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クオリアAGORAスペシャル/~専門家とは何か?~〔第二部〕


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クオリアAGORAスペシャル
「専門家とは何か? FUKUSHIMA から考える」

日時:平成25年3月28日(木)18時~21時
会場:京都大学百周年時計台記念館百周年記念ホール

 


 

ディスカッサント:鷲田清一氏(哲学者、大谷大学教授)/堀場雅夫氏(堀場製作所最高顧問)/山極寿一氏(京都大学大学院理学研究科教授)/塩田浩平氏(京都大学大学院思修館教授)/西村吉雄氏(技術ジャーナリスト、FUKUSHIMAプロジェクト編集部会長)/高田公理氏(佛教大学社会学部教授)

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≫ 第一部はコチラです。 



それでは、第二部「専門家とは何か~FUKUSHIMAからどう変わる」を始めます。 


高田 公理 〔佛教大学社会学部教授〕


司会をさせていただく私自身は、何かの専門家であるとは言い難いのですが、第一部の「なぜ海水注入がされなかったか」は、非常に興味深く聞かせてもらいました。 それにしても、これほど基本的な事実をメディアが報道しないのはなぜなのでしょうか。 報道の専門家は何をしていたのでしょうか。 そこで、第二部は「専門家とは何か」に論点を集中して議論をいたします。 そのために、第一部の議論を振り返ってみると、次のようなことが言えるのではないでしょうか。 


まず、福島第一原発は津波が起こった直後に海水を注入していれば、被害はずっと小さなもので済んだ。 しかし、東京電力という原発の専門家はそれを拒否し続けた。 それに対して元総理の菅さんはじめ日比野さん、北沢さんは早々に海水注入することを提言されていた、わけですね。 仮に東電の原発の専門家がスペシャリストだとすれば、菅さんや日比野さん、北沢さんは、もしかすると日本の危機に立ち向かおうとしたプロフェッショナルだったのではないかという気がします。 


ここでいうプロフェッショナルとは、狭い領域のスペシャリストではなくて、より広い視野から包括的に問題を考え、行動するジェネラリストとしての能力、素質を持った人なのだと思います。 


そんなことを考えながら、私は子供の頃、京都の中央市場近くの自宅で、40度近い熱を出して腹痛に襲われたことを思いだしました。 母親が、ご近所のお医者さんに往診をお願いしたのですが、あいにく外出していて不在でした。 ところが夜9時頃に、そのお医者さんから電話がかかってきた。 かなりお酒を召し上がっておられたようですが、診察してあげようというんですね。 で、行くと、「風邪がおなかに入ったんやな」それを聞いた母親は、「先生、ホンマですか。 私は腹膜炎を煩ぅて長いこと苦しんだことがあります。 その経験から言うと、これ、盲腸と違いますか。 お腹風邪で、間違いありませんか」いうまでもなく盲腸とは虫垂炎のことです。 が、そういわれたお医者さんは、「そんなに言うのんやったら、白血球を調べてみよう」と、顕微鏡を出して調べてくれました。 すると、「あかん、白血球がものすごく増えてる。 すぐ入院や!」で、私は入院して手術を受け、無事、生き延びることができたというわけです。 


この時の近所のお医者さんは、確かに内科と小児科のスペシャリストでした。 それに比べると母親は単なるアマチュアに過ぎません。 しかし、暮らしと子育てに関してはそれなりの経験を持っていました。 いわば「その道のジェネラリスト」だったんでしょう。 しかも本人自身が虫垂炎の経験者でもあった。 そんな彼女が、スペシャリストの医師にツッコミを入れた結果、お医者さんもプロフェッショナルとしての自分を取り戻して、適切な対応をしてくれたのだと思います。 


それに比べますと、悲しいかな、原発のスペシャリストたちは、ジェネラリストの提案を受けても、優れたプロフェッショナルとしての資質を取り戻すことができなかった。 福嶋第一原発の事故における東電の対応は、こういうことの結果だったのだかなあという気が、しきりにします。 


そんなことを考えますと、現実の日本社会において、本当に求められる専門家とは、単なるスペシャリストであるだけでなく、同時にジェネラリストとしての広い知識や適切な決断力を留保していて、どんなときでも最適の意志決定ができる可能性を隠し持っているプロフェッショナルでなければならない、ということになろうかと思います。 


さあ、そこで、現代の日本社会が求めているプロフェッショナルとなりうる専門家とは何なのかについて話を進めていきます。 まずは、解剖の専門家で、京都大学の思修館教授の塩田さん、問題提起をお願いいたします。 

の官邸の中の様子を、お聞かせ願えないでしょうか。  


塩田 浩平

〔京都大学大学院思修館教授〕


高田さんが医者の話をされましたが、それを受けて医者のお話をしたいと思います。 私は基礎医学者ですが、臨床の教授はしばしば映画やドラマにもなるように、かつては絶大な権力を持っていました。 それは単に比喩ではなく、実際に偉かったのです。 昔は経験を積んだらそれだけ知識が身についていきました。 つまり、患者をたくさん診て、情報を最も多く持っていました。 情報と知識をたくさん持っていると正しい判断をすることができますから、診断も的確でした。 このように、臨床の教授は技術も知識も他人より優れていたので、権力を持つだけでなく実際に尊敬されていたのです。 


医学の世界でも、昔は情報と知識を個人で蓄積することが可能でした。 しかし現在は情報化社会となり、多くの人がインターネットで医学の情報を入手できますし、情報を処理することについても若い人の方が優れています。 多くの情報が専門家の専有物ではなくなってしまい、従って専門家の地位が社会の中で相対的に落ちてきているのかもしれません。 


現在は学問が細分化して、狭い分野を深く掘るような研究が多くなっています。 私たちもすぐ隣の分野についてもよくわからない、ということが起こってきています。 その一方で、例えば環境問題などは健康面については医学であり、また問題が経済や法律、自然科学など広い範囲に及び、複合的な考えが必要になっています。 


一人の人間がカバーできる範囲は限られているので、環境問題のようなことに関しては、誰もそのうちのごく一部の専門家にしか過ぎないということが起こります。 したがって、領域を超えた人々が協力してやっていくことが必要になってきています.また、これまでの教育のやり方を考え直すことが必要だと思います。 一つの領域を深く追究するだけではなく、広い視野を持って倫理観の高い人間を育てる必要性がようやく日本でも自覚されるようになってきました。 


宣伝になりますが、京都大学の思修館は松本総長の肝いりで創られた大学院で、すぐれた専門性を持ちながら広い教養を身につけた人間を育てることを目的としています。 この取組が成功するかどうかは、我が国の将来にとっても重要で、我々も責任が大きいと感じています。 


高田


一昔前なら、一人の人間がスペシャリストであり、同時にジェネラリストであることもできたのでしょう。 しかし、余りにも知識や技術の蓄積が進んだ結果なのか、現代という時代には、それが難しくなっているようです。 こうした弱点を克服するには、さまざまな知識や技術を秘めた人々のグループ、集団で対処する必要性があるのではないか、というお話でした。 


西村 吉雄〔技術ジャーナリスト FUKUSHIMAプロジェクト編集部会長〕


私は、本来は電子工学の専門家で、日経エレクトロニクスという技術者向けの雑誌の編集長を長い間しておりました。 20年ほど大学の仕事もしていたのですが、現在は全ての大学で停年になり、元通りのフリーランスの技術ジャーナリストとなっています。 


私自身がFIKUSHIMAプロジェクトのメンバーでもありますので、第一部との関わりが深い話を2点だけさせていただきたいと思います。 


点目ですが、東電の経営者の責任問題です。 山口さんとずっと問題意識を共有しているのですが、事故当日、東電の勝俣会長も清水社長も会社には不在でした。 この二人が戻り、東電の会社に揃ったのは3月12日の夕方16時半頃でした。 不在の最高経営者が会社に戻った際、会社としては必ず会議をしたはずです。 そしてそこでは暫定的な方針が出たはずです。 日比野さんが菅さんの所に入って議論をしたのが、3月12日の夜9時頃でした。 この時、東電の幹部は会議の結果を知っていたはずです。 この時に会長か社長が「廃炉のことを気にしないで、安全に全力を尽くせ」といっていれば、状況は変わっていたと思うのです。 廃炉は何千億円の損失になるので、現場は「上の人は廃炉を嫌がるだろう」と思って作業するはずです。 そこに上が「安全性を第一」という指示を出していれば、現場の対応は全く異なっていた可能性があります。 そういう発現を、少なくとも公的にはしなかった東電の経営者は,経営者としての責任を果たさなかったと言えるのではないか。 私は、そう考えます。 


もう一点は、時間が切迫しているときの専門家の関与の問題です。 2011年11月頃に学術会議が福島の事故を受けてシンポジウムを開きました。 その時にアメリカの専門家が招聘されていて、サイエンティストの役割について話しています。 この方が言うには、専門家は専門的な知識をパブリックに提供する義務がある、しかし政策に関する決定はしてはいけない、ということでした。 何シーベルト以下なら大丈夫だ、という話はするけども、この状態になったら出て行けというのは、選挙で選ばれた人の仕事であって、科学者の仕事ではないといっていました。 


専門家の役割としてはもっともだと思います。 けれども時間の問題があります。 特に専門家の意見が分かれたときに、政治家はどうするか。 時間があれば、専門家の合意形成を待つことができます。 あるいは政治家自身が、専門家の意見をじっくり比較検討して判断することもできる。 問題は、その時間がないときです。 先ほどの第一部で菅さんも言っていましたが、選挙で選ばれた人が専門家の意見を聞きながら政策を決める、その時間がないとき、どうすれば良いのか。 危機管理の問題が、今回試されたと思うのです。 


高田


要約すれば、まず第一に経営者責任を蔑ろにしてはいけない、第二に専門家が政策を決めてはならない、そして第三に、専門家の役割は意思決定するための資料を提供することだ、ということですね。 昔から「泥縄」という言葉がありますように、何か危機的な問題が発生したときに、最終的な意志決定を、どのように進めていけばいいのかという、非常に難しい問題を提起されたと思います。 


鷲田 清一

〔哲学者 大谷大学教授〕


専門家としては、学術的な専門家を中心にお話をされているかと思いますが、現在では専門家スペシャリストが昔と比較して随分と変わってきています。 


ある哲学者の言い方を借りますと「現代の科学者は特殊な素人に過ぎない」というのです。 つまり、学問の細分化が進み、そのある限られた領域のみ研究の現状や今ある課題を把握しているのですが、それ以外は無知、ということを示しています。 それを特殊な素人に過ぎない、と表しています


専門家とは何かということを考えますと、震災以降のこの2年、私は色々な所でシンポジウムなどに参加してきましたが、一番納得できた答えは専門研究者のものではなく、一般の市民の方の提起でした。 大阪大学の総長最後の年に震災が起きました。 翌4月から大学を中心に多様な研究分野の下で市民の方の不安や疑問に対してお答えするシンポジウムを大学主催でやってきました。 これまで社会問題などを扱ったフォーラムなどでは、参加者の方から「ではどうしたら良いのか」という、専門家の意見を聞くことが中心に寄せられましたが、今回の原発の件は、専門家の解決策を聞きたいという意見はなく、「今起こっていることはどういう問題か」「どう受け止めたら良いのか」という問題の本質を問う質問が多かったのが特徴でした。 


私自身も専門家について考えるにあたり、あれ、と思ったのは、原発の専門家はいないということをまざまざと見せつけられたと思います。 最初はテレビなどには原子力工学者という人が次々に出られていました。 私はそのような学問があるのかと思い調べたのですが、原子力工学会というアカデミックな団体は存在しなかったのです。 原子力学会という団体は社団法人であるのですが、入会にあたりアカデミックなチェックはないようで、専門外の私でも入れるような団体でした。 学会というとアカデミック・アソシエーションであり、そういう団体としての原子力工学会は存在しませんし、原子力工学者が同じ場で議論を闘わせるようなアカデミックな場がないことも知りました。 だから原子力工学者を名乗る人も、どこからデータを受けているかも異なりますし、考え方も全然違うと言うことがわかりました。 市民の方の疑問に対しても「電気が専門なのでわからない」「システム工学が専門なのでわからない」「放射能以外はわからない」と、専門が細かく分類されてしまっていまです。 だから原子力発電の専門家がいらっしゃらないと気付き、多くの市民もこれまでの異常なまでの科学への信頼を失い、逆ブレしてしまっている原因にもなっています。 


科学者として今起こっていることに対して何が言えるかを示してくれるのが専門家の役割のはずなのに、それが提示されないことで、2年の間で科学不信を招いてしまっています。 


では「信頼できる専門家とは?」とあるフォーラムで質問をしたら、ある参加者が明確な答えを出してくださいました。 特殊な知識を持っている人でもなく、最後に責任をとる人でもありません。 そうではなくて「一緒に考えてくれる人」だというのです。 現在、科学者も特殊な素人であり、市民も素人。 様々な問題に対して全体を見ることができる専門家は存在しない。 だから、一緒に考えて、その時にプロフェッショナルとして確実に言えることを示してもらい、それを通して一緒に考えること。 これは、現代の学術的な専門家の定義としてはきわめてまっとうなのではないのかと思いました。 その際に工学系の人たちに文系の人も一緒に考えて欲しかったとも言われました。 そういうコミュニケーションをとりながら、法的にどんな課題があるのか、等を検討していくことが求められているのでしょう。 


高田


改めて考えると、確かに原発を専門に研究する学会は存在しません。 でも、言ってみれば、原発というのは「巨大な湯沸かし器」にほかならない。 その熱源として原子力を使っているだけですから、そのための学会は存在しえないのでしょう。 もっとも、日本原子力学会のいうのは、ちゃんとあります。 いずれにしろ、どうしようもない問題が発生したときに、一緒に考えてくれるのが専門家なのではないか。 そういう専門家が求められているという、お話だったと思います。 


堀場 雅夫〔堀場製作所最高顧問〕


四人の学者先生が揃われていますが、私は、一部の話を聞いて、「アホちゃうか」と思っていました。 福島の問題は、専門家とは何かを考える以前の問題だと思うのです。 福島の事故を見たら専門家はいないし、経営者の専門家もいなかったし、全部アマチュアばかりだったことがわかります。 


僕も学生の頃は原子核物理をやっていましたが、一部の山口さんがいわれていたことが名言だと思っています。 飛行機は失速する速度以下になったら墜落しますし、列車も半径何メートルに対して速度が一定以上になったら必ず脱線します。 原子炉の燃料棒が水面から出てしまったら、ほっておくと温度が上がって溶け出してしまいます。 こんな状態に関しては、専門家は要りません。 中学校、せいぜい高校物理を知っている人出あればあたり前のことです。 自ら燃料棒がでたのであれば、水を入れたら良いのです。 真水がなければ海水を入れたら良い。 それなのに専門家、とはおかしい。 暴発したら原子炉は何千億か知りませんが、被害額は何兆円にもなるわけですから、経営者として「ヤバイ!何が何でも水を入れろ!何とかしろ!」というはずです。 しかしそうはなりませんでした。 東電の上の人は、経営者ではなかったのです。 サラリーマンなのです。 みな、プロではなくアマチュア。 アマチュアがやった失敗を見て「専門家とは何か」というのはおかしいと思いました。 


高田


ありがとうございます。 長年にわたって経営に携わってこられた方でないと、口に出来そうもないお言葉を頂戴したように思います。 それでは、これまでのお話を聞かれた上で、世界のゴリラ研究者のリーダーとして「人間とは何か」という根源的な問題を考えておられる山極さんに話を伺いましょう。 


山極 寿一

〔京都大学大学院理学研究科教授〕


福島とゴリラにどういった関係があるのか、と思われるでしょうが、私自身の経験を踏まえながらお話ししたいと思います。 


私はこれまで専門家と呼ばれることはあまりなかったのですが先月、JICAの専門家としてアフリカに行ってきました。 しかしその前から私は専門家というより、プロフェッショナルとしてこだわっています。 私がゴリラの研究を始めた頃、私より先にゴリラの調査をしていたアメリカ人がいましたので、その方のもとに弟子入りし、野外研究を始めました。 野生のゴリラにどう近づくか、ゴリラとどう付き合うか等多くのことを実践を通じて学びました。 しかし、彼女は何者かに殺されて世を去りました。 私にとって、その事件は今でも尾を引いています。 彼女はスペシャリストではあったのですが、プロフェッショナルのではなかったのです。 自分の見た世界を通じて、現実の世界を変えようということをしなかったからです。 それ以降、ルワンダは紛争が厳しくなってきたので、私は他の国に自分のフィールドを見つけて研究をしました。 自分の調査地を変えるたびに、プロフェッショナルとして何ができるかを考えています。 


コンゴ民主共和国(旧ザイール)で始めた研究でしたが、1990年代には戦争によって多くの人々が虐殺され、300万人以上の難民が発生した所です。 戦火の中でも、私はプロフェッショナルとして現場にこだわり続けたいと思っていますし、現場で大事な決定をするときには参加する意思をもっています。 


戦火の中で密猟が急増し、ゴリラの数が半数になってしまいました。 難民が逃げ、兵隊が追いかけて森に入ってゴリラを撃ち殺していったのです。 そこで密猟を止めるために、ナショナルパークと現地のNGOによる呼びかけがありましたが、私もそこに参加し、「この際、過去の恨みを洗い流して密猟者からの協力を仰ごう。 そうしないとゴリラは残らない」と話をしました。 ゴリラは、地元の宝物だから、なくしては将来の世代には何も残らないと説得しました。 その結果、何とかゴリラも生き残り、人もゴリラを観光資源として重要視するようになりました。 その経験を生かして、私は専門家としてガボンに行きました。 ガボンでもゴリラに関する重要な決定をする時は必ず同席するようにしています。 これは私の良心でもあり、プロフェッショナルとしての誇りでもあると思っています。 



高田


なるほど、ゴリラ研究をする場所の周辺には、人もまた住んでいるわけです。 で、そうした人々の協力を得られないと、ゴリラ研究は進まない。 ところが、山極さんの恩師であったアメリカの研究者は、それを怠ったために殺されてしまった。 そういうことでしょうか。 


調査にしろ、事業にしろ、現地のことがわからないと失敗するというのは、よく分かります。 ゴリラに関してはすごい知識を持っていても、それだけではいけないということですね。 


原発に戻りますと、経営の本当のプロフェッショナルなら、早い時期に水を投入するのが当然だったということでもあるのでしょうね。 


堀場


少なくとも現地がどういう構造になっていて、自動冷却装置は油圧でタービンを回すから、しばらくは機能するというようなことは会社として知っていてあたり前です。 それを知らないというのは経営者ではありません。 


僕は理科系出身ですが、税務について揉めた際、とことん税務を勉強し、そしてその戦いは僕が勝ちました。 アメリカで販売するにしても、アメリカの一流のセールスマンが売れなかったものを、僕はフォードの工場に一週間通い、売りました。 やる気があれば、文化系理科系の関係の問題ではありません。 このレベルの話はそんなものではありません。 このレベルは専門家の話ではなく、政治家の話でもありません。 僕はこの福島の問題からプロフェッショナル、スペシャリストを論じるというのが気に入りません。 


僕は、簡単に言うとお金をもらう人がプロで、お金を出すのがアマチュアだと思っています。 歌うたいについても、いくら上手くてもアマチュアはカラオケに行ってお金を払います。 


山極


先ほど鷲田さんが言われていましたが、「一緒に考えてくれるのが専門家」というのにこだわりたいと思います。 私の専門はゴリラですが、しかしそんなことには関係なく、現場では色々なことを聞かれます。 例えばエコツーリズムを発展させるのにゴリラを目玉にしてはどうか、というような話もします。 ゴリラを根絶やしにしたくないために、このようなことが必要だ、等色々と聞かれます。 専門家は自分の専門領域を超えてどう広げられるか、人の質問にどう答えるか、ということも大事だと思うのです。 


鷲田


堀場さんが「アマチュアだ」といわれるのもよくわかります。 いっしょに考えるということを私なりに解釈すると、専門家は、専門と違う畑でも実力を発揮できなければプロフェッショナルではないと思うのです。 ドクターの称号は、その分野についてよく知っている証明ではなく、とことん考えることをしたから、他の分野でもとことん考えられますよ、というパスポートだと思うのです。 堀場さんも、とことん勉強して税務署と闘って勝利を収められましたし、それまでは税務についてはアマチュアでしたが、経営で培った頑張りやノウハウをつぎ込んで勉強されたのだと思います。 


もう一つは、専門家は、科学の領域の人は発見でもいいですし、法律の人は制度のアイデアでもいいのですが、その生み出したものを実現するには、他の領域のプロフェッショナルやアマチュアを巻き込まないと実現できません。 技術を使った商品、例えば情報システムであれば、システム等の専門家と話をしますし、コスト計算も必要です。 売るためにはマーケティングや広報が必要ですし、そのためにアーティストの協力が必要です。 その道の他の専門家を如何に引き込むか、自分が発見したものの意味をいかに相手に伝えるか、という「いっしょにやろう!」という気にさせるための説得が必要です。 そのために日頃からアーティストが何にこだわるか、など常にアンテナを張っていないとアイデアに引き込むことはできません。 そういう意味での専門外を巻き込む誘惑する力がプロフェッショナルとして成り立つための必要条件にあると思うのです。 そういう2つの意味で専門家に必要な資質があると思います。 


高田


一言でいうと「巻き添えの能力」ということでしょうか。 お医者さんも、患者を「巻き添えにする」というか、自分の領域に巻き込まないことには、病気を治せないんでしょうね。 ところが、最近のお
医者さんは、患者を巻き添えにするどころが、患者には視線を向けずに、ひたすらパソコンの画面を見てキーボードを叩いているような気がするのですが……。 こうした状態の診察では、患者の病気が治りそうな気がしないのですが……。 


塩田


皆さんが感じておられる通り、専門領域も細分化が進み、医学の世界でも例えば消化器科、循環器科など内科の中でも細かく分かれ、近年は「胃はわかっても大腸はわからない」という医師が増えています。 そういう医師は患者にとっては親切とはいえません。 


もう一つ、生物、特に人間についてはわからないことが山ほどあります。 白か黒か決められないこともありますし、ひとり一人感受性や影響が異なります。 放射能のリスクについても「これだけの線量で癌が発生する」「リスクは何%」という説明を簡単にするのは実際には非常に難しいのです。 丁寧に科学的な説明をしようとするとわかりにくくなり、テレビのコメンテーターのように短いフレーズでまとめてしまうと嘘になる、というジレンマがあります。 だから丁寧に説明をすることも必要ですが、正しく理解されるには、まず聞き手に信頼されるということが前提となります。 信頼がなければいくら伝えても通じませんので、その辺が専門的な知識を伝える際の難しい所です。 


西村


いっしょに考えるというのは大事なポイントだと思います。 先ほど菅さんが言われていましたが、平時なら機能する司(つかさ)が機能しなかった、だからいっしょに考えてくれる人として日比野さんを呼んだ、ということでした。 そうなると専門家は知識ではなく人格の問題となります。 危機的状況で時間的にもゆとりがないとき、やっぱり信頼できる人の話を信じて進めることが必要なのでしょう。 菅さんはヘリに乗って福島第一原発に向かい、吉田所長と会われましたが、その時に「この男は信頼できる」と思ったようです。 数分あっただけで、知識がどうかというのではなく、人格で判断されたということでした。 平時であれば専門家集団の知識を集めて政策決定をしますが、非常時にはそれを超えた人格が必要ということでしょう。 






高田


さきほど私は「巻き添えの能力」と言い放ったのですが、それは、いわば「専門外の能力」でもあると思います。 山極さんがゴリラを守るためには、そこに住んでいる人も豊かに暮らすことが必要で、観光といった領域にかかわっていく能力も必要な場合があるとおっしゃいました。 ところが、現代日本の専門家の中には、しばしば狭い専門領域で、やたら威張っている人が少なくないような気がします。 そうした状態を克服するための能力はどうすれば育つのでしょうか。 


堀場


プロフェッショナルでなくても、日本ではそこそこ食っていけるのがいけない。 現在はプロフェッショナルでなければ収入が得られないという世界ではありません。 知り合いが盲腸の手術をしたのですが、3人目の医者でようよう見つけてもらった、といっていました。 おかげで腹膜炎を起こして死にかけた、とも言っていました。 胃が専門で腸はよくわからなかったというのです。 そんな医者が多いからわが社の血球測定がおかげでよく売れるのですけど…。 


高田


まちづくりにも似たような問題がありそうです。 大都市近郊にも人口減少が深刻な地域があるのですが、その立地が30分で大都市に行けるといった地の利に恵まれていると、危機感を持たないせいか、何もしない場合が多い。 それに比べると、大都市に行くには距離がありすぎて、どうにもそれに依存できないような場合、かえって底力が出てきたりします。 近い将来、日本経済は広範囲にダメになっていく可能性が大きいので、そうなると元気な人が出てくるのでしょうか。 とはいえ、そうした状況の到来を手をこまねいて待っているというのも非常に切ない。 少しでも専門領域をはずすと分からない専門家が増えて、堀場製作所の製品が売れるのは結構なことですが、何か手を打たないと、ねえ。 


山極


プロは金をもらう人と堀場さんは先ほど言われましたが、JICAと青年海外協力隊を比較しても同じことが言えます。 青年海外協力隊は、多少の給料をもらいますがほぼボランティアです。 つまり、責任ある決断を求められていません。 JICAは色々な課題に直面している中で対策をうち、お金の決裁をします。 責任ある判断が任されています。 そのような責任ある経験を現場ですることが大事だと思います。 


堀場


僕が「お金をもらう人がプロフェッショナル」と言ったのは、先生方が怒るかもしれないからそう言ったのです。 実は専門家の条件は別にもあります。 その人の話を聞いたり、論文を読んだときに感激、感動、感謝など心に響かせる能力がある人が、プロフェッショナルだと思っています。 山極さんが横にいるからヨイショするのではありませんが、はじめは「ゴリラか・・」とあまり興味がなかったのですが、はじめて山極さんの話を聞いたとき、人間との対比について知ったとき、「このおじちゃんはただ者ではない」と感激したのです。 彼は、プロフェッショナルだと思うのです。 しかし大学の先生はお金儲けをする気はないかもしれませんが、お金をもらいながら、人を感激させている人は多くありません。 山極先生は、人を感激させていますので、プロとして認定します(笑)。 


高田


長い間、アフリカでゴリラを研究してきた山極さんは、その間に30年ぶりにゴリラと対面して覚えていてくれたといった経験をしたり、はたまたゴリラに体のあちこちを噛まれたり……そういった実体験をしてこられたからこそ、堀場さんのような、いわば「すれっからし」の先輩を感動させることができるのでしょう。 そこから少し話が飛躍するのですが、落語家や歌舞伎役者なども、親や先輩と生活を共にすることで、いろんな思いや仕草などを体に染みこませます。 その点ではゴリラの知識や技術の伝え方に似ている。 つまり、知識や技術などの微妙な巧みさは、言葉を通じてだけでは伝わりません。 山極さんの研究が魅力的なのは、おそらくゴリラとの共同生活がもたらすものなのでしょうが、今の大学での教育は、どうもそういうことにはなっていないように思うのですが……。 


鷲田


阪大の話になりますが、今の若い人は現場感覚を学ぶために盛んにインターンシップに出ますが、私が大学にいた頃は、インターンシップを禁止させてくれ、といっていました。 ますます若者を受け身にしてしまう、と考えたからです。 上質の会社になればなるほど、段取りを何から何まできっちりと整えて準備されています。 学生がするのは、どこの会社に行くかを選択するだけ、といった状態です。 そんなのは意味がないと思うのです。 インターンシップは病院の「インターン」から来ていますが、いわば実習です。 「あなたたちは素人だから、病院の先生の管理下でやってください」というものです。 他の先生に怒られたのですが、「それならエクスターンシップとしてください」、つまりインターンシップの逆をしていく、としたのです。 つまり、インターンシップがいわば用意された遊園地であるならば、行ってこい、と空き地に出ていくのです。 商店街などに出かけ、何をするかはみんなで相談してゼロから考えることをしたのです。 提案をして商店街から抵抗を受けたり、保健所の許可や消防など色々な課題をクリアーしてイベントをしていました。 また、打ち上げの時に商店街の人はもう次の話をしているのに驚いたり、と経験をさせていただいたのです。 それを共通教育でやったのですが、他の先生からは猛烈に怒られました。 「阪大は世界の研究者と競争しているのに、商店街でやらせるとは何事だ!」というのです。 しかし、学生達はみんな、喜んでいました。 


高田


そういう経験をした学生は、就職試験は悉く受かると思いますよ。 


鷲田


ただ、そこに来ていた学生は、いわゆる「おちこぼれ」であり、駆け込み寺的な役割となっていたのでした。 工学部や医学部こそ、クライアントと丁々発止のコミュニケーションが必要ですから、そのような場になって欲しいと思っていたのですが、彼ら、彼女らは研究室やチームで動いていますので、なかなか来てくれなかったのです。 


高田


なるほど、それは私の所属している社会学部にも当てはまりそうです。 そもそも私は、ソシオロジーを日本語にした社会学という学問名称は、なかば冗談ながら、誤訳なのではないかと思っています。 というのも、明治以前の日本語には「社会」などという言葉は存在しなかった。 もし、あるとすれば「世間」と呼んでいたものが、それに当たるのではないでしょうか。 とすれば「ソシオロジー」を「世間話」と訳しておれば、もっと面白い展開があったかも知れない、などと考えたりします。 このことは学生たちの就職活動においても、実利・実益・実用の役割を果たすように思います。 というのも就職面接で、どんな大人とでも15分、相手を飽きさせずに楽しい世間話を交わす能力を持っている学生は、まず就職面接に失敗しないからです。 


塩田


教育という問題についていうと、京大の大学院の教育は自由でほったらかし、というのが特徴でした。 「これ、面白いと思うけどどう?」と学生に示して、学生がゼロから考えて研究し、面白い結果を出していくのが京大のやり方でした。 しかし最近はなかなかそれが通用しなくなってきました。 初めから目処がついた、目標が見える研究をさせないと、何をしたら良いかわからない学生が増えています。 これは学生の能力というよりは、教育の問題だと思います。 今の学校教育は、わかったことをわかったこととして教えて、その知識の範囲で受験をするということがまかり通っており、その中で育った人が主流になってきています。 もう少し、子どもの頃からわからないことは何かを教えたり、わからない時にどのように対処するかを考える教育をすべきではないかと思います。 


山極


先ほど世間話の重要性を言われましたが、確かにそうだと思います。 文章を書かせたら立派なことを書くのですが、話せないのです。 お互い話すにも、怖くて自分のことが話せない。 色々な人と話をして、色々なアイデアを得ていくことも大事ですし、これは現場の感覚でもあると思うのです。 判断は専門家以外の人がするという議論がありましたが、その決断ができない専門家が増えています。 福島については色々な人が色々なことを言っていますが、どこにまとまっていくかが見えません。 






高田


ここで会場から寄せられた意見や質問を紹介します。 「文系・理系の二分法ではなく、三分法で考えるべきではないか」というご意見がありました。 ここでの議論は、そんな区別を皆、越境していこうと話になったので、このご質問には、すでにお答えしたということにさせていただきます。 で、つぎは、「専門知識のない人に専門知識をわかりやすく伝える力が必要だと思うが、その力はどこで身につけるのか」というご質問がありました。 これについては、どう考えたらいいのでしょうか。 


堀場


難しい話をする専門家は、頭が悪いのだと思います。 本当に理解している人は、話す相手のレベルに併せて伝えることができます。 能力がない人は、相手が誰であろうか、同じ話しかしません。 その人が理解できる言葉で説明できるのが、本当の専門家だと思います。 


高田


そういうのは阿呆だというほかないのでしょうが、そうした人を救う方法はないのでしょうか。 


鷲田


そのような人は研究者に向いていないなので、救わなくてもいいのではないでしょうか。 スペシャリストはマニュアルがないと通用しませんが、エキスパートはマニュアルなくても動ける人。 その違いではないでしょうか。 専門家、技術者、学者など、誰でも「スゴイ」と引き込める能力があることは大事だと思うのです。 哲学書を最初に読んだときには2割も理解できません。 


堀場


哲学者というのは、簡単なことを難しく言う人ではないですか。 


鷲田


今まで何十回読んでも半分程度しか理解できないもので、心を鷲掴みにしている文章があります。 「精神とは自己である。 自己とは関係が関係それ自身に関係すること…」という文章にはじめてであったとき、よくわからなかったのですが、心を鷲掴みされました。 そして長い時間が経って、あるときに「こういうことか」と理解できるのです。 話芸であろうが理論であろうが、そういう心掴まれる経験があります。 


高田


この議論を上手に収拾するのは不可能ですね。 でもまあ、不可能なのだから、仕方がない。 そこで、最後に、ご登壇の皆さんから短いまとめの一言をお願いします。 


塩田


科学者、専門家について考えるべきことはたくさんありますが、社会も専門家が言うことについて耳を傾け、もっと自分の頭で考えるという習慣を身につける必要があると思います。 「嘘でも良いから大丈夫だと言ってくれ」という態度ではなく、各自が自分の問題として考える癖を付けることが重要だと思います。 


西村


ずるいのですが、私は堀場さんへの質問を最後の言葉にしたいと思います。 最初に提起した質問ですが、なぜ「廃炉のことは気にするな」と経営者は言わなかったのでしょうか。 経営者としてプロではなかったのでしょうか。 その一言を言っていれば、現場の指揮は変わっていたと思うのです。 経営者として難しい発言なのでしょうか。 


堀場


簡単です。 トップの人が経営者ではなかったのです。 


鷲田


本当のプロは、それをするのに恵まれていない条件の方が大成しやすいと思います。 学ぶ環境に恵まれていない方が学問のプロになりますし、口べたな人の方がトップセールスマンになります。 イケメンや美女でない方が人を惹きつけます。 ふさわしくない状況の方が努力をするからです。 


山極


今まで常識というのは無数の科学の問いによって創られてきました。 しかしそれは新たな自然現象に対峙すれば、覆されます。 新しい時代に科学者は真摯に向かわなくてはいけないと思います。 それが想定外と言われた福島の事故です。 謙虚な姿勢でいられるのが専門家だと思います。 そこから、謙虚になってはじめなければいけないと思うのです。 


高田


りがとうございました。 私は「巻き添え能力」といった言葉を使いましたが、今の世の中、どんなテーマについても、あらゆる人と話し合えることが大事なんでしょう。 そのためには、山極さんが指摘された謙虚さが不可欠なのだと思います。 今ひとつは、それぞれの人の専門領域について、誰もが理解できるような説明能力を身につけるということなのでしょう。 


40年ばかり昔に、私は「ニセ医者」の研究をしたことがありますが、大体においてニセ医者は患者に親切だし、意外に患者を癒す能力が高かったりします。 いつばれるかという心配が、返って患者に対するホスピタリティを高めるといったこともあるのでしょう。 スペシャリストを越えるプロフェッショナルには、こんな逆説的な事実も考えてもらう必要があるのかなあと思います。 


と申しあげたところで本日の議論はお開きにさせていただきます。 皆さん、ありがとうございました。 


 


 



関連:~福島原発事故は何故起きたのか~

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