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第1回クオリアAGORA_2014/ワールドカフェ



 


 

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ワールドカフェ

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ワールドカフェ


ワールドカフェでは、アメリカ型ではなく日本型の起業や新しい産業の創出に向けて何をするか、そのための制度改革や産学連携というフラッグをより具体的に進めるにはどうしたらよいかなどについて、学生から企業人、研究者と年齢も職業も多様な参加者全員で話し合いました。 


≪ワールドカフェとは?≫


[ 各テーブルのまとめ ]



●第1テーブル 報告者  

長沼 祥太郎(京都大学大学院思修館学生)



各自が、思ったことを付け加えるというような議論の仕方で展開しました。 最初は、大学の大衆化している原状において大学生の質が落ちているということに関して教育問題から議論しました。 どういうところに問題があるのかということで、教育問題を話し合ったわけですが、日本では、「入るのが難しく出るのが簡単」というシステム自体に大きな問題があるっていうのが大方の結論でした。 ついで、きょうのテーマでもある、「ソムリエ」にからめて、大学という研究機関と日本の中小企業、そして大企業の関係っていうのを見ました。 それで、ソムリエとイノベーターはどういうもので、その違いは何かということについて意見がでました。 その結果、ソムリエは、自分自身イノベーションを起こすわけではなく、目利きという気づく立場。 一方、イノベーターとは、自分自身で革命を起こせるところに違いがあるということを話し合い、企業への関わり方も違うだろうというようなことを話しました。 


それで、最近のイノベーションということでは、ラインというものがSNFで登場していることについて、いろいろ話しました。 それは、社会の価値観を変えたという点では、イノベーションと言えるが、ただし、誇るべきイノベーションかどうかは検討の余地があるという意見がでました。 若者はずっとそれをいじっているが、だから何になるのか、社会にどんなインパクトを与えたのか、意義を見いだせないのなら、イノベーションであっても、誇るべきであるとか、いいとか悪いとか、いうところまでは至らないという意見がありました。 





●第2テーブル 報告者  粟野 亮二 (グローバル・マーケティング・アソシエーション 代表)


最初に話したのは、最近の動向というか、自動車の例が上がったんですけど、最近はトヨタとか日産とかっていう自動車メーカーではなく、アップルとかグーグルとかっていうところが車を作り始めているという話がでました。 また、ソニーで「スパ研」という、事業部があって、超心理学的な新しい分野を研究しているとか、堀場製作所の「おもしろおかしく」の社是なども例に、いろいろ話が出たんですが、根底にあるのはデザインマインドであり、最終的には「自由さ」っていうのが影響しているのではないかというふうに考えました。 そういう中で「創発」と「回遊」について話し合い、この背景にあるのが自由ということがあるんじゃないかなど議論しました。 


SBIRについてもま話しましたが、日本がこの制度を回していけるかということで、アメリカ、台湾との比較で考えました。 日本の現状の補助金制度は、最初から非常に堅いというか、リスクを取りたがらないという風潮があるんだと思うんですが、非常に自由度がない。 例えば、申請の段階から交通費がどのぐらいかかるのか、非常に細かくやらなければいけない。 ですから、後から変更がきかないので、それが制約になってしまうのではないか。 先ほど、アメリカは1000のうち三つ成功すればいいという「千三(せんみつ)」という話がありましたが、日本の場合は。 1000のうち800ぐらいの成功を欲しがる。 山口先生の話では、アメリカってのは、失敗を許容する文化があるのか、プログラムディレクターは責任をとらなくていいとか、最終報告は要らないとか、ということでしたが、とにかくアメリカでは自由な発想でできる。 


それで、日本の場合は、その自由さをいかに制度の中にもたせられるかということがキーワードになるのですが、環境、文化そのものを変えるのは不可能なので、どうオリジナルなものにしていけるかについて、議論は尽くせず、その先は…なんですが、額として1億円、ポンと出すと自由さってのは非常に大きくなるので、額でクリアしていけるかもしれない。 後は、報告義務を変えていくというのも考えられると思います。 







●第3テーブル 報告者  

佐伯 直樹(京都大学大学院思修館学生)



実は、さっきの自由の発想でお金をポンと出すという制度は、京都大学にありまして「白眉プロジェクト」という、お金を出して、報告義務も殆どなく、好きなことやっていいよという制度があります。 それをまず申し上げておきます。 


それで、日本とアメリカの違いというのは意識しないといけないので、SBIRを日本に入れてくるのは難しいだろうと。 日本の場合、何が、入れるのの足かせになるかというと、大学とかの人事制度がアメリカとは大きく異なるわけです。 人事制度は、日本の大学ではその中心は、教員と職員であって、そこにはプログラムディレクターという編集者のようなものは存在しないことが問題だろうと思われます。 さらに、教育制度も問題で、失敗できない、周りからの目であるとか、生真面目さというのが、アメリカ的な制度を受け入れられない原因ではあるではないか。 でも、それだから、教育を、「日本人よ、失敗を恐れるな」という教育の方向に変えていくのがいいのか。 慎重とか真面目さというのは、日本人のいいところでもあるわけで、それを伸ばしていったほうがいいのか、この、どっちかという点については議論は進みませんでした。 


それで、多様性を認めない社会が云々という話をたくさんしました。 私は、本田さんのお話で感銘を受けたのですけども、明治以前であれば、多様性を認めていたんだけれども、明治になってからは、日本は一元的価値に基づいて左右されるようになってきたというお話なんですが、この多様性を認めていくことが、日本でSBIRのような制度を成功させていくことになるのではないか。 とにかく、本田さんは、公務員を熱く語られ、とても日本の将来に明るいものを感じました。 





●第4テーブル 報告者  川田 哲也 (京都大学大学院思修館学生)


主に、イノベーションを成し遂げる「創発」をどうして実現すればいいのかに焦点が絞られました。 創発というものは、どうすればいいのかということで、いろんな人が意見をいうのはいいが、専門知識を持っていないと話にならない。 ということなので、専門を深く研究をする必要がある、ただし、その場合、基礎に潜る必要はあるんですけど、オタクであってはならない。 つまり、自分の研究は必要であるけれども、他のことにも興味を持てるような場所が必要で、それがあって初めて創発が起こる。 


では、大学は、どういう場所なのか。 大学は産官学が結びついた「鉄の三角形」という話も出ましたが、密接に結びついてはいますが、大学の先生はニュートラルな立場で、相談、協力がし易いのではないか。 また、大学の先生は顔が広いので、ベンチャーのような企業にもつながりうる可能性があるのではないか。 


そんな大学を、いかに共鳴の場にしていくかということですが、今、京大で1回生がやっている「ポケットゼミ」というようなものを、これはまだまだ専門性が低いですが、こういういわば練習の場を使って、他分野の人とディスカッションすることに慣れることが大事ではないか。 こういう共鳴する場を体験することで、社会に出てから「共鳴の場」作りをできるのではないか。 そうして、こういう共鳴の場を体験した人たちが、上の立場になった時、PhDとかプログラムディレクターとして、「創発」「回遊」ということを利用したイノベーションが可能となるのではないか。 というようなことを話し合いました。 


高田 公理(佛教大学社会学部教授)



きょうは、若い人が多いようですから、ちょっと基本的な話をしてみます。 
まず、英語では「学校」を「School(スクール)」と言います。 その語源は「スコーレ」――古代ギリシャ語で「ヒマ(暇)」という意味です。 で、今少し厳密にいうと「生産労働から解放された余暇」――だから、スクールは「暇つぶしをする場所」にほかならないのです。 


ただ、現代の、大学をはじめとする学校は、将来における仕事や生産に役立つ知識や技術を身に着ける場所だと考えられがちです。 でも、言葉の本来の意味でのスクールは、生産労働から解放されたスコーレ(暇な時間)に、楽しく遊びながら知恵やアイデアを生み出す場所という意味だったんですね。 このことを昔、20世紀の日本を代表する知性のひとりと言っていい梅棹忠夫さんは、こんな言葉に託しておられました。 


「なあ高田、人生はすべからく遊びや。 これって現代では、やや危険思想やけどな」


で、梅棹さんは生涯を通して「学問を遊ぶ」という生活を続けられたんです。 


そこで現代のぼくらの生活を翻ってみると、とりあえず食べるには困っていない。 で、仕事から解放された、こうした自由な時間に、こんな場所に皆で集まって、「ああでもない、こうでもない」と、見方によっては益体もない話を交わしているわけです。 そういう遊びのなかから、新しい知恵やアイデア、新しい文化が生まれるのでしょう。 


そういうことをヨハン・ホイジンガという歴史家は「遊ぶヒト」を意味する『ホモ・ルーデンス』という表題の著作において「文化は遊びのなかで始まった」と言い放ちました。 実際、古代ギリシャのポリスで学問や芸術などが生まれたのも、ポリスの外で暮らしていた農民と違って、生産労働から解放された市民が存在しえたからこそ、なんですね。 


その遊びを20世紀の半ば、フランスの社会学者ロジェ・カイヨワは四つに類型化しました。 それが「アゴーン」「アレア」「ミミクリー」「イリンクス」です。 


ここで「アゴーン」は「競争」です。 その代表はスポーツです。 それに対して賭博は「運」を競う遊びです。 これが「アレア」です。 ついで「ミミクリー」は「ものまね」です。 演劇や映画、カラオケでの歌手のものまねなどは、ここに含まれます。 そして最後の「イリンクス」は「眩暈(めまい)」です。 このカテゴリーは非常に独創的だと思います。 


一体どういうことかというと、ようやく立って歩けるようになった赤ちゃんが最初にする遊びが、これなんですね。 つまり赤ちゃんは、二本足で立てるようになると、ぐるぐるっと体を回して、ばたっと倒れる遊びをします。 気持ちがいいんでしょう。 で、若い女性たちは絶叫マシンで、おっさんたちは酒を飲んで「めまいの遊びを楽しむ」わけです。 


ところで面白いのは、こうした類型が人類文明の歴史に対応することです。 というのも原始社会は踊り狂ってイリンクスに至る遊びを楽しんだ。 農業社会では、誰かが成功するとそれをものまねすることが多い。 これって、ミミクリーの文明だと言えます。 が、工業社会では技術革新競争が社会変化を先導します。 アゴーンの文明ですね。 そういう意味でいうと、情報文明社会にあってはアレア、つまりは運の善し悪しが大きく作用するような気がしないでもない。 こんな風な人類文明史も可能なのではないでしょうか。 


今日の話のSBIRなんかも、一方でアゴン(競争)を奨励しながら、かなりの程度、アレア(運)の要素にも依存しているような気がするのですが、いかがでしょうか。 いずれにしろ、「すべては遊びや」という思考実験をしてみると、いろんな問題が氷解するかもしれません。 今夜は山口さんに、実に面白いことを教えてもらったので、最後にちょっと、お喋りになってしまいました。 ごめんなさい。 







長谷川 和子(京都クオリア研究所)



いかにも、高田さんらしいメッセージで良かったです。 多分、京都はこういう話が出来る場だったんだなという気がします。 大阪大学名誉教授の谷本さんが、「ボローニャ・プロセス」っていうことでお話なさりたいということなのでお願いいたします。 



谷本 親伯(大阪大学名誉教授)


きょうは、若い学生さんも来ておられますが、「ボローニャ・プロセス」って聞いたことありますか。 ないでしょう。 これ、日本の教育のものすごく遅れているところです。 私、きょうのソムリエを養成するのに、どうしたらいいかというお話で、ぜひ、情報としてこのボローニャ・プロセスのお話をしたいと思ってきたわけです。 



1998年に、ヨーロッパの大学学長会議のようなものが、ボローニャ大学で開かれたんですね。 そこで、大学教育をもう一度見直そう、いわゆる、バチェラーとか、マスター、ドクターっていってる、各国でバラバラだったスタンダードを、EUの中で統一しようという話が出たんです。 EUという大きな経済的な舞台ができてから、著名な、ジーメンスとかルノーとかの企業経営者は、それぞれの国の学生だけを雇う時代ではない、といい、大学関係者も、EU全体として大学の質を揃えなきゃなんないという意識になっていたんですね。 それで、99年から、EUとしては、10年かけて、それぞれの国家予算の5%を回しましょうということで、教育費を積み上げてきています。 これに対して、毎年1回、各国の教育省の相当者がきて、教育に関するディスカッションして大学の質を保証することをやってきています。 


このヨーロッパでやったことの根幹は、単位互換なんですよ。 例えば、パリ第何大学とかに入ったとして、1年目はパリで送り、2年目はスイス、3年目はドイツ、卒論はスエーデンで書きました、と。 これ、全部認定されるんですよ。 単位の積み上げがあって、バチェラーは180単位。 日本の単位の内容と全然変わりません。 2時間で15週やってこれだけ積み上げたらばそれだけの履単位を与えますということなんですが、これ、中身見ていきますと、日本っていうのはすぐ移行できるぐらいの規模、中身一緒なんです。 とにかく、46カ国で申し渡しているわけです。 ですから、ヨーロッパの大学で留学生って意識はなくなってくるんです。 すると多様性も勉強でき、ソムリエ的な経験もできますでしょう。 で、一つは大学のクオリティーを保証し、なおかつ、さらに予算をかけて、英才教育をやっているんですよ。 日本にも話が来て、私が関わったのは、エアバスのコックピットの設計を、文系の学生と理系の学生におんなじテーマを与え知恵を出させてそれを実際の設計に役立てようとかというのがありました。 そういう特殊プロジェクトをいっぱい出して、それぞれの国の優秀な学生をみんなんで育てましょうということをやっているんですよ。 


お願いしたいのは、一つの大学の先生が自分のところの学生だけを教育するのではなく、複数の大学の学生を教育する。 学生自身も、複数の大学に自由に行き来し、それがなおかつ、ちゃんと教育として認定されるような制度を文科省に作ってほしいと思うんです。 



高田


複数の大学を行き来する――これは実際にやると面白いですよ。 じつはマンション建設のプロジェクトに学生たちを介入させたことがあるのですが、そのとき、京大の建築の髙松伸さんの研究室の学生たちと、私が勤めていた武庫川女子大学の学生を引き合わせたんです。 すると、京大の学生たちは、じつにしっかりした図面を描いてくる。 でも、それを見た武庫川女子大の学生たちは、台所まわりが到底ちゃんとした家事のできる構造になっていないことを、ぼろくそに指摘する


たしかに入学偏差値には差があるのでしょう。 でも、そんなこととは無関係に異質な感覚の持ち主たちが話を交わすと、互いに刺戟し合うことで、どちらもに好ましい成長が始まります。 このときは、自らの賢さに、えらい自信を持っていたように見える京大生たちが、女子大生に揺さぶられて、かなりトクをしたのではないかと思わされました。 



谷本


それで、一つ、アメリカの大学群が、今脅威を持って毎年会議をやってるんですけども、中南米は全部ボローニャ・プロセスの考え方に入っているんですよ。 でもアメリカは入っていないんです。 毎年、アメリカが留学生を中心にする会議で、ボローニャにどうコミットするのかが共通の議論としてあるんです。 現実的に、IBリーグの大学の中で、10大学ぐらいの規模で確実にやってると思います。 だけど、日本でなんでできへんのかなと思うんです。 






長谷川


では、ディスカッサントできていただいた本田さんと西本さんに感想をお願いします。 本田さんからどうぞ。 /p>

本田 一泰 (京都府企画理事)


初めて参加させていただき、とても面白かったです。 半分ぐらい喧嘩腰の話もありまして、まあ、価値観が全然違う。 それから、持っている知識の質が違う。 質が違うというのは、平面ではなく立体なので、ねじれの位置にあるような知識があるので議論が咬み合わない時があります。 でも、それって、非常に刺激があってですね。 私自身は公務員生活が長いので、平坦な価値観しか持ってないと思っています。 なるべく多様性を認めようと思っていますけれども…。 きょうの話は、イノベーションについてだったんですが、それについて私も考えて来たわけですけれども、一行政の立場からしか考えていなかったなあってことがよくわかりました。 数字を基にしたサイエンスとしての分析はすばらしいし、メンタリティーのお話もたくさんあって、非常に面白かったなと思っております。 この議論をそのまま、私の仕事に生かせるかどうかは別にして、心のなかには貯めこんでおいて、それがいつかは発酵をして、いい仕事につながればいいなと、それでお返しができればと考えております。 




西本 清一 (京都高度技術研究所理事長・京都市産業技術研究所理事長)


最近、日本とアメリカの社会構造の違いを考えておりまして、きょう、そのことを述べさせていただきました。 要するに、日本としてこれから何をすべきかということなんです。 私は、サイエンスの世界で生きてきました。 科学という枠組みができたのは17世紀のヨーロッパ社会で、デカルトに始まるんですね。 そこの根本のところにキリスト教の考えがある。 その大本はアダムとイブの話なんです。 イブが蛇にそそのかされて、禁断の実を食べる。 そのことによって人間になった。 人間になったったということはどういうことかというと、神の世界にいたアダムとイブが死ぬ運命になったということなんです。 命が有限になる、と。 その代わり、蛇が予言したことなんですけど、人間は有限の命になったのと引き替えに、神の創造物のうち、その僕、極論すれば神の代理として人間を位置づけ、人間以外の自然物を人間が自由に利用したらよろしいと。 こういう御託宣を受けたとするのが、17世紀の科学と近代の始まりで、大体400年経っているわけですけれど、ほぼ150年前の明治維新の時、西欧の近代科学をそっくりそのまま受け入れた。 


これが、日本人のある種の国民性の現れで、日本っていうのは既にあるものの上に、ピシャーっと、トロと握りとの組合せのように、既存のものの上に載せるんですね。 簡単に融合もしない。 そして、300年ぐらい寝かせているうちに、新旧のいいとこ取りしながら、カスタマイズして自分流のもの、似て非なるものに仕上げる。 日本は、文明も文化もすべて輸入したものです。 だけど、日本流に仕上げる。 明治維新の時は、17世紀に始まった西欧の近代科学をそっくりそのまま受け入れた。 それは、一つには富国強兵策ですね。 欧米に追いつけ、追いつかないと植民地化されるという思想が優先したからです。 しかし、その時、じっくりとものを考えたら、さっきいった自然は人間のために利用し尽くしてもいいという西欧流の発想は、日本にはないわけです。 なぜかというと、人間は、自然の中の一部ですから。 虫けらにも仏の魂が宿り、石ころにも仏が宿いっているという考えでしょう。


今、17世紀に起源をもつ西欧の近代科学というのは、実は、もう曲がり角に来ている。 こんなもので自然を壊して自然物を分配して行ったら、これ、早いとこ取った者勝ちなんでしょうが、そんな行為を続けたら、取ったほうの勝ち組も、もう生きていけなくなるんですね。 だから、新しい日本的な発想に立った科学とか技術がこれから求められるのに、残念ながら、日本は、アメリカ流の仕組みをひたすら追い求めているところに問題がある。 これが私の最近考えていることなんですが、まだ生煮えで、どんな結論に至るのかわからないんですけど。 そろそろ、オリエンタルっていうのかなあ、東洋的、あるいは日本的な考えの、自然と一体となるような科学技術が求められる時代になったなと思っているんです。 それなのに、日本はアメリカ流のやり方を未だに移入しようと必死になっている。 そんな周回遅れ状況とは反対に、シリコンバレーなどでは既に、人間の温もりを目指したような日本流とも言うべきものづくりベンチャーが既に動き出している。 新しいトレンドが生まれているんですよ。 実に残念です。 


高田


今、東洋的とおっしゃいました。 まあ、その通りなのですが、ただ、それを一言で表現すると「山川草木悉皆成仏」ということになる。 ここまで徹底した思想は日本にしかないような気がします。 11世紀に生まれた天台の思想だといってよかろうかと思います。 






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人間ひとりひとりの深く高質な感性(クオリア)に価値を置く社会、これは各人の異なる感性や創造性が光の波のように交錯する社会ともいえます。
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