそ、自分の努力によって死の苦しみから逃れることができるという、非常に特殊な考え方をした。 ここが、仏教らしいっていうか、仏教の特性ではあるんですね。 でも、余りにも特殊で、そのまま継続するのは無理でしたから、やがて、救世主的なものを含みこむようになって、それが大乗仏教になっていくんです。 だから、耐えきれなかったんだと思いますね、釈迦の考えのままでは。



荻野 NAO之 (写真家)


どうも、ありがとうございました。 では、これから、ディスカッサントのみなさんに回していこうかと思います。 これから、科学と仏教の関係性に焦点を絞って進めていこうと思いますが、まず、あえて、お聞きしてみたいと思います。 それは、ご自分の「出家率」っていうことです。 それが何%か。 つまり、大学には二つのことがあって本来の研究=出家というものと同時に、それを妨げることになるような学生に教えて世の中に送り出したり、また、大学の運営などもしなければならないと思います。 ご自分では、どのぐらいの割合で出家ができているでしょうか。




山極


私は、今、この背広が袈裟です。 総長として、組織(サンガ)のために働くという意味では100%やってます。 でも、出家が研究という意味であるとすれば、0%です。



荻野


仏陀の役割ですか。



山極


へー、仏陀?!



佐々木


ああ、そうだと思います。 仏教の言葉の「慈悲」というのは、決して、誰かを引っ張り上げて助けるというのではなくって、自分のやりたいことをほかの人にも同じようにさせるために、自分が身を労するということですから。 総長はまさにその役割。



荻野


山極総長は、京大の仏陀ということに…。



山口 栄一 (京都大学大学院思修館教授)


今まで聞いてきて、要するに仏教というのは、生産活動ができない連中が、もういやだ、でも、やっぱり悟りを開きたいっていう思いの、いわばプータローたちが集まって作ったんだなあってことがわかり、目からウロコでした。


それを考えると、私は、若いころは出家率100%だったなあと思います。 大体、理学部に行く学生ってそうですね。 人の役に立ちたいなんて思わないのが多い。 私は、14歳の時、母親を失った時思ったのは、社会のために尽くすのではなくて、その向こうにある世界を知りたいということでした。 その後も、大学が職業訓練校だなんていう考えはとんでもないと思っていた。 それで、高校時代は、けったいな人間で、相対論や量子論を自分なりに勉強すると同時に、法華経を読むのが好きで、これ、どちらもぼくにとっては同じこと、要するに悟りを開きたいと思っていたんです。


28章(品)からなる法華経って、まず序品(じょぼん)があって、次に第2章で方便品(ほうべんぼん)、これはどうやったら悟りを得られるかって書いてあるんですよね。 で、それ、一生懸命漢文を調べ調べしながら読んでいった。 鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳したもので、「その時に、世尊(釈迦)は、瞑想の状態から、ふっと自分に戻って、シャーリー・プトラにこう告げた。 諸仏の智慧は、はなはだ深く量ることができない。 この知恵の門は、とても入りにくいし、理解しにくい。 仏の言葉は、辟支仏(師なき修行者)には知ることができないものである」という書き出しから始まる。 とにかく、ずっと、「全然わからない、わからない」と書いてある。 で、最後に、とにかく頑張れば「禅定、解脱、三昧」を通じて、最終的に悟りの世界に入れる、と書いてあるんですね。


要するに、生産活動をやめて一生懸命、悟りのことを思いなさい。 そうしたら、見えてくると書いてある。 で、相対論や量子論も、そこに書いてあるのは、生産活動のことや社会のことではなくて、時間と空間と物質っていうのは、こういうふうに出来上がっているんだって、書いてある。 目に見えている世界を超えたところにある世界は、こんな風にできていて、それを悟りなさい、と。


ですから、そういう意味では、私は若いころは、出家率100%。 世界のために役に立ちたくない。 プータローになりたかった。 大学ってのは、世界の何か役に立つようなことをやるような、そういう形而下的なことを勉強するところではなくて、もうちょっと役に立たないことをやるところだと思っていた。


でもね、歳をとってくると、それじゃあ、やっていけなくて、やっぱり、産業を興して、沈みゆく日本っていう船を何とか救わなくっちゃっていう気持ちにもなっているので、出家率が落ちてくるんです。 今、50%ぐらいと思っています。








高田 公理 (武庫川女子大学名誉教授)


ぼくが大学の教師になったのは、ずいぶん遅かったんですね。 というのも大学卒業後は、鶏の卵を孵したヒナのセールスをしたり、工務店で現場の掃除係をしたり、酒場を経営したり、広告制作業に従事したり……その間は出家率0%です。


ただ、酒場は一種の「聖なる空間」だとも言えようかと思います。


こんなことを言うのは、さきほど「大学には門がある」という話に触発された結果です。 で、今ひとつ、そんな門があるのは遊郭でしょ? その門の内側では、俗世間の価値が完全に逆転します。 実際、そこでは俗世間で最底辺に位置づけられる遊女が一番エライ。 逆に、俗世間で威張っている武士は刀をはずさねばならず、威張ってなどいられない。 それは、いわば「反世界」だったわけです。 という意味では酒場も、一見すると非常に俗っぽいように見えるけれど、どんなにエライ先生でも酒場の客としては、他の客と同等に扱われる場合が多かったように思います。


そこで現代都市の風景を眺めると、たとえば門で仕切られた遊郭がなくなり、セックス産業がガーッと一般社会に同居するようになった。 で、その当然の結果としてセックス産業は、その「聖なる資質」を喪失してしまった。 同様に大学の門もなくなってしまい、これまた「聖なる資質」を喪失した。 こういう面白い並行現象が観察されるような気がします。


じゃあ、何故こんなことが起こったのか。 大学に則していうと、19世紀あたりに本格化した近代化の過程で、「科学が俗世間の役に立つ金儲けの手段としての資質を獲得した」結果ではないかと思います。


とえば17、8世紀に生きたアイザック・ニュートンです。 今は彼を、多くの人が科学者だと考えるわけですが、当時は「科学=サイエンス」という概念そのものが存在していなかった。 そんな時代にニュートンは、リンゴの実が枝から落ちるのを見たからかどうか、「質量には質量を引き寄せる力がある。 それが巨大な地球の重力なんだ」という、いわば「正しい妄想」を抱くわけです。 その彼が晩年には、亜鉛と銅を組み合わせたピンセットを作り、カエルの足の神経に触れると、それがピクピク動く。 そういう実験をして周囲から、「ついにニュートンも焼きがまわった」と馬鹿にされたりするのですが、当時の学問は、そういうものだったわけです。 そしてニュートン自身も心霊術のようなことにはまっていったようです。


ところが、それから1世紀後の19世紀に近代科学が成立すると、それが電気という汎用性のあるエネルギー源として近代社会に必要不可欠な役割を果たすようになる。 つまり科学が実利・実益・実用の役割と果たすようになったわけです。


これと似たことは、科学だけじゃなくて、芸術にもあてはまりそうです。 実際、音楽や絵画・彫刻などは本来、主として宗教性を粉飾する役割を担っていたわけでしょ? スポーツもまた近代以前は基本的に、避けるべき筋肉労働としか見なされなかった。 これらが現代社会では立派なビジネス、というか、重要な経済活動としての意味を持つようになった。 つまり近代という時代の到来が、それ以前には「聖なる営み」だったものを「俗なる世界」に引きずり出したのだといえるような気がするわけです。


今ひとつ、先ほど山極さんが宗教、といっても「いわゆる世界宗教」ですが、その登場をめぐって「だいたい2500年前」という話をされました。 じゃあ、なぜ、その時期だったのかを考えると、その数千年前に穀物生産が始まっています。 それが何故、世界宗教の成立をもたらすのか、というと「余剰」ですね。 食物の余剰が出来ると、その生産労働から逃げ出す連中が出てくる。 と、彼らの暇つぶしのための何かが必要になる。 その一つが宗教であったり、科学や芸術・芸能やスポーツだったりすると考えると、話が分かりやすくなる。


実際、余剰のできたギリシャだからこそ、アリストテレスの科学が誕生したり、オリンピックでスポーツを競ったり、演劇や彫刻などの芸術が生まれたりしたわけです。
ところで、宗教に限定すると、その誕生の背景には言語の獲得がありそうです。 というのも、言語を持った瞬間、人間の創造力というか妄想力は一気に肥大します。 で、空間的には全宇宙、時間的には太古から永遠の未来を手中に納めたいと考える。 しかし、悲しいかな、人間に寿命があって、いつかは必ず死なざるを得ない。 生命というか、寿命は有限だと思い知らされるわけでしょ?


それは解けない撞着だというほかない。 じゃあ、どうすればこの撞着を克服できるのか。 まあ、物理学だって、宇宙の始めのビッグバンからその死滅に至るプロセスを捉え直そうと考えるわけですが、宗教もまた同様に、その営みを超越的存在に託して、永遠の時間と無限の空間を我がものとしようとする思いに根ざしているのだと思います。
ただ、宗教は割合、諦めがいいのかどうか。 よく分からないことは神や仏といった超越的存在に任せて、それへの帰依によって救われようという、そういう妄想の体系なんではないかと、私は思います。


ところが、同じ宗教というカテゴリーに含められる仏教は2500年前に、宇宙と自然の道理を非常に科学的な見方で見極めようという考え方を提起したようです。 そんな仏教が、その後、なぜ超越的な存在を認めるかのような現代の仏教に変化してきたのか。 このことを今日は、お教えいただきたいなと思っています。 実際、ユダヤ、キリスト、イスラムといった宗教は皆、ヤハウェ、エホバ、アラーなどの超越的存在を仮想して、それに救いを求める。 と同時に死後世界の妄想を打ち立てるのですが、仏教はそうじゃない。 お釈迦さんに、「死んだらどうなるんですか」と問うたら、「そんなことは分からない」と「無記を貫いた」と聞かされてきました。


ところが現代の、たとえば浄土教などは「あの世の話」だけで布教を行なっている。 まあ、禅宗系は少し異なるようですが、超越的存在を仮定しなかった釈迦の仏教が、なぜ、このような変質を遂げたのか。 お教えいただければありがたいと思います。



佐々木


実は、それは私の博士論文のテーマでありまして、なぜ、大乗仏教が出てきたのかということです。 これいうと、5時間ぐらいかかります。


実はそれは、「律」という法律と深いかかわりがあります。 最初に律の規則変更がありましてね。 仏教僧団の中でいがみ合い、争いがあった時に、お互い「わしこそ釈迦の教えの体現者だ、これが法だ」って教えの違いでけんかしていたのを、まとめるために仕方ないので、「見解は違っていても、一緒に行事に出れば仏教修行者」と言うふうに規則が変わったんです。 この規則変更が最初のきっかけとなり、次第に本来の釈迦の教えから逸脱した教えが出現しるようになった。 それを総称して大乗仏教と呼ぶのです。



高田


すると、大乗仏教が、そうした超越的存在みたいなものを、ある時点で認めてしもうた。 こう考えていいというわけですか。



佐々木


そういうものも、仏教の教えとしてあってもよい、と言うふうにまず規則が変わったんです。



高田


それはいつ頃のことですか。



佐々木


アショカ王のころ、紀元前3世紀ごろです。 その後、200年、300年の間で、そのタガが外れた状態でいろんな考え方が入ってくる中に、阿弥陀の教えも出てくるし、法華経も出てくるし、般若経もでてくる…。 同時多発的に違った人たちが作った教えです。 だから、大乗仏教というのはひとつにまとまらないんです。 全部、内容の違う経典が現れた。



高田


仏教世界に多様なる妄想が生まれたのですね。



佐々木


はい、多様化をまず認めたので、実際に多様なものが現れてきた。 という流れです。



荻野


高橋さん、どうでしょう。



高橋 淑子 (京都大学大学院理学研究科教授)


ほんとに、目からウロコでした。 ありがとうございます。 私は、理学部で生物学を教えておりまして…。 それなりに私も、いろいろと自分のありように悩んでいるわけですが、きょうのお話を聞いて、その悩みが消えて非常に心地よい気分になっています。 それで、科学と仏教というものについて、私も、少しだけコメントしたいともいます。


私は、発生生物学を専門としています。 例えば胎児は、一時も同じ形をしていないんです。 常に細胞が増殖したり、隣の細胞と話をしたり、形のないものから形ができるとき、細胞たちは一時もじっとしていることがないんです。 これ、大分前に、法然院で講話したときも、この話をしたんです。 そして、管主の梶田さんとお話をして…。 すると、今言った胎児の話は「諸行無常」と同じことで、つまり仏教も発生生物学も同じコンセプトに支えられているんですね。 以来私は、仏教哲学には、興味を持っておりました。 それで、きょうのお話を聞いて、仏教哲学と科学が非常に近いということがさらによくわかりました。


例えば、雷が鳴ると、昔の人たちは、これは空の神様、山の神様が怒っていると考えたわけです。 お月さんの形が、こうなったらいいことがある、あるいはああなってたら悪いことがある。 要するに、昔は呪術師、占い師が一番偉かった。 なので、恐らく、人々は合理的な解をもたなかったんたんだろうと思います。 なぜなら、科学がなかったんですね。 やがて、サイエンス、テクノロジーが世の中に出てきて、人々が合理的に考えるようになり、自分たちをいろんな恐れや怖さから解放することができた。 これが科学の本質だと思います。 そこで、派生的に出てきたのが、テクノロジーからの産業ですね。 これは必然だと思います。


そういう意味においては、仏教と科学、恐れということに対する二つの存在はちょっと違うかもしれませんが、私の中ではもっと似ているんじゃないかなと思うことができました。
プータロ―とか言われていましたけど、出家は、一歩進んでいて、究極の社会還元なんじゃないかと思うんです。 佐々木さんもおっしゃったように、ちょっと言葉が悪いかもしれませんが、出家していない人たちは、悟りを開きたいけど、よくわからない。 だから、出家をした人にお布施をして、何とか自分を助けてくれぇということだと思うんですね。 これは、人間の本能だと思います。


ご存知のように、数年前、あの小惑星探査機「はやぶさ」がイトカワから帰ってきた時に、私を含めて国民が感動して泣きましたね。 たかが機械の集まりであるロケットに、私たちは感情を移入して、イトカワから持ち帰ったカプセルを地球に届けて自らは燃え尽きていったということに、自分の心情と感情をそこに投影して、テレビを見ながら涙したわけですね。 私も、そして京大の理学部の多くのプロフェッサーも、科学者でありながら、あれを見て泣きました。 数学も物理の人もですよ。 はやぶさはひとつの例ですが、あれを見て、「こんなもんしょうもない。 役に立たへんものを、何やってるんじゃ」とかいう声は聞かなかったですよね。 みんな「はやぶさよ、よくやった!そしてイトカワから取ってきたもの、あの微粒子は何だろう」という好奇心で一杯になりました。 つまり「これいくら儲かるか」なんて声は、出なかった。 こういう心情は、まさしく人間の本能だと思います。 知的な欲求を持つという本能ですね。 そこに向けて宗教はどう応えるか、それから、サイエンスはどう応えるのか。 こういうことを、ずっとぼんやりと思ってたんですが、きょうのお話を聞いて、全部、するするすると悩みが溶けるようで、うれしく思いました。


それから、最後は、ほんとにベタなことですが、律と戒のお話を聞きまして、非常にクリアに、今の科学界を騒がせているいろんなネガティブな側面をどうとらえたらいいかということに、大きな答えをいただくことができたなと思いました。 実は、私も「STAP細胞」と同じ分野にいますので、あの問題は本当に耳が痛い。 それを、われわれはどうとらえたらいいのか、どうしたら防げるのか…などが、きょうのお話から、解決のための大きなヒントを得られたと感じております。



荻野


私からひとつ質問をさせていただけますか。 釈迦はひとりだった思うんですね。 ひとりで悟りを開いたはずです。 が、なぜ、4人以上いないといけない組織をルールとして制定したのか。 この4人以上の集団性というのがとても疑問なんです。



佐々木


釈迦という人は菩提樹の下で悟りを開くんですけれど、それは、三十代くらいの時で、それまでの前半生っていうのは全く他人のことは考えない利己主義一方の人なんですね。 自分の生きる苦しみを消すということだけ、つまり煩悩を消すということだけに集中して暮らしていましたから、人のことなんか考えたこともない。


ところが、悟りを開いた時に初めて心変わりをして、自分の体験を、同じように苦しんでいる他者に使ってもらおうということになったわけですね。 そうしますと、それまでの前半生では、試行錯誤しながらひとりの力で一生懸命やってきたわけで、場合によっては失敗する可能性もあったわけです。 もし、修行がうまくいかなかったら、そのまま野垂れ死にですからね。 そういう危機的な状況を経て最終的な悟りを開いた。 それを、今度は一般の人に教える側に回るわけですから、同じことをせよとは言いません。 少なくとも、自分がやった同じ体験を、より効率的に安全にやってもらおうという思いが出るのは当然のことですね。


その時に、釈迦が考えたのが、集団で暮らすということなんです。 例えばですね、托鉢に行く場合に、そこにいる全員が行く必要はないんです。 釈迦が決めた教えによりますと、例えば、病気だとかけがで動けない人は托鉢に行く必要はないんです。 行ける人が行って、もらってきたご飯を、行けなかった人のために分ける。 つまり、相互扶助関係なんです。 それから、先ほど、和尚と弟子っていう関係を話しましたが、どちらかが病気になった時は、必ず相手側が看病することが律で決まっております。 これは弟子と先生の上下なく、若いお弟子さんが病気になった場合は、和尚が看病しなければなりません。


それともうひとつは、釈迦の体験を伝えていくのが教育になるわけですから、釈迦が死んだ後、それが継続的に伝わっていかなければなりません。 そのためには、教育システムが定まらなければならないですから、その時には、集団体制でなければならないわけです。 つまり、たくさんの人が暮らしていくからこそ、先生が弟子に教えるという活動が可能になる。 和尚と弟子は一対一関係なんですけれども、場合によっては、和尚さんに不得意科目があって、例えば「わしは律はよく知っているけど、お経はもうひとつ」と言う時には、弟子をお経の専門家のところに行かせる。 科目別の先生につくんです。 この科目別の先生のことをインド語で「ācārya(アーチャリア)」といって日本語では「阿闍梨」といいます。 和尚も阿闍梨も、きちっと権威づけられた教育職なんですね。


そういったことを全部やっていくためには、必ず集団体制を取らなくてはいけない。 それで、集団としてのサンガを作ったわけです。 つまり釈迦は、自分のやったことを、そのままの形で弟子たちに体験させようとは思わなかった。 より、スムーズに効率的に、同じ体験の頂点にまで導きたいと思ったわけです。 それがサンガを作った理由です。



山極


社会で働くことを一切やめる、服も着ない、と。 特に、仏教すべてではないけれども、結婚しないというのがありますね。 妻を持たない、なんかもそうですね。 私は、家族の研究をしてきた者だから、そのことを考えてみたんですが、結局、家族を作ると、どうしても、そこにえこひいきをしてしまう。 それが、自分の身を捧げるものになってしまうので、そういうことを避けるということが、結婚しない、妻をもたない理由であったのではないかと思うのですが、どうでしょう。



佐々木


仏教では、とにかく、セックスを禁じると同時に、家族制度から外に抜けるわけですから、まあ、言ってみれば家族を捨てていくわけですね。 ただし、出家した後も家族との関係は切れません。 だから、一番いい托鉢の場所は、実家なんです。 なぜかというと、そこはたくさんくれるからです。 そうすれば、すぐ寺に戻って修行できますでしょう。 10軒回るところが、実家だったら1軒で住むわけですから。


それから、実家のお父さんお母さんとの面会は自由です。 仏教は、家族の情愛だとか、そういうものが邪魔になるとは言っていない。 一番邪魔なのは子どもができることです。



山極


ああ、親になってはいけない。



佐々木


そうなんです。 親になれば仕事をしなくてはいけなくなる。 仕事を捨てるんですから、扶養家族を持つことはできないわけで。 ただ、家族を禁じるという言葉はないんです。 ただし、性行為を禁じるというのは実に厳しく言われている。 それと、仏教だけでなく、当時のインドの宗教家の一つのパターンとしまして、禁欲的な暮らしをすることによって自分の精神パワーが高まると、精神集中の、つまりヨーガの力が高まるっていうことを盛んに言っていたものですから、宗教家・修行者=禁欲的という一般通念があったんですね。 仏教だけが勝手な思いで「そうじゃない。 セックスは構わない」と言うと、一般の人からすれば、仏教はだらしない宗教だということになって、これは、お布施がもらえなくなるひとつの理由になります。 つまり、子どもができるということによる修行生活の破たんと、一般の人たちのイメージとしての修行者=禁欲的というものを壊してしまうというところが、仏教が修行僧にセックスを禁じ、子どもを作らせないということの理由なんですね。



高田


釈迦の説いた教えも、宗教というカテゴリーに括れるものなのでしょうか。 きょうのお話を聞いていると、大乗仏教以後の仏教は、超越的存在を取り込んでいったようですが、釈迦の教えのなかには、それがないわけでしょ? まちがっているかもしれませんが、ぼくのイメージの中では、宗教は超越的存在を仮定しないことには成立しないのではないかといった思いがあります。 ところが、釈迦の教えには、それがなかった。 とすると、それは宗教ではなかった、とも言えそうな気がするのですが……。



佐々木


その通りです。 つまり、逆にわれわれは、宗教という言葉によって洗脳されて、超越者を認めるものを宗教だと思い込んでいる。 それは超越者を認める宗教の人たちが言い続けてきたことだから。



山極


儒教だって超越者はいない。



高田


儒教は宗教ではないという見方もありますね



佐々木


だから、仏教も宗教でないというのならば、全くその通りだと思います。



高田


では、佐々木さんは、宗教を仮に定義するとどういう言い方になるでしょう。



佐々木


死の恐怖を逃れるため、緩和するために独自の世界観を作り上げている活動。 これが私の宗教の定義です。



山口


サンガのことが、今ひとつ、よくわかってないんですけど…。 私は、釈迦の悟りを開いた後の光景が好きなんですよね。 「ね、聞いてよ、聞いてよ」って、みんなに言いながら走りまわっている、あの無邪気さが好きなんです。 ところが、今のサンガの話は、何となくそれとは違って、互助会のようなものであればいいんですけども、もしも、例えば会社っぽくなっちゃうと、そこに「グル」がいて、その思想に反する人間はつぶされてしまいますね。 そうなっちゃうと、さっき言った無邪気さと離れてしまうんで…。 そのへんはどうなっているのか教えていただけますか。



佐々木


釈迦はそのことは十分わかっていて、それが律の中にきちんと反映されています。 律の中には、和尚の言うことよりも律が優先すると書いてあります。 つまり、完全な法治主義でいかないといけないんだ、と。 和尚というのは、グルの立場ではなくて、単なる身元引受人なんです。 だから、和尚も間違うこともあるというのが前提なんです。 律にはこういうことが書いてあります。 「和尚が律に反する悪事を働いているのを見た場合には、それを咎めるのが弟子の義務」なんだと、ちゃんと載っています。


それからもうひとつは、サンガの中の序列なんですが、その人の人格、悟りの進み具合とか、そういうものは一切関係しない。 サンガの序列は、お坊さんになってからの日数だけなんです。 だから、長生きすれば、さぼっているお坊さんでもトップに行ける。 これは、何が素晴らしいかというと、階級闘争、上下関係の闘争が起こらない。 上に行くことが何の意味も持っていませんから、誰も上に行きたいと思わないんですね。 行きたかったら長生きすりゃいいだけの話ですから。 階級闘争が起こらないようになっているんです。 完全です。 だから、サンガにはリーダーがいません。


そればかりではなくて、サンガ同士でも上下関係がありません。 サンガというのは、特定の何人かの人たちが集まった組織体の一個一個の名称であって、その全体の、例えば、インドならインド全域の集合体が仏教なんですが、その中に、サンガの上下がないんです。 ちょうどインターネットみたいなもので、センターはどこにもない。 つまり、本山がないんです、仏教には。 それで、人の出入りは全く自由なので、こっちのサンガに飽きちゃったら、ほかのサンガに行ってそこのメンバーになるというふうに、常に移動しているわけなんですね。 ですから、サンガ全体の中に上下はなく、サンガの中でも、上下関係というのは非常につまらない関係で決まっている。 そして、師匠に従うということよりも律が優先する。 こういう枠組みが決まってますので、特定の人に権力が集中することはないんです。


そのサンガというのは、釈迦の設計によって決められたものです。 その設計は、自然に決まるものではなくて、それぞれの宗教の教祖が、自分の思想で作るものなんですね。 今、山口さんがおっしゃったように、間違った作り方のサンガもありえたわけです。 先ほど、グルとおっしゃいましたが、まさに、それを表しているわけで、全く同じ修行集団でありながら、オウム真理教は、麻原彰晃が間違った組織システムを作った。 そこに、オウム真理教が殺人教団になった理由があります、オウムは10年持ちませんでした。 2500年持っている宗教組織と10年でつぶれた宗教組織が、言っていることは同じですよ。 修行して煩悩を消しましょうと、同じことを言っているのにつぶれていくのは、実は、律のシステムの違いにあるんです。 だけど当時、オウムについては、こんなこと誰も言わなかったですね。 「ポアがどうこうの」とか言ってたけれど、そんなことは全然関係なくて、問題は運営システムですよ。



荻野


では、時間も来たようなので、ひとまず討論を終わります。 先ほど、宗教は「死の恐怖の緩和のために独自の世界観を作り上げている活動」という佐々木先生からご説明がありましたが、死の恐怖の緩和という視点で、きょうの「出家と科学界」というテーマを掘り下げることができるかもしれません。 このことも頭に入れていただき、この後、食事をしながら、自由に意見交換していただければと思います。



 



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