第9回クオリアAGORA_2015/ディスカッション/活動データベースの詳細ページ/京都クオリア研究所


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第9回クオリアAGORA_2015/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

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ディスカッサント

佛教大学社会学部教授

高田 公理 氏


京都大学大学院思修館教授

高橋 淑子 氏



京都大学総合博物館館長

大野 照文 氏


京都大学基礎物理学研究所准教授・統合創造学創成プロジェクトリーダー

村瀬 雅俊 氏




高田 公理 (佛教大学社会学部教授)


最初に、村瀬さんに非常に単純なことをお聞きします。 先ほどの「レッドクリフ」の話ですが、5万人の軍隊は初めから、敵軍に 80 万人の要員のいることが分かってたんですね。 他方、80 万人の方は、相手が5万人ということを知らなかったというわけですか。 



村瀬 雅俊 (京都大学基礎物理学研究所准教授)


そうです。 わかってないですね。 大事なことは、常に水のイメージですね。 水は高いところから低いところへ。 それから、例え障壁があっても乗り越えることができる。 津波なんか特にそうですね。 そうすると、最初に不均衡さえつくっておけば、後は、ほっとけばなるようになる。 



高田


この話題に関して思い出すのは、18、9世紀プロイセンの軍人クラウセヴィッツの『戦争論』です。 それによると、戦争に勝つには、きちんと敵軍の人数や装備の実情に関する「報せ」を捉え直しておかねばならない。 でも、それだけではダメで、同時に敵軍の「やる気=モラール(士気)=気持=情」も正確に捉えておく必要がある。 クラウセヴィッツは、これらを合わせて「Nachricht(ナハリヒト)」という単語で表現するのですが、これがすなわち「報せ」と「情け」からなる「情報」という日本語の基になったわけです。 まあ、この翻訳語を作ったのは森鴎外やということになっていますが、さきほどのレッドクリフの戦いに勝利した諸葛孔明は「報せ」と「情け」の両方を熟知しておった。 こう考えてよろしいのでしょうか。 



村瀬


そうだと思いますね。 



高田


ここのところが非常に大事で、もしかすると「創発」という話にもつながってくるのかもしれません。 で。 きょうのスピーチを聞きながら思い出していたのは、やや唐突なのですが、バリ島の「水争いと祭り」の話でした。 つまり、水田稲作が生活を支えているバリ島では、しばしば水争いが起こります。 が、それが起こると、生産活動がうまく行かない。 そこで生産活動の単位とは異なるグループ分けをして、祭を共にするグループとして設定するんです。 つまり水争いの起こるAグループとBグループがあるとすれば、その両方のメンバーを含む形で祭を共にする別のグループを作ります。 すると、祭を楽しむには水争いをしているわけに行かない。 で、祭を楽しむために水争いに抑制が加わり、生産活動にも支障が出ないような仕組みが出来上がる。 つまり、巧みにシステムを汲み上げておくと、そこから新しい価値が立ち上がってくる。 創発という現象のひとつの側面は、そういうシステム作りにあるのかも知れません。 そんなことを考えさせられておりました。 


その少し前に、セロトニンが話題に上りました。 で、思い出したのは、エリック・サティの作品でした。 あれ、リラックスできて気持ちがよろしい。 で、そこから連想すると、たとえば日本酒やワインの醸造蔵で、モーツアルトの音楽を流すと、おいしいお酒ができる。 そんな話もあったりしますよね。 要するに気持ちが良ぅなったら、世の中、結構うまく行ったりするらしい。 実際、ランナーズハイだとか、ヘルパーズハイだとかいう言葉もありますし、お互いの思いやりを大切にしている会社ではものごとがスムーズに運ぶようです。 これって、みごとに「腑に落ちる」話だと思うのですが、単なる知識ではなくて「よう分かった」と「腑に落ちる話」こそが大事なのであって、いわゆるブラック企業と呼ばれるような会社は、このことが分かってないのではないでしょうか。 


で、そのブラック企業っていうのが、大きな社会問題になっていますが、「あれは会社じゃない」ですよね。 だって会社という日本語の基は「company」という英語でしょ? で、companyは「pain(パン)」を「com(共にする)」ことを意味するラテン語の「companis(パンを共に食べる)」から来ています。 ところがブラック企業をはじめ、「リストラ」と称して簡単に従業員の「首を切る」企業には、そういう理念がまるでない。 こういう問題と「企業におけるおもいやり」とは深く関連しているように思います。 


これって、極端なことをいうと「単細胞生物以下」なのかも知れません。 と言ったところで思い出しているのは、たとえばゾウリムシの「接合」です。 それは、何度も繰り返して分裂したことで元気をなくしたゾウリムシが、異なる個体とくっついて、互いの遺伝子を相手に分け与えることで元気を回復する営みなんですね。 


ただ、遺伝子についていうと、1980年前後に、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子(The Selfish Gene) 』という本を書いて、それまでの常識を覆したという歴史があります。 といいますのも、それ以前の生物学は、 「生物が子孫をこしらえるのは『種の保存』が目的だからだ」と考えてきた。 ところが、ドーキンスは、「そうじゃない。 遺伝子は、みずからを最大限の増殖させることしか考えていない」そういう仮説を立てて多様な現象を説明したわけです。 まあ、この本を読むと、なんとなく納得させられるのですが、どうも西洋的だなという印象もぬぐいきれません。 同時に、ちょっと変だな、とも思わされます。 だって、セックスをして自分の遺伝子を増殖させようと思うと、同時に、相手の遺伝子を尊重することで、自分の形質をメタモルフォーゼ(変身)させざるをえないからです。 自分の遺伝子だけでできあがっているクローンなら、メタモルフォーゼの必要はありません。 しかし高等動物がクローンで増殖することはありえません。 自分以外の他者との、いわば「遺伝的協同」を抜きにして、つぎの世代は作れないわけです。 とすれば、あらゆる遺伝子は「セルフィッシュ=利己的」なだけでなく、相手の遺伝子をも活かすことで、言い換えると自分のアイデンティティを、いわば「犠牲」にすることで初めてつぎの世代をこしらえることができるのだということです。 


これは、生命が原初的に持っている、「好奇心」というと具合が悪いのでしょうが、ある種に「好奇性向」の表出なのではないかと思います。 生命という存在はいつも「自らとは関係あらざるものと出会いたい」という指向性を秘めているのです。 例えばゾウリムシという微生物です。 彼らには6種類の性があるそうですが、普段は細胞分裂によって、つまりは自分と同じ遺伝子を持ったクローンの子孫を作ります。 しかし、それを何回も繰り返していると、たとえばコピーの間違いが起きたりして、生命力が衰えてくる。 すると、ほかの個体と「接合」、つまりは溶け合って遺伝子を補お合う。 結果、遺伝子の「complementation=相補性」が行なわれるわけです。 これを一般化すると、生命は自らとは異質な要素を取り込むことで生命力の再活性化を達成するということになります。 


ところで今日、大野さんは、生物における好奇心の出現は10万年ぐらい前だろうとおっしゃいました。 「好奇心」の出現は、そのとおりだと思います。 しかし「心」をはずして「好奇性向」として捉えると、それは生命の起源と共に誕生したと考えられないでしょうか。 たとえば昆虫のトビバッタなどを見ると、個体数が増え過ぎて環境が悪くなると、だーっと移動します。 これなんか、ある種の「生理的な好奇性向」が作用した結果だと考えられないか。 それがライオンぐらいになると、ある種の「好奇心」に動かされるといった局面が観察できるようになります。 以前、タンザニアのゴロンゴロで耳にしたのですが、ちゃんと食糧は満たされていても、ライオンのなかには何百キロも離れた、たとえばセレンゲッティに旅に出て戻ってくるのがいるんだそうです。 「なんか面白いことないかな」といった気分で、そういうことをするのだろうというんですね。 これは初歩的な意味での「好奇心」の仕業だという気がします。 


それが、ゴリラやチンパンジーといった類人猿ぐらいになると、遊び相手の子どもの反応を受け止めながら、相手に対する同調的な好奇心として現出するようです。 さらに人間の場合は、そこでの経験や気分などを、なにがしかの表現活動に昇華することで遊び楽しみたくなる。 さきほど大野さんがおっしゃった10万年前というのは、こうして人類が見つけた好奇心、いわば「表現的好奇心」だということになるのではないか。 これって現代人も大好きですね。 カルチャーセンターで俳句やお絵描きなどを習ったりするのは、表現的好奇心を遊び楽しむためだという気がするのですが、いかがでしょうか。 


ただ、こんな情報行動を繰り返していると、さまざまな過誤というか、間違いも生じます。 それを克服するのは「他者とのおしゃべり」によってなのでしょう。 ただし、それは2人の対話であるより、3人以上のおしゃべりであるほうが好ましいように思います。 だって2人の対話は、ときにディベートに堕してしまう。 実際「ディベート」って「相手の主張を叩き落とす」という意味ですから、非常にはしたない。 くわえて結論が「二つに一つ」に限定されますから面白くありません。 それに比べて3人以上のおしゃべりは、ああでもない、こうでもないと話しているうちに、比較的まっとうな結論に到達する可能性を秘めています。 それを日本人は「三人寄れば文殊の知恵」と呼んできたわけです。 


そこで思い出すのは「コミュニケーション」という現象です。 その語源になったのはイエス・キリストと12人の弟子たち「最後の晩餐」なんですね。 つまり翌日、磔になるイエスを囲んだ12人の弟子たちが、イエスの信仰を自分たちのなかに取り込むための集いが「最後の晩餐」だったわけです。 キリスト教は一神教ですから、こうした一方向的な情報の伝達を尊んだ。 それが「コミュニケーションの原義」であるわけです。 だから、これは日本語に訳せず、そのままコミュニケーションという外来語を使うほかない。 というのも、日本人の情報とのつきあいかたは、本来「双方向コミュニケーション(interactive communication)」だからです。 これには的確に対応する単語があります。 「やりとり」ですね。 で、二つのうちから一つを選ぶディベートと違って、三人以上で「やりとり」をしていると、それまでは分からなかった新しい真理に近づいていける。 この辺りに、村瀬さんの提唱される「統合創造学」のわかりやすい入り口があるのではないでしょうか。 



高橋 淑子 (京都大学大学院理学研究科教授)


 「統合創造学」が何かということは置いておいて、お二方のお話、大変楽しく拝聴いたしました。 高田さんのお話も、なるほどなと思いながら聞いておりました。 実は、私は生物学者で、中でも発生生物学を専門としています。 それ、何をやる学問かというと、一つの細胞から私たちのような体が出来る間に何が起こっているのかということを、来る日も来る日も考えているわけです。 そこから派生したのがiPS細胞やES細胞だったりするわけですが、余談ですが、iPS細胞の元になったES細胞を日本で初めて触ったのが私だったんです。 別に、自慢にも何にもなりませんが、京都大学の大学院で、先見の明のあった岡田節人先生から、「おい、淑子やれ!」って言われたんで、そのままES細胞の研究をやりました。 しかし、私の中では、ESやiPSを極めるというよりも、もっと、卵から体の形ができる時に何が起こっているかっていうことを知りたいとおもってこれまで生きてきました。 


そういう私が、きょうのお話を聞いて何を思ったかということなんですが、いくつかポイントがあります。 大学院の時の同級生に、すばらしい発見をした偉大な友だちがいたんですが、夜中にその彼と大学院生室で話すのに、彼が「ねえ、高橋さん、ぼくが発生をやるのはなぜかというと、発生は細胞の生態学だから」っていうんですね。 生態学っていうと、ライオンとかハイエナ、シマウマや昆虫が出てきたりして、そういうのが個体同士どないなっているかを調べるのが生態学の印象なんですが、それをもっとミクロに落とし込みますと、細胞と細胞はやっぱり社会をつくっていて、それは生態学といえるわけです。 細胞の社会については、岡田先生が強烈にインパクトのある本を書かれていて、私も影響を受けたんですが、そこでは「細胞は社会」が明瞭に記されています。 そしてこ細胞の社会は人間の社会と結構似ていて、おまけにそれは生態学的にとらえることができるのです。 で、その中の一つの具現化されたものとして、きょうお話に出てきたような、コミュニケーション、あるいは、カンバセーションがあげられます。 私は、細胞に「思いやり」があるとは思っておりませんが、細胞の振る舞いを人間社会の振る舞いに例えて比喩的なことで表現できることも、たくさんあります。 実は、それこそ、今の私の研究テーマでありますので、村瀬さんのお話を、私なりの言葉に落としこみながら聞くことができたという、非常にありがたい経験をさせていただきました。 


私が研究活動をとおして経験した面白い現象を紹介しますね。 細胞は、プラスチックシャーレの上で飼ってるかぎり、いまいち私には、面白くないんですが、実際の体の中のふるまいを見ていると、あれ、まあ、なに?!うわー、こんなことをするんかいなあ、っていうびっくりが次から次へと見えてきます。 その一つの例ですが、細胞の社会には、強い集団と弱い集団がいます。 この二つを、隣り合わせると、強いほうが勝って、弱い集団は消えていきます。 これは当たり前と思われるでしょう。 では、先ほど強い者にまけた弱い細胞集団を、さらに弱い集団と一緒にさせますと、今度は勝つんです。 つまり細胞同士の関係も相対的なものとして捉えられる場合があります。 こういう現象を、「細胞競合」といいます。 つまり、ある細胞がもつ「絶対的なパワー」だけでは、細胞の社会は語れないんですね。 お隣さんに誰がいるかで、その相対的な位置関係が変わってくる。 


とにかく細胞の社会は不思議なことだらけですが、しかし、現代の生命科学において、不思議だねえと首をかしげているだけではダメですね。 その不思議を解明しないといけません。 というか解明したいのです。 というわけで、きょうお話になったことを、私の「職業病的に」全部、“仕組み”に落とし込みながら聞きました。 人間社会の不思議を細胞社会のアナロジーとして解けないかなと、面白くお聞きしました。 


あともう一つ、高田さんのお話に、オスとメスの話が出ましたね。 どちらかの遺伝子だけではやっぱり弱いんだということですね。 そして、オスとメスが出てきたのはなぜかということですが、これは正確にいうと、進化の過程でオスとメスをもった生き物が、そうでない者よりも有利になったという風に考えます。 オスとメスからできる精子と卵子が合わさって受精卵となり、すべてはそこから始まるわけです。 そのときに、単にオスメス由来の遺伝子がくっつくのではなく、微妙に遺伝子の中身が代わりながら合体します。 ですから、双子の例を除けば。 同じ親から生まれた兄弟でも、みんな違っているわけです。 


つまり、オスとメスが出てきたというのは、ただ単に強いものが出てきたという以上に、多様性をつくるための原動力になっています。 多様性が出ると何でいいかというと、たとえば、ある時には強かった生物集団がいたとしましょう。 あるとき隕石がボーンとやってきて、地球が急に寒くなってしまった。 その時、ものすごく強かったチィラノザウルスもポテっと死んだわけですね。 6550万年前の恐竜の大絶滅です。 つまり隕石が来る前までは地球の覇者だった恐竜も、そのあとの寒冷に耐えられなかったわけです。 一方で、恐竜におびえながら暮らしていたウルトラ弱小の哺乳動物がいました。 ティラノザウルスが来たらひえ~っと逃げていたネズミみたいな奴です。 隕石がきたあとは、この弱小哺乳動物が一気に挽回したわけです。 そしてそのちっぽけな哺乳類の子孫が、今や地球を席巻しています。 恐竜よりも寒さに強かった哺乳類が進化を生き抜いたのです。 つまり生き物の多様性があるからこそ、これまで46億年の間におこったさまざまな地球変動にも耐えてこられた。 もしこれが1種類の生物だけだったら、とうの昔に地球から生き物は消えていたことでしょう。 ということは、今現在は哺乳類の天下みたいに思ってるかもしれないけど、我々も恐竜の同じ目に合うことは十分考えられます。 とりわけ人間はあまりにも多様性を失ってしまった。 その証拠に人間はホモ・サピエンスという1種類の種でのみ構成されているのです。 天変地異が起こったら、ホモ・サピエンスは瞬時にアウトですね。 


まあしかし、ホモ・サピエンスが1種類であることを嘆いてもしょうがないので、私たちは、できるかぎりの多様性を尊重したい。 ですから、これが絶対いいとか、これが絶対悪いんだと一義的な価値観をもつことは愚かなことです。 固定観念は結局は自分たちを破滅の道に追い込んでいくようなものでしょう。 といっても、日常の社会では、ついつい固定観念の中でいきてますよね。 むずかしいですね。 
 最後に、私、村瀬さんに挑戦をかけたいと思いますが、きょうの、えっと、何でしたっけ、名前が長くて覚えられへんのですけど、「未来創成学国際研究センター…」の話です。 たしかに「わからないものをわかろう」とすること自体は、たしかに本質的ですよね。 一方で、こういうことを考えるとき、もう少し「科学」という概念を入れた方がよいと思うのです。 科学の概念を入れないと、何となくぼやけてきて、結局価値観の遊びだけで終わってしまい、趣味の世界から脱却できないような気がします。 そこで村瀬さんにお聞きしたいのは、この流れにおいて「科学する」ことをどう定義されてるのかな、ということです。 村瀬さんの未来創成論を語るとき、そこにどのように科学を位置づけるかが鍵を握ると思うのです。 いかがでしょうか?



村瀬


科学の定義ですけど、マイケル・ポランニーは、ズバリ、認識の一形態、一変種と呼んでいます。 ですから、人間の数だけ科学はあり得る。 実は、ヴィコツキーが何を言っているかというと、「芸術は認識の一形態」と。 ですから、人によって認識のあり方が全然違うので、それは科学、芸術、いろんな形態になります。 ですから、科学そのものが、認識そのものと考えていいと思います。 定義としては。 で、今(西洋)の科学は、ある二項対立をベースとして成り立っている。 でも、それが、物質の世界を記述するにはある程度成功してきているのですが、果たして、生命を記述するのに、今の二項対立をベースにした科学で十分かというと、それは、今までのケースで見る限りはかなり懐疑的にならざるを得なくて、それで、生命を理解するための新しいサイエンスというのも必要でしょうってことです。 ユングが言っているのですが、曖昧な心理現象を理解するには、モデルとして曖昧な心理現象を使いなさい、と。 これはまさに、方法論と対象とそれを理解するもの全体が、実は同系だから仕方ないですね。 これを分けようとするのが西洋の科学で、それを否定するというか、それとは違う立場を取るのが新しいサイエンスです。 


ユングの言ったことがどういうことかっていうと、先ほど高橋さんも言われたように、細胞で起こっていること、その細胞より強いものがあったら、それは負けるけど、その細胞より弱いものがあったら、勝ってしまう。 これは、まさに、周りとの関係性で一つの方向が見えるということで、コミュニティーの、何か、状態によって、創発する道徳観が違うっていうのと相似ですよね。 そういう、まったく違うスケールでも、一つの現象から、他方の現象をまるごと予見できてしまう。 「帰納」と「演繹」とかいうと、多様性とか、あるいは特殊性を捨象しないと論理的には先に進まない。 だけど、ここでやりたいのはアブダクションであって、類推なので、一つの世界まるごとと、こっちの世界まるごとが、もし相似だったら、詳細はさておいても、ロジックとしては全体を見通しせるのではないでしょうか。 例えば、じゃあ、どういう見通しができるかというと、さっきの「勢」の概念を使って、がんの治療の方法ができないでしょうか。 そのがんは、正常細胞よりは強いかもしれないけど、別の細胞を持ってきたら弱いかもしれない。 そういう関係性を導入すると、何か、強力な放射線治療とは違った、コミュニティー全体の創発を利用した治療方法が提案できないか―そういう方向が見えてくるとは思います。 


あと、大野さんのお話と関連させるならば、教育、あれを教える、これを教えるじゃあなくて、「勢」の概念に則れば、これだけ揃えたら、あとは、教えなくても学び始めると。 ですから、チャレンジするテーマは、いっぱいあると思うのですね。 実験であって、理論の検証であって、それが、新たな理論の構築のきっかけになるかもしれない。 間違ってもいいです。 先ほど、高田さんがいわれたように、細胞が、複製のたびに間違う。 だから、人間も、大野さんがいわれたように間違う。 その間違うことこそ、新しい展開のきっかけと考えれば、全然怖いことはない。 で、間違いを許容するシステムの本質的なデザインって何かというのを学んでいきたいと思っているのです。 



高田


なるほど……。 ところで、科学のイメージの一つに「誰がやっても再現可能だ」というのがあります。 でも、生命に関連する現象に関しては、それが必ずしもうまくは行かない場合もある。 そういう問題をはらみながらも近代科学には3つぐらいの普遍的な特徴があるような気がします。 その第一は物質を対象にして認識を広げていく物質主義です。 ついでその際、分析という方法を駆使して、最後は分割不可能な原子、つまりはアトムにまで到達する。 まあ最近は、それが素粒子レベルにまで至ることになるわけですが……。 そして第三は、原因と結果の関係を捉え直す因果関係論としてまとめあげる。 私自身はこんなふうなイメージを持っているのですが、高橋さん、いかがでしょうか。 



高橋


私は大学で教える授業で試験をする時、普通の問題は嫌なので、いろいろ工夫して問題を出しています。 先日、「『研究する』と『科学する』の違いは何か」というテーマで、学生に自分たちの考えを書かせたんですけれども、面白かったですよ。 まあ、グチャグチャですよ。 でも、そのグチャグチャのところが面白い。 というのも一義的な解はない設問ですからね。 


もちろん私は私なりの科学の定義をもっていますが、文系の方がサイエンスを語るときの科学の定義をきいてみたいなあ、と思います。 こういう議論って、普段なかなかないですよね。 それでお酒の場できいたときには、今度はあまりにも砕けすぎて、「冷たい感じ」とか「難しい感じ」ぐらいにしかいわれない。 もうちょっと突っ込んだ話がしたいんだけどなあ、ってことで、きょう、村瀬さんにぶつけてみたわけです。 


私が思う科学のあり方とは、「体系付けられるもの」あるいは「体型づけること」です。 今日の話でも、ちょっと油断すると、あれもこれも全部入れ込んでしまいましょうというふうになると、あまり科学にはならないでしょう。 新しいものを取り込むのは良いのですが、そこで考え方の体型付けをしないと、単にカオス状態でおしまい、になってしまう。 村瀬さんのお話は、途中内容がたくさんありすぎて、ついていけなくなってしまったという問題もありました。 科学と体型付けは、これからあとのワールドカフェの議論になるかもしれませんね。 



高田


高橋さんのおっしゃった「多様性」に関しても、後で議論すると面白そうですね。 つまり何故、莫大な種類の生物が誕生したのか。 古生物学の世界においても非常に興味深い話題だと思います。 そこで大野さん、今までの話を含めて、いかが、お考えですか。 



大野 照文 (京都大学総合博物館館長・教授)


あんまりたくさんの事例を知らんのですけど、例えば、ぼくが自分でやってヒントになると思った事例が2つほどある。 


今から35年位前に、藻類と共生している二枚貝の新たな事例が見つかった。 その生態が不明だったので、調べにいったんですよ。 共生している藻類は光を必要とするのだから、当然、貝も光に当たるように海底面に露出していると思っていた。 ところが、実際には砂の中にいる。 貝を持ち帰ってその中の藻類の光合成能力を調べてみると、入水管、出水管から入る光だけで十分光合成できる能力がある。 


でも、せっかくの藻類との共生関係を最適化しようと思ったら、やっぱり砂の中から外へ出てきたほうが得だとおもう。 もし、世界が共生している貝だけの世界とするなら、これは、進化の時間をかければ、光があたった時に最適化します。 だから、砂の中から外に出ていきます。 こういう世界では、砂の上だけに共生関係をもった二枚貝がいることになります。 しかし、実際にはそうはなっていない。 現実の世界には、砂の上に出てくると、「うまいぞ」ととって食う奴がおる。 ここで、二枚貝が取るべき生態に様々な選択肢が生まれる。 砂の中に潜ったまんまでいる連中や、軟体部分だけ海底面の上に出していて、影が来たらすっと引引っ込める連中。 それから、腹を決めて砂の上に完璧に露出している連中もいる。 つまり社会が複雑になればなるほど、こういった生き方が増えてきて、多様になっていく。 それが繰り返して、ますます多様化する。 



高橋


また、細胞の話ですけど。 私たちの体の細胞は、60兆個とか130兆個とかいわれています。 今もし仮に巨大なタンクがあって、その中に130兆個の細胞が培養できていたとしましょう。 それを集めて、ギュッギュッとやって固めたら、それだけで人間ができるかといったら、絶対できないんですよ。 つまり、細胞だけを集めても、ファンクショナルな組織はできないです。 うまく働く組織をつくるには、単に細胞が存在するだけではダメで、そこにプラスアルファが必要になります。 同じように、単に胃の粘膜や神経を集めればしれだけで臓器ができるかといえば、そういうわけにもいきません。 


こういうのを、体の中の階層性といいます。 つまり、からだの中ではたらく臓器は、単に細胞の足し算だけでなく、掛け算なんですね。 上に行けばいくほど、掛け算が出てきて、こういうのをシステム化といいます。 今日のお話は、これに関係あるなと思います。 人間に譬えると、5人が集まって何かの仕事をしようとするとき、単にその人たちの能力の足し算ではなく掛け算になるというのはよくよくいわれる。 これと同じことが体の中でも起こっています。 こういう目で見ると、コンピューターもそうですね。 中にマイクロチップがいっぱい入っていて、あれも足し算でなく、掛け算。 まあ、コンピューターの場合は、しょせん人間がつくったものですから、ある程度のことはわかるけども、生きもののかけ算のしくみはまだまだなぞのままです。 細胞から組織、そして組織から臓器へと、階層が上がれば上がるほど、あらたな機能が付加されます。 こういうのって、シャーレの中の細胞だけ見ていてもよくわからないんですね。 こういうことと村瀬さんの話のなかに共通点があるのかなあとおもってきいてました。 村瀬さんが使われていたシステムという言葉は、いろんなところでよく似た使われ方をするんだな、と思いました。 


大野さんのお話では、京大生のスケッチの話を思い出して、まったくその通りだと思ってうれしく思いました。 学部生の実習で、「ニワトリの胚を観察する」というのがあるのですが、学生たちは顕微鏡をのぞいて一生懸命にトリ胚をみます。 さてレポートというときに、今の時代らしく、デジタルカメラで顕微鏡写真を撮って、それを印刷してレポートにしたいというレイジーなのもおるわけです。 しかし私達教員は、あえて、昔風に「自分の手でスケッチをしなさい」と指示します。 写真の方が自分で画くスケッチより遙かに情報量が多いにきまってるのに、なぜスケッチをしなさいというかというと、スケッチをやらせると、学生達は一生懸命に胚を見ます。 写真をとるだけでは見えないものが、スケッチをやるうちに見えてきます。 つまり、脳みそがフル回転します。 大野さんのお話に、まさにスケッチの威力が出てきて、とてもいいなと思いました。 



大野


多細胞動物がなぜできてきたかという、とこれはなかなか難しい。 なぜってのは難しい。 



高田


お話を聞いていて連想したのは日本酒の話でした。 その成分を分析すると、なんでも数千種類の成分が特定できるんだそうです。 それで、それと同じ物質を、同じ比率で混ぜるのですが、結果は、もとの酒とは似ても似つかん味の液体になってしまうようです。 だから、どうしてもイースト菌に頼って、醸造というプロセスを踏まないと、おいしい日本酒はつくれないんです。 似たような話だという気がするのですが……。 



大野


時間みたいなものが、やっぱり必要で、それをどう考えていくか。 それから、「三人寄れば文殊の知恵」っていうのはなかなかいいなあ、と思いますけど、色々面白いことがあります。 管理職同士でやらせると、これまったくダメですね。 責任を持って発言せなあかんので、何の知恵も出てこない。 ところがね、みんなでああでもないこうでもないとやってるとね、無意識っていうか、結局、自分たちの体験があちこちに保存されていて、「そういえば」というのが出てくる。 これが一番面白い。 それで、「ほんならこうや」、と。 別に、最終的な合意に達する必要はない。 



村瀬


それが、多分、ポランニーのいう暗黙知のレベルを人レベルで実践できている好例ですね。 



高田


酒造りにも暗黙知が作用しているということでもあるのでしょう。 



高橋


へえーっ!?



大野


一言だけ言いたいのは、学校教育です。 集団教育というのは、文殊の知恵がいっぱい。 でも、多くの学校では、一人の教師が放射状に生徒とつながっているだけということが多い。 生徒同士の対話を促して初めて、集団教育の利点、つまり三人よれば文殊の知恵という利点を引き出すことができるのに。 



高田


それに比べると、現代の学校教育の現場は、ただ「イエスの言葉を聞かされている」のと同じだといった状況に支配されているのではないですか。 



大野


その通り。 50人の生徒がいる教室で、先生が一人ひとりに話しかければ、これ、1人1分しか相手できない。 50分の内1分ですよ。 そうではなくて、グループでもっていろいろと議論をさせてあげるとかの工夫をすべきですね。 何のための集団教育か。 その辺に日本の問題がある。 



高田


それから連想しますと、ぼくは絵がめちゃめちゃ下手くそなんです。 ぼくの時代に受けた学校教育では、文字と言葉で分かればいい、別に絵は下手でもかまわない。 そんな偏見が支配していたような気がします。 結果、絵が上手に描けなくなった。 



大野


いいや、それはね…。 ぼく、スケッチだけでなく、もう一つやらせているんです。 絵を描かせて、次は、みんな目をつぶらせて、野球中継のように、スケッチしたものを説明させます。 大学生はできます。 つまり、本当に見ることができれば、それを言葉で表現することができるはずです。 だから、重要なのは、絵をうまく描くことではありません。 上手い下手はあります。 「見落とし」や「思い込み」を排除して対象を見た結果を絵として紙に記録するわけです。 ぼくも、漢字とか書いたら下手やけど、一応、読んでもらえる。 余談ですけど、きのう、ラジオ聞きながら車運転してたらね、ラジオでね、リスナーから送られてきた写真を紹介するのに、「服がきれい」とかゆうてるわけ。 ラジオならね、まずは、言葉で写真に写っているものを描写して、服がどんな色や形をしているかを述べて、その上で感想を述べよって思うわけ。 






高田


では、会場からご意見を伺います。 



木村 美恵子 (タケダライフサイエンス研究所所長)


私には、8歳と6歳の孫がおりまして、その子たちは、保育園ではほんとに自由に学んでおりました。 しかし今、私が一番間違っているというのは、先ほど先生方がおっしゃった一方的に教える、ということです。 子どもの知能はすごく発達していっているのに、1年、1年抑えられていっているということを、まざまざと見せつけられています。 


高橋先生が先ほどおっしゃったようにわからないことだらけです。 私は理系の人間ですから、まったく発想を変えて、常識の反対で着想するということがうまく成果を得られることになるという経験を持っています。 長い学校教育の間で、常識で教えられていることが逆に、人間の発想を曲げてしまうのではないかと心配しています。 



村瀬


今、おっしゃられたことは、まさに、世の中そのものが、科学が抱えている問題と相似なのです。 ですから、用語を全部世の中の用語に置き換えれば、ぼくたちが話していることは、今、まさに伺われたいことそのものと相同なのですね。 で、先ほどの高橋さんのお話とも絡むのですが、科学をどうとらえるかっていうことはすごく大事で、世の中をどう生きるかっていうことを考えるのと同じなのです。 


科学には決定的な限界があって、それは何かというと、「前提を認めれば結論が導ける」これ、湯川秀樹さんが言っているんですが、その通りで、数学はみなそうです。 前提ありきでスタートする。 でも、前提が正しいかどうかは誰も証明できないのです。 で、前提を問うという科学が今、問われている。 今のご質問、教育制度の問題も、それが問題だということすら考えられない立場の方もおられる中で、そういう発言が出るということが大事なのですね。 


全てを抽象化すると同じこと言ってるのだけれど、単にキーワードが違うだけなので、そういう目で見ていただくと決して、課題から外れていることではなくて、課題を突き詰めていく時には、どうしても抽象的にはなるのです。 本質は、いかにして前提を問うか。 もう一つは、問題がないと思っているところにいっぱい問題が発見されてくるということ。 病気っていうのは、まさに問題がないと思っているところに現れる。 で、身体、あるいは精神で起こる病の発症は、相似で考えると、今度は、コミュニティーのレベルで病の発症という形で現れたり、それを補うのに、先ほど大野さんがいわれた管理職同士プラス全然違う立場の人が入ることによって、ものすごくスムーズになる。 これ、こないだ、ロシアとウクライナの調停の間にドイツとフランスが入ることによって、ものすごく意見がまとまってしまう。 これは、第三者を入れるという高田さんの意見ともつながるのですね。 ということは、教育の問題とか、現代の社会が抱えている問題を解決していくには、当事者同士だけではなくて、さらに、今おっしゃったように、意見をもっとオープンに市民にも開いていくことこそが本質じゃないかと思います。 



三木 俊和 (大阪経済大学大学院)


ポランニーの「暗黙知」の話が出ましたが、暗黙知と「形式知」っていう言葉があって、今現在においては、ほとんど形式知で問われている。 そうしたことを押さえておいて話したほうが、わかりやすいと思うんです。 私、今回の統合創造学にすごく興味を持ちました。 今までが、とにかく前例にならうとか、今までの経験というようなことで流れてきてますので、今後うまく発展させていただけたらと思うんですが、村瀬先生いかがでしょう。 



村瀬


形式知は、別の言葉で言えば論理とかそういうものですよね。 ですから、それは、論理は論理だけでどんどん展開されてしまうので、さっきスライドでお話ししたように数式を証明しろといったら、単に展開するだけで証明したつもりになってしまう。 これはトートロジーといって、同じことの繰り返しに過ぎなくて、ほんとに理解するっていうのは、大野さんのお話で出た管理職だけの会議と同じで、これ形式知を重んじていて、第三者が入ると、それが暗黙知みたいになるということだったのですね。 その仕組が、細胞を元気にするというのにも生きているのじゃないかな。 高田さんの、おいしいお酒も、形式知だけでは、何か足りない。 一番今まで漏れている所のとっかかりを掴みたい、というのが統合創造学の狙いなのです。 



高田


今日の議論は「間違いが人間の知識をひろげていく」という、大野さんのある種逆説的な話から始まり、そうしたプロセスを経て集められた知識をどう統合するかという村瀬さんの話に引き継がれていったわけですが、「動物の体というのは細胞の社会なんや」という高橋さんの提言は、そのあたりをつなぐ面白い話題提供だったと思います。 実際、人間の体には、何百種類かの細胞があって、それが仲良うやってくれている。 が、それが時に喧嘩しはると、体調が悪うなったりするわけですね。 


このアナロジーを人類社会に適用してみると、まるで話は逆になるのかもしれません。 というのも、地球上で初めてアフリカの原野に出てきた人類が、やがて世界中に広がっていって、それぞれの場所で、異なった文化を生み出しました。 いわば「ぼくらは肝臓になる」、あるいは「私たちは筋肉になる」……という具合に多様な相貌を露わにしていった。 それが、ようやく相互に関係を持ちうる一つの世界に統合される契機をはらむようになったのが19世紀です。 それをアメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステインは「世界経済システム」として捉えました。 ここに来て初めて人類社会は、人間の身体のように一つの有機的統合に至る契機をはらむようになったと考えていいでしょう。 


ところが、以後の近代化の過程が何をしたかというと、世界中の多様な社会は、経済発展をしてリベラルで民主的な、その限りでは同質の社会をめざせ――それこそが最も理想的な社会なのだという指向性を、軍事的な暴力をもって世界的に敷衍しようとしたのだと言えようかと思います。 
こうして欧米が主導した近代という時代の流れに対して、今日、世界各地で、それに対する抵抗が試みられるようになっているのではないでしょうか。 たとえば「イスラム国(IS)」などというのは、そうした流れが生み出した鬼子のような存在ですが、それ以外にも、たとえばイスラム圏には欧米の普遍主義に対する批判的な動向がいろんな形で現出しています。 さらにイングランドに対するスコットランド、フランスに対するバスクなどにも、似たような指向性をはらんでいる。 中国だって、そうかもしれません。 


そこで現代の日本です。 それは欧米の尻馬に乗って、近代化の普遍性をめざそうとしているように見えるのですが、果たしてそれだけでいいのかどうか。 ぼくなんかは、それに対するある種の違和感がありますね。 というのも、世界中が同じ細胞の集団になるより、肝臓をめざす細胞の集団があったり、筋肉をめざす細胞の集団があったりするほうが、全体としての人類社会は安定するのではないかと思えるからです。 そういう意味で、今こそぼくら日本人は何かを提案するべきなんじゃないのかなあ――高橋さんのお話から刺戟を受けて、そんなことを考えてみた次第です。 
いずれにしろ現代社会には、非常にさまざまな問題が存在している。 それは世界的にも国内てきにも言えることです。 そうした課題の解決のために何ができるのか。 科学はどんな役割が果たせるのか――それをワールドカフェで議論してもらえたら……と思います。 





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