第6回クオリアAGORA 2015/“無心”から “生きる”を考える/活動データベースの詳細ページ/クオリア京都


 

 


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第6回クオリアAGORA 2015/“無心”から “生きる”を考える



 


 

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第6回クオリアAGORA 2015/~京都から2030年の未来をつくる~「西欧文明からの転換‐アジア太平洋文明を考える」/日時:平成27年11月26日(木)18:00~21:00/場所:京都大学楽友会館会議場-食堂/スピーチ:安田 喜憲(立命館大学環太平洋文明研究センター長/ふじのくに地球環境史ミュージアム館長)/【スピーチの概要】無心になった時に、発見があり、スポーツや芸術などの世界でも最高のパフォーマンスが発揮できると言われます。では、無心とは何か。何も考えないことなのか、無我夢中を言うのか、また無意識とは違うのか…。第6回は、ライフサイクル、人間形成の研究を続ける西平直京大教授、東日本大震災以来、「人間は生きものであり自然の一部」と語る中村桂子生命誌研究館長を迎え、先人たちが培ってきた言葉を超越した精神的な境地で育まれるという「無心」について考えます。/【略歴】西平直(立京都大学大学院教育学研究科教授)1957年甲府市生まれ、信州大学卒業。東京大学大学院博士課程修了後、同大学院教育学研究科助教授などを経て、2007年より現職。専門は、教育人間学、死生学、哲学で、人の一生(ライフサイクル・人間形成)、死や誕生、稽古や修行、老年期の問題などを研究。主な著書に「エリクソンの人間学」「魂のライフサイクル-ユング・ウィルバー・シュタイナー」「世阿弥の稽古哲学」「無心のダイナミズム」「誕生のインファンティア-生まれてきた不思議・死んでゆく不思議・生まれてこなかった不思議」など。この所毎年ブータンに通う。




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長谷川 和子(京都クオリア研究所取締役)


私たちは「我を捨てろ」「欲に走るな」「無心になれ」なんていうことを言われてきましたが、無心と言われても、なかなか、そうすぐになれるわけではない。どうしたら無心になれるのか、型から入ってなれるものかなど、皆さん方いろいろ考えたのではないかと思います。無心によって何がみえてくるのか、そして体得できるのか。


きょうは、無心、稽古や修行などの研究をされている京都大学の西平さんをお迎えしました。この世に生を受けた私たちが、無心になることにより、日常の雑念や欲を払ってしなやかな生き方ができる…。第6回のテーマは「型と無心―稽古の思想のしなやかさ」です。



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スピーチ 「"無心"から "生きる"を考える」


京都大学大学院教育学研究科教授 西平 直さん

京都大学大学院教育学研究科教授
西平 直さん



ある学生が書いてくれたダーツの話から始めます。その学生は、大学に入るまで、ダーツをやったことがありませんでした。ある時友達に誘われ初めてやってみた。すると当たったんですね。もう一回やったらまたうまくいった。「うまいじゃないか」とおだてられ、今度は少し本気になってやり直してみた。するとうまくゆかない。どうやったらうまくゆくかと、と気にし始めたら、ますますできなくなってきた、というのです。


この学生は、「一体、稽古する、練習していくというのは、どういうことなのか」と書いてきました。練習など始める前の方がうまくいった。練習すると自分の体を意識する。うまく当てようと気負ってしまう。練習すると余計な「ギコチナサ」を招くことになるのではないかというのです。


この話は私に、教師になりたての頃の経験を思い出させました。私は初め立教大学の教職課程というところに勤めて、学生たちを教育実習に送り出す仕事をしていました。何年かしたころ、ある学生が、「自分は準備をしてから実習に行きたくない。まっさらな気持ちで生徒と正面からぶつかりたい」と言ってきました。


私は「悔しい」と感じました。なぜなら当たっているからです。しかし「違う」とも思いました。うまく整理はできないのですが、「準備しない方がいい」とは言えない。確かに万全の準備をして構えてしまうよりも、まっさらな気持ちで、子どもたちにぶつかってほしい。ではなぜ私たちは学生たちに準備をさせるのか。私にとってこの問いはずっと課題でした。そしてそこから10年ほど後に世阿弥の『伝書』を読んだ時、世阿弥もずっとこのことを考えていたことを知りました。



「似する」-「似せぬ」-「似得る」


世阿弥は「無心の舞い」を追究しました。無心で舞うことが最も美しいというわけです。では稽古などしない方がよいのか。無心で舞うことが目的ならば、稽古などしない方がよいのか。最初の時の気持ちのままでいる方がいいのではないか。


ところが世阿弥は徹底して稽古せよと言います。稽古しろ、用心しろ。つまり意識化することを勧めるのです。「あらゆる自分の動きを意識化せよ。自分の気が付かないところに弱みが出てくるのだから、あらゆる機会を使って用心を極めよ」。ところがそう言ったすぐ次の文章に、「しかし用心している限り名人とは言えない」というのです。「用心に留まっている限り、名人とは言えない」と、逆説的なことを言うのです。


一方では「用心しろ」といい、他方では「用心してはいけない」という。この逆転するダイナミズムを見ないと、世阿弥の文章は、まるで混乱していることになってしまいます。あるところまで行ったら離れる。しかし最初から、それを求めてはいけない。一番大切なことは直接求めてはいけない。それを私は世阿弥から学びました。


レジュメをご覧ください。「意識に囚われる危険」。世阿弥は、一方では、意識しろと言います。意識することは大切だ。ところが他方では、意識に囚われてしまう危険を説きます。意識に囚われることが人間にとってどれだけ厄介か。特にパフォーマンスにおいては、これが決定的な災いになる。内側から湧いてくる流を意識が止めてしまう。つぶしてしまう。ですから世阿弥は「意識に囚われるな」と警告します。意識に囚われる危険について繰り返し語るわけです。


そして実はこの点は、日本の思想の中で、様々な形で繰り返されます。例えば、沢庵禅師という人は、柳生の剣について書いた文章の中で、「一所に心を止めてはならない」とか「心を取られる」という言い方をします。沢庵の言葉で言えば「無心とは、心をどこにも置かぬ」こと。どこか一点に心を止めてしまってはいけない。いつも心を流しておく。360度、全方位的に、心は流れていなければならない。


しかしそういう沢庵も、実は、前段階として、「心を止める」稽古を勧めています。集中すること。自分の指先まで完璧に意識する。しかし意識している限り、一所に心が止まってしまう。そこでそこから離れる必要を説く。むしろ「心をどこにも置かぬ」こと。


ところがその一番大切なものを最初から、直接求めてはいけない。いわばある種の回り道です。初めから「心をどこにも置かぬ」のではなくて、一度集中した後にそこから離れる仕方で「心をどこにも置かぬ」状態を招き寄せる。そうしたダイナミズムなのです。



そのダイナミズムを学生たちに説明するために、お配りしたチャートを使います。(資料)世阿弥は「似する」「似せぬ」「似得る」という言葉を使いました。能は、ご存知のとおり「真似る芸」でした。物真似から始まったわけです。そこで「似する=真似る」。最初、子どもの時といいますか初心の時は、とにかく真似ることを一生懸命やります。しばらくすると真似ることができるようになる、ということは、意識化できる、用心できるようになる。するとある時点から「似せぬ」という芸に移っていくというわけです。


この「似せぬ」についても、語ればいろいろですけども、例えば「女の仕草をする」というところで、「女性は女に似せようとしていない」といいます。女性は、女に似せようとしないのに、女として振る舞うことができる。それが「似せぬ」。似せる必要がないと言えばいいでしょうか。なりきっている。もはや「そのもの」である。したがって「似せぬ」とは、「意図的な作為の放棄」です。もはや何もしようとしない。無心という言葉にかなり近いと理解してよいと思います。


ところが、無心の思想は、ここで終わりではありません。「似せぬ」を続けていると、ある時、「似得る」ということが起きる。意図的に似せようとして似得るのではなくて、もはや似せようとしない、ある意味で「あるがまま」を保っていると、ある時、不意に、文字通り、意図せず出てきてしまう。能の舞台で考えれば、例えば、シテが、ワキと囃子方などとのコラボレーションの中で、自然にこう振る舞うしか他にありようがないのだという仕方で「似得る」が成り立つ。


「似する」「似せぬ」「似得る」。「似する」方向に、一生懸命頑張って技術を磨くのは、実は反対のベクトルと言いますか、そこから離れる「似せぬ」の方向に逆転するためである。その場合、自然に離れていくと語られる時と、苦労して離れていくべきだと言う時といろいろです。例えば、座禅の修行などは苦労して「似せぬ」に向かってゆきます。意識的な「似する」の地平から、無理やり身を引き剥がして、離れようと努力する。ところが、離れていくと、ある時、突然、新たな言葉が生まれてくる。いわば、「言葉のない地平」に新鮮な言葉が生まれ出てくるというわけです。


実はこの点はとてもデリケートです。というのは、「似せぬ」を追究し続けることこそ無心である、という見解もあるからです。そしてその視点から見たら、安易に「似得る」が生じてくる境地など、まったく浅い。どんなに修行を続けても無心に行き着かぬ、ただ求め続けるのみ、それこそが無心の真の姿であるという人から見たら、「西平が言っていることは、全然浅い。無心などと安易に言ってもらっては困る」ということになるわけです。


よく分かるのですが、しかしその点だけを強調すると、無心は、私たちの日常生活とはまったく切り離れた特別な人の「非日常」の出来事になってしまいます。せっかくの日本の伝統的な思想が、私たちの日々の生活とまったく無縁になってしまう。それはもったいない。私は「無心の思想」をゆるやかに捉えて、むしろ私たちの日々の暮らしの中で、小さな無心の出来事を大切にしたい。小さな無心を育ててゆきたいと思っているのです。


「型」、「子どもの身体」、「器」、「曲」


さて、この枠組みを使って様々な機会に、例えば、学校の先生たちに、役者さんたちに、経営者の方々のところで話をし、多様な質問を受けてきました。ここからはその話をします。ということは、ここからは、答えがあるわけでなくて、むしろ何かいいアイデアをご提案いただきたいということなのです。レジュメの3です。


- 西平さん レジュメ -


まず一つ目、「型は子どもの内側からは出てこないのか」という問題。「似する」とは、ある意味では、型に入ることです。例えば、子どもたちが型に入る練習をする。問題は、その時に、型が子どもの内側から出てくるのか、それとも、型は必ず子どもたちの外から、異質なものとしてくる、いわば、子どもたちを「型に入れてしまう」のか。


どうやらこの点は、ジャンルによって状況が違うようです。学生たちは大抵サークルに入っているわけですが、例えばジャズの人と柔道の人とでは、「型」という言葉の意味合いがかなり違う。ジャズダンスでしたか、正確には忘れましたが、子どもたちが楽しく踊っていると、自然に、大人たちが伝統的に伝えてきた型と同じ動きをやり始めるのだそうです。自然に、型が、子どもたちの内側から、生じてくるというわけです。


しかし多くのジャンルではそうはゆかない。型は子どもの内側からは出てこない。外から、親から、先生から、伝統から、いわば押し付けられる、というわけです。すると、この場面における「型」は、いわば内側からの動きを「抑えつける」働きとなります。


ところが、その型を学んで、型が身についてしまうと、今度はむしろ、それが一番楽になります。型に乗ればいい。自分の内側の思いを表現する時、その型に乗って表現する。ということは、この場合の「型」は、内側の動きを「支え促す」働きをしていることになります。


つまり同じ「型」でも、場面によって、意味合いが全く違うわけです。最初に出合う場面は、敵対的と言いますか、子どもから見たら、「型に入るのは苦痛、自由にしたい」。ところが、反復練習によって型が身についてしまうと、むしろ、型こそが内側の動きを促してくれる。敵対的どころか、最も支援してくれる機能を持つわけです。少なくともこの二つの場面を分けて使わないと、型の議論は混乱してしまいます。


レジュメに書きましたが、内側からおのずから生じる動きを促す型、これを「型2」とでも言いますか、少なくとも、そうした「型」を、明確に区別しておくべきだと思います。しかしそんなにうまく分かれるものかどうか、あとから、みなさんの体験を伺いたいと思います。


二つ目です。世阿弥は、あるところで、「子どもの身体を技のうちに残せ」と分かりにくいことを言いました。(チャートを示しながら)、技が「赤の枠(区切り)」ですが、この時、早く「黄色のぐにゃぐにゃした動き(区切りなし)」から離れて、赤い枠(区切り)に入れとは言わないということです。そうではなくて、内側に黄色を残したまま技を身に着けよというわけです。もう少し正確に話をすると、前期の世阿弥と後期の世阿弥では微妙に話が変化しているのです。若いころの世阿弥は、早く黄色を捨て去って赤に入ることを稽古の勧めとしていましたが、ある時期から、自分が求めていたこの「似せぬ」の舞が、稽古を開始する前の子どもの動きと同じであると気づいてしまうのです。ということは、稽古(「似する稽古」)とは、理想の舞から離れることになる。そこで世阿弥は悩んだわけです。


ここに「児姿幽風(こしゆうふう)」という不思議な漢字が出てきます。「子どもの姿こそ幽玄の姿である」。子どもの動きこそ、最高であることを肝に銘じよと語るわけです。そして先の言葉、「技の中にこの児姿を残しながら技を学んでいく」が出てきます。いわば、半熟卵のように、内側の柔らかさを保ったままで、外側の殻だけ固くする。動きを止めてしまうように見えるけども、それは、実は一番繊細な柔らかい動きを保持するためであるということになります。


さて、問題は「下地」という言葉です。世阿弥は稽古以前に身についている「下地」を強調します。では、型は、下地がある時のみ有効なのか、それとも、型はこの下地も育てるのでしょうか。


(チャートを示しながら)今までの話では、当然のように、この「黄色の動き」が前提でした。つまり「稽古の下地」を前提にして話をしてきました。しかし世阿弥のいう「子ども」は、実は一座の子どもに限られているのです。稽古などを始める前から自然と芸に馴染んでいる。舞台も目にするでしょうし、謡も聞く。いわば稽古を始める前から、からだに染み込んでいるわけです。つまり下地がある。ということは、世阿弥の議論は下地がある子どもを前提にした場合のみ成り立つのではないかという疑問です。


この点は、例えば、今日「伝統芸能を習う」人たちが語ることでもあります。その場合、下地がないまま、別の型に入ろうとするわけです。例えば、よそからその村に入って習おうとする。その村の子どもたちと一緒に稽古するのですが、村の子どもたちは何故かできてしまう。今の理解で言えば、下地があるから自然に身につくというわけです。それに対して、外から行った者には、その下地がない。というより、むしろ、別の下地を持っていることの方が問題になる。別の下地をもって稽古するから、同じ「型」を身に付けてもどこか違うというのです。


話が厄介になりますが、ある方は、「すべて人の動きは型を持っている」といいます。ということは、「型がない」ところに「型」を学ぶことはありえない。型を学ぶとは、正確には、今まで持っていた型を捨てて、新しい型に入るということである。つまり「型の組み替え」である。そう考えると、「子どもの身体をわざの内に残す」という知恵も、あらためて考え直してみる必要があるように思います。


三つ目に進みます。「芸を習い始めると、型を習得することはできないか」という問題です。世阿弥は、あるところで、「器(うつわもの)」」という面白い言葉を使っています。基礎、基本、土台の意味です。器の上に芸を盛るのであるから、器を大きくしておかなかったらどんなに練習しても芸が小さくなってしまう、というのです。ところがその先に世阿弥は「芸を習い始めてしまうと、もはや器を大きくすることはできない。だから、芸を習い始める前にたっぷり器を大きくしておかなければならない」というわけです。


ピアノをやっている人はこの話がよくわかるようです。早くからテクニックを習い始めると、土台を広げることができない。しかし柔道の人などは、技を習いながら土台を広げていくと言いますから、この点もジャンルによって違うのだろうと思います。この辺の問題もご意見をうかがいたいところです。



四つ目の論点です。「『曲』は習うことはできない。習うのは『節(ふし)』のみ」という点。「曲を極めると、曲は自ずから香り出す」。能という芸術において一番大切なのは、この「曲」とよばれる、言ってみれば「雰囲気」です。一曲が持っている固有の雰囲気。ところがその雰囲気は、師匠から習うことができない。なぜならこの「雰囲気」は、節としては表現できないから。例えば、名人の持っている独特の雰囲気は「楽譜」に書き写すことができないから、教えることも習うこともできない。「曲」は師匠から習うことができない、と断言するわけです。


そのかわり「節」を習うことができる。そして節を習い窮めると、曲は、おのずから香り出す。その出来事が大切であるというわけです。世阿弥は稽古を強調しますが、同時に、稽古の限界を見極めていました。稽古の及ばぬ地平を見ていた。習うことができない。教えることもできない。ただ稽古を極めた者の内側から、おのずから生じてくるという仕方でのみ「香り出す」。その地平を見ていたことになります。



「無心」の意味


さて、最後に、あらためて「似せぬ」、あるいは「無心」の話に戻ります。いろいろな方と話をしているうちに、私は「無心」を、「既存の動きが通用しない」場面と重ねて理解することはできないかと思うようになってきました。


「既存の動き」というのは「似する」です。習うこともできるし、自分で意識し工夫することもできる。ところが、それがもはや通用しなくなったときの問題。禅の方々は一生懸命に座禅を組んで、いわば、強制的に無心の境地を追究するわけですが、私たち凡人は、むしろ「行き詰まる」とか「挫折する」という仕方で、望んだわけではないのに、「似せぬ」を体験することになる。ということは、その「挫折」が大切になる。挫折した時を、どう過ごすか。もしかすると、その時を、上手に過ごすと、新たな動きが生じてくる。「似得る」がやってくる。


もちろん、ただ挫折して待っていればよいというわけではないでしょうし、むしろ、それまでに、どれだけ稽古を積み重ねてきたか、それが、この場面で試されるということなのだと思います。


後で、山口さんからお話を聴きますが、先日「イノベーションダイヤグラム」を見せていただいたのです。ごく簡単に言いますと、既成のモデルから一度離れた人が独自に暗中模索を続けていると、不思議な仕方で、新たなイノベーションが成り立つことがあるという話。既成のモデル(パラダイムという言葉でしたが)、その中から、そのまま、新しい発見があるのではなく、一回、そこから離れることによって初めて、「イノベーション」が成り立つというわけです。その話を聞いた時、私は「似せぬ」の智慧に似ていると思いました。この「似せぬ」の期間が、「創発Abduction」の期間になるのではないか。


しかし、世阿弥の話も山口さんの話も、その先に「似得る」が想定されています。その先の「似得る」があるから、「似せぬ」の意味がある。ところが、ある時、この点について、臨床心理学の先生から質問されました。そのまま「似せぬ」に居続けることにも意味があるのではないか。例えば、臨床心理のクライエントの場合、すっと「似せぬ」状態が続く可能性がある。芽が出ないかもしれない。しかしそれでもよいのではないか。むしろそこに意味を見ようとすることこそ大切ではないかというわけです。


芽の出ない「似せぬ」にも意味があるのか。そう思ってみれば、無心の思想は、実は、芽が出ないことそれ自体にも意味があると教えているように思います。無心に留まっていること、それ自体、大切である。しかしだからそこに留まってよいとは言いません。おのずから、芽が出てくると言います。おのずから、香り始めると言います。しかしそのための準備なのではありません。「似せぬ」ことそれ自体に意味があると語るのです。


無心の思想の魅力の一つは、花を咲かせるために無心になるわけではないという点です。無心になること、無心を求めること、それ自体に意味がある。それ自体が輝くことである。その点が私にとって励ましなのです。



時間も尽きましたので、ディスカッションにつなぎたいと思います。ありがとうございました。






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