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第8回クオリアAGORA_2014/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

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ディスカッサント

堀場製作所最高顧問

堀場 雅夫 氏


佛教大学社会学部教授

高田 公理 氏


京都大学大学院思修館教授

高橋 淑子 氏


京都大学総長

山極 寿一 氏



漫画家/京都精華大学学長

竹宮 恵子 氏




山極 寿一(京都大学総長)


みなさん、こんばんは。 私は、ほんとに竹宮ファンで、学生のころは、「風と木の詩」とか「地球へ…」とかね、夢中になって読みました。 きょう、竹宮さんのお話をうかがって、何か目の前がスッキリしたような気がするんですね。 「ああ、マンガって日本語だったんだ」っていうことですね。 どうも、これまで、フランスとかアメリカのマンガとか見て、面白くないなって思ってたんですが、やっぱり、そうだったんですね。 いうなれば、マンガっていうのは、一つのコード文法があって、そこに、きちんとした文化というものが再現されてるんだなということがよくわかりました。 



竹宮 恵子(漫画家/京都精華大学学長)


マンガは、大体そういうものだと思うんですね。 だから「マンガ風(ふう)」っていうのを、フランスの人たちもやろうとはしているんですけれども、そこで、日本語風ではなくフランス語風でやってほしいなと思ってます。 



山極


それから、もう一つ、マンガって、実に人間的な技(わざ)だと思うんです。 竹宮さんは、「知能の高い動物なら、これを理解できるはずだ」とおっしゃったけれども、要するに、「見ることが真実だ」っていうのは、これはサルから来た能力なんですね。 多分、イヌにとっては、見ることでじゃなくて、嗅ぐことが真実だと思います。 しかも、静止画を並べて、その流れっていうものの中に、ある意味を読み取っていくわけでしょう。 それは、ものすごい、ほんとは技術なんだと思いますね。 動物には、静止画に表れている意味っていうのは、なかなか読み取れないし、静止画から静止画へと流れていくものに、どういう背景を読み取るかっていうのはなかなかできないと思うんですね。 これは、すごく、高度な知能だと、逆に思うんですね。 



竹宮


ただ、それが、例えば、人の表情であるとか、ひとの動作であるとかだった場合はある程度読み取りができるんじゃないでしょうか。 静止画と数であれば、難しいと思うんですけど…。 



山極


そうですね。 その辺りを、記述する難しさと、それから、人間に共通の、あるいは文化に共通の静止画っていう辺りを、うまく考えていく、そういう面白さがあると思うんですね。 タイトルも「世界言語としてのマンガ」だから、まさしく、マンガっていうのが、どういうふうに、世界で、コミュニケーションとして通じるかっていうところが、多分、きょうは託されていると思うんですが、その辺りのお話をしていこうと思っています。 


実は、大学院の入試で、京都大学理学研究科が、昔、英語の問題で、「外国人が来た。 日本の銭湯を案内するのに、適切な案内文をかけ」というのを出したことがあったというんですね。 いろいろ、みんな英語で書くんですけど、その中にひとり、マンガでそれを描いた人がいたんですよ。 それで、その時、議論になった。 「マンガというのは、英語と認めていいかどうか」。 そのころ、私は先生じゃなかったんですが、結局認めたらしいです。 でも、まさにそうだよなと思いました。 コミュニケーションというのが、シンボルを使って行うものであるなら、それは、翻訳可能なわけであって、絵というのも、翻訳可能なものであるというふうに見做すことができる。 その時に、世界性、国際性というのを、どう担保したらいいのかってことが、きょう試されているような気がします。 高橋さん、多分、すごく国際経験がおありだと思うんですけれども、どうですか、マンガというのは。 どういうふうに考えておられますか。 多分、フランスあたりで出会ったことがあると思うんですけれども



高橋 淑子(京都大学大学院理学研究科教授)


 私も、山極先生と同じで、生物学を専門としておりますが、きょうお話をいろいろうかがって、ハッと思ったことがあるので申し上げたいと思います。 私たちが論文を書く時、研究で発見したことを、論文の最後のサマリーフィギュアに描くことが多いんです。 マンガと一緒にしていいかどうか、よくわからないのですが、そのサマリーフィギュアでは、自分たちの発見をイラストみたいな形にして描きます。 これ、結構、命をかけて描きます。 今日の話をうかがって、マンガにおいても、その一コマ一コマに、命をかけて描いておられるということに気がつきました。 その静止画に、作者が言いたいことの最大限を盛り込むんですよね、きっとね。 そこが、サマリーフィギュアの作業と非常によく似ているなあと思いました。 



山極


確かにね、私が、小さい頃に親しんだ「赤胴鈴之助」とか「ビリーパック」とかね、そういうのを考えてみると、全然、今は違いますよね。 堀場さん、昔、マンガに親しまれたかどうかわからないけれども、日本の文化の中で、こういうイラストレーションによっていろいろコミュニケーションすることが勃興してきたのをずっと見てらっしゃったと思いますが、これについて、どう思われます。 



堀場 雅夫(堀場製作所最高顧問)


いやあ、マンガってこんな難しいもんやと初めて知りました。 ぼくは、マンガっていうたら、ちょうど今から85年前、小学校に入った頃ですね、田河水泡というマンガ家がいましてね、その人が描いた「のらくろ」というのがありました。 ワンちゃんが兵隊になるんですが、二等兵から始まって、だんだん偉くなって一等兵、上等兵、伍長、曹長、ついに士官になりましてね、これがどのぐらい続いたのか、小学校を卒業するくらいまで、ずっとこれを読んできました。 それと「タンクタンクロー」。 これ、丸いとこにいっぱい穴が開いていて、そこから手やら足が出るんですね。 これが、いろんなことするので、これはまあ、今から思うと、ロボットの元祖みたいなところがありましてね、そういうふうなのを子どものころは何の気なしに、ずっと見てきたんです。 


最近、といっても、もう今から10年以上、もっと前のことですけど、新幹線に乗っていると、大人の人がマンガを読んでるんですよね。 こいつは、あほとちゃうか。 日本もレベルが低うなったな。 大人がマンガを読むなんて、なんちゅうこっちゃ…。 うわあ、もう日本も最後やなとずーっと思てたんです。 そうしますと、最近、週刊誌だけでなく、サイエンティフィックな雑誌にも必ず、数ページマンガが入ってるんですよね。 なんで、こんなもんが入ってるのかと、何とはなしに、読んでみると、すごい説得力があるんです。 よっぽど変な文書より理解がはやい。 これは、ちょっと昔の「のらくろ」なんかとは違うなあ、っていう存在感に、最近ようやく気づきましてね。 マンガって面白いなあと。 


それと、この10年余りですごく感じたことは、経産省が、日本は、これからベンチャービジネスをどんどん起こさんといかんということで、京都には、ベンチャーで成功した人が多く、そういう人たちが、いかにしてベンチャー企業を創ったか、というものを小中学生に勉強させたいということで、そういう本を作った。 でも、これをばらまいたけれども誰も読まない。 それで、京都精華大学に頼んで、それをマンガで作ったんです。 すると、これが面白いということになり、ほとんどの小中学校で、準教科書のようになってるわけですね。 私も、実は、そのマンガにしてもらいました。 これ、巧い事できてるんですね。 最近は、私に関して同じような質問があるので、そういう時に、そのマンガを渡すようにしてるんです。 すると、これ評判が良くて、外国の人にもということで、英訳も作ったんです。 ただ、きょうのお話で、英語をそのまま入れたんでは、アカンという事に気づきましたので、明日会社に行ったら、早速、言葉のところをどう変えるか検討せないかんなと思った次第です。 



山極


では、高田さん、多分、文化としてのマンガの変遷ということで、一言おありだと思いますが。 



高田 公理(佛教大学社会学部教授)


たいへん面白く聞かせてもらいました。 で、思いついたことを五点ばかり話させてもらいます。 


まずは、堀場さんのおっしゃった「そのまま翻訳したらアカン」という点ですが、これは先ほどの「ミラー化」にも当てはまりそうですね。 これをやると、「日本人には、左ぎっちょがめちゃくちゃ多いやないか」という誤った印象を与える可能性がありそうです。 よく似たことは、アニメの「アルプスの少女ハイジ」にもあった。 これ、ヨーロッパでも、すごい人気が出たんですが、ただ、ハイジが大人と出会うたびにお辞儀をするんですね。 すると、「あれ、いったい何してるんや」と欧米人には理解されなかった。 背景に、こういう文化差の問題がありますので、それが今後は非常に大事な問題になりそうやな。 そう思わされました。 


二つ目は、メディアに対するリテラシーという問題です。 これは、今生きていたら120歳ぐらいになるぼくの婆さんの話なんですが、テレビが普及し始めたころに西部劇の映画を見ていたところ、当然のことながら行進曲のような音楽が鳴るわけです。 すると彼女は、「あの音楽を演奏している楽隊は、どこにおるんや?」というんです。 無論そんなことはありえません。 それは映画を見慣れると当然、背景音楽だと分かるはずなんですが、映画リテラシーが身についてなかった婆さんにとっては、音が聞こえるのに楽隊がいないというのが不思議で仕方なかったわけです。 こういうことが分かっていないと、たとえば激しく撃ち合いをしている戦争の場面に、非常に穏やかな自然の風景のなかでくつろいでいる子供の姿が映し出されたりすると理解できなくなる。 いうまでもなく戦闘に従事している若者が故郷での子供時代を回想しているわけですが、初めて映画を見たような人は、そういうことが理解できなかっただろうと思います。 


こういうことを誰もが理解しうるようになったのは、1920年代、ソ連の映画監督のエイゼンシュタインがモンタージュ理論に基づく映像作品「戦艦ポチョムキン」を制作してからのはずです。 実際、それ以前の映画は、ずーっと時間通りに流れている風景をそのまま撮影していたわけです。 でも「ポチョムキン」では、公園で寛いでいる市民たちが突如兵士たちに撃たれてパニックが起こる。 その状況をエイゼンシュタインは、顔のクローズアップや母親の手を離れた乳母車が階段をガタンガタンところがり落ちる風景などを矢継ぎ早に撮影することで、そこに起こっている悲劇的な現象をリアルに訴えかけるわけです。 こういうのも映像リテラシーが身についてなかったら、「何のこっちゃ?」と思われて理解されない。 これと似たことがマンガの世界にもあって、その革新に伴って今、非常に面白いことが起こっているらしいということを教えられました。 


三つ目は、「マンガって、俳句に似てるな」ということです。 というのも、たとえば長編小説の場合は、なんで作者はこういう作品を書いたのかということを考えさせられるように思います。 それに比べて俳句の場合は、そんな意味のないことは考えません。 例えば「古池や蛙飛び込む水の音」という句があります。 それを鑑賞するということは、読む人がさまざまに解釈するということでもあるわけです。 大体、古典的な解釈は、「古い、何となく寂しそうな池に、一匹のカエルがポチャっと飛び込んで、その音が却ってあたりの静けさを際立たせる」ということなのでしょう。 でも、高浜虚子だったですかねえ。 「春がやってきて、古池にカエルがボチャ、ボチャっとたくさん飛び込んで、ああ春がやってきたな」というような読み方をしたと人もいるのだという話を耳にしたことがあります。 つまり、解釈の自由が読み手の側に委ねられている。 そのためには作者の側が全てを語るのではなくて、いろんな要素を捨象して提示することで、読者に自由な解釈の可能性を残して置いてくれないと困るわけです。 マンガにも、そういう側面があるのかなと思わされました。 


これって、日本の学校教育には馴染まないのかもしれません。 だって、国語の問題の典型の一つに、ある文章を読ませて、「そのとき作者は何を考えていたのか」を答えさせるというのがあるでしょ? これについて河合隼雄さんが面白いことをおっしゃったことがあります。 「そらあ、作者は原稿料のことを考えてたんに決まってるやないか」――でも、こういう答は絶対に正解にならない。 まあ、河合さん一流の皮肉なんですけれども……。 


そこで思いついた四つ目の点は、日本の視覚芸術には、ある種の「捨象主義」のようなものがあるのかなということです。 そもそも鳥羽僧正の「鳥獣人物戯画」は、いろんな要素を捨象してできあがったマンガの祖先のようなものです。 これと同様、今年、400年記念で注目を集めている「琳派」の絵も、一種の「捨象芸術」だと思います。 余りにも有名な尾形光琳の「燕子花図」も、花の群落の美しいところ以外を捨象してデザインしたがゆえに、強烈なインパクトを発揮することに成功した。 こういう伝統が、日本のマンガのなかにも脈々と流れているらしい。 そんなことを思わされました。 


そして最後の五つ目は、奇しくも堀場さんがおっしゃった「のらくろ」と「タンクタンクロー」です。 のらくろは犬ですね。 タンクローはロボットです。 犬とかロボットというふうなものを人間の物語の中に取り込む。 こういうことって、ヨーロッパ人には、なかなか思いつけないのではないでしょうか。 そういうことをごく普通にやってのける日本人の気持の底には、やや大げさなのかあもしれませんが、「山川草木悉皆成仏」という「天台本覚思想」みたいなものが流れているのかも知れません。 


まあ、こんな五つぐらいのことをお話を聞きながら考えておりました。 



竹宮


いやあ、そういうふうに広く私の話を聞いていただいて、非常にありがたいと思います。 確かに、まあ、マンガというものは、ほんとに独り歩きをするように作られているというふうにもいえます。 いかに、読者に投げるか。 理解の部分をですね、読者に投げることができる人ほど、まあ、手馴れている、作るということに手馴れているといえるとおもうんですけれども。 そういうふうに考えていけばですね、新人の人たちの描くものというのは、かなり限定的です。 説明が主になっている。 けれども、それがこなれてくると、相手に委ねることができるようになってきます。 その幅が大きければ大きいほど、共有する世界が、どんどん広がるんですね。 その漫画に描かれた世界だけじゃなく、Aの人、Bの人、Cの人が読んだ中で考えたことが全部包括されて大きくなっていきます。 そのコミュニティーが作られていくっていうことが、一番マンガを発展させてきたと思っているので、そういうふうに、いろいろな読み方ができる、いろんなことを考えさせられてしまうっていうことが、マンガを育てている一つの要因だなっていうふうに思います。 



山極


先ほど、「鳥獣戯画」の話が出てきましたけれども、あれも、右から左に流れていきますよね、物語が。 



竹宮


そうですね、それも、日本語に属しているから、ああいう流れになっているんだろうと思いますけれども。 



山極


アニメーションの話で気になったんですけども、さっき、高田さんもおっしゃったように、動物と人間の境を軽々と超えてしまって、人間のストーリーの中に動物を、あるいは、動物のストーリーの中に人間を埋め込ませるということができてしまう。 これ、実は、ディズニーがやったことなんです。 例えば「バンビ」という作品があるんですけれど、作者はザルテンというオーストリアの人なんですね。 それまでは、動物と人間は明らかに違うものだったんだけれども、ザルテンは、人間のような痛みや悲しみというものを感じる存在として子鹿を描(えが)きました。 それをアニメーションにして、動物も人間と同じような感情を持っているんだっていうことをみんなに流布したのがディズニーなんですね。 これはいうなれば、科学的とは違う、動物文学や動物物語の世界として、一斉に欧米の世界の人たちの心をとらえたんです。 だから、科学の発達とは別に、動物愛護運動が、それによって広がりました。 


でも、日本のマンガは、それと一線を画してると思うんですね。 アニメーションとして始まったわけでなく、一つの戯画として始まってきたのが日本のマンガですから、やはりルーツをたどると。 



竹宮


いや、もうそのとおりです。 後、多神教的なところで、草木にすら魂があるというわけですよね。 すべての人がそれを理解しているので、まあ、心的な世界、つまり呪術的な世界にも及ぶようなことを、日本のマンガは扱っていますけれども、それも、ほんとに、大昔のマンガからそれはある。 特に「鳥獣戯画」とかも、一つのその例であろうと思うし、面白いのは「鳥獣戯画」の中で、お坊さんが何か唱えている絵がありますよね。 その言葉が、こう、流れている形で書いてある。 これ、吹き出しの始まりだろうと思うんですけども、昔々の吹き出しは、尻尾が閉じてなかったんです。 開いているんですね。 それは、口から出る音っていうのを、最初、カタカナで文字を書いて、口から出る言葉としてこういう斜めの線を口の方から描いていたんですね。 それが、ほかの文字や絵と一緒になり、不便だということで閉じたのかもしれないです。 で、そんなようなこともあるので、今のマンガと、「鳥獣戯画」の絵と関係がないとはいえないですね。 非常に近いものだと思います。 



山極


さっき、高橋さん、「説明に命をかける」と。 図を使ってね。 そういう時に、マンガの持ってる超越性っていうか、マンガは、眼に見えないことを見えてるような形で説明することができる能力を持ってますよね。 そういう技術は、科学にとって必要だと思いますか?



高橋


そうですよね。 この点は、私たちが、いつも悩んでるところなんです。 悩むっていうのは、つまり、どうやって、学生や大学院生達に教えたらいいんだろうって…。 いろいろ悩むけど、結局「センスが必要だ」といって片付けることも多いのですが、実はセンスを教えることはまた非常に難しい。 ロジックを教えることはできるんですけれども、センスは伝えることが難しいですね。 ですから、私たちが書く論文の中に、自分たちの発見をイラストに込めるときには、非常に高いコミュニケーション技術が求められるわけです。 先生がおっしゃった通りに、自分の言いたいことを表現するんじゃなくて、相手にわかるかどうってことなんですね。 自分が言いたいだけだったら、まあ適当にやっておけばいいわけで…。 マンガの世界もそうだなあと聞いていたんですけど、やはり、相手がわかってなんぼなんですね。 相手にどう伝えるかっていう意味において、きょうのお話をきくかぎり、「論文書きを上達させるためにはマンガを読め」といったほうがいいのかなと思い始めました。 


一方で、科学的発見をまとめるイラスト描きと、きょうお聞きしたマンガでちょっと違うというところもあります。 マンガは、読者のAさんBさんCさんで感じ方が違うのをよしとします。 そしてその受け止め方の違いによって、さらに広い展開がある。 しかし、論文のサマリーでは、AさんBさんCさんであまり違うと困るわけです。 


で、一方で、マンガのマイナス面についてお聞きしていいですか。 私はちょっと古いのかもしれませんが、「マンガばっかり読まずに、ちゃんと文学作品をお読みなさい」って、よく学生にいいます。 お聞きしたいのは、マンガのプロを目指している方々は、どのぐらい文学作品を読んでおられるのでしょうか。 あるいは、違う言い方をすると、文学を含め読書量多い方々の方が、マンガを描くのがお上手なんでしょうか。 



竹宮


本をたくさん読んでるから、マンガが上手とかっていうことはないと思うんですけれども、逆に、マンガを描き始めて、それがいかに表現が難しいかっていうところまで到達し、いかにして読者に託すかっていうようなことを考え始めるようになると本を読み始めるということはいえます。 後から読書をするようになるって感じですね。 



山極


私ね、最近、エリヤフ・ゴールドラット博士という経営学の神様みたいな人の経営哲学のマンガを読んだんです。 さっき、堀場さんがおっしゃった、自分のやってきたこととか本に書かれたことをマンガにすると、非常によく理解してもらえるということなんですね。 そのマンガを見て思ったんですが、ドラマを作るんですね。 例えば、いろんな効率化を会社がめざす。 なんぼやってもそれができない。 それで、原因がどこにあるか、現場を一つずつ洗っていくわけですね。 すると、ああ、こういうことだったんだって、いろいろな作業を通じてわかる過程が、マンガによってドラマ化されるんです。 そうすると、簡単に追えるんですね。 文字で追っていったら、嘘っぽく思えたり、何か息詰まったりするんですけど、マンガだと、スラスラスラっと最後まで行くんですよ。 どれも成功ストーリーになっているから…。 経営というのも、ストーリーをつくり、ドラマにして人々にみせることによってすごくわかりやすくするんだな、と思いました。 これは、ひょっとしたら、あまりにわかりやすくし過ぎてるから、間違いも伝えてるかもしれないんですけど。 今の世の中は、わかりやすいことが求められていますから、マンガ化というのは進んでいくと思います。 これは、日本の進行しつつある文化と思うんですが、堀場さんいかがでしょう。 



堀場


お答えになるかどうかわからないんですが、私の孫がね、いろいろ、日本の歴史のことをいうとね、みんな知っとるんですよ。 それで、今どき、日本の歴史をよう知ってるなあ、というたら、学校で習うたのは何にもわからへんにゃけども、マンガで知ったっていうんです。 楠木正成とか源氏のこととか、時代の流れとともに知ってるんですよ。 ぼくは、昔、歴代天皇の名前覚えるのが苦手で、日本歴史って嫌いやったんですけど、それで、孫に、そのマンガを1冊借りて読んだら面白くて、あっという間に読んでしまったんです。 だから、面白く何かを教えるというマンガの効果はすごいと思うんです。 もっと、マンガってものを教科書に利用したり、例えば、数学もマンガにするといいと思うんですね。 もうあるとは思いますが、円周率のこととかね。 とにかく、好きなことはいいが、嫌なことは、マンガで面白おかしく学ぶというのは効果があるんじゃないかと思いますね。 



山極


いま出ましたマンガを教育のツールにという考えについて、竹宮さんいかがですか。 



竹宮


いいと思います。 と言うより、マンガを描こう思う人というのは、ものすごくめんどくさいことを承知で始めるんですね。 それが、どんなに難しいか知ってるんだけれど、やることに意味を感じているんです。 その意味っていうのは、技術、アイデンティティーとつながっているというふうに思いますので、それを、教育の中でうまく活かしていくことができれば、いろんな子どもたちを救うことができる。 困っている状態から、自信を持って話す事ができる状態にできるというふうに、私自身も信じていますので、もっと教育の場で使っていってほしいと思います。 


先輩がふるさとに行っていろんな授業をやるっていう番組がありまして。 それをやったことがあるんですけど、ほんとに、泣き顔、笑い顔を描くだけで、もう、それぞれの笑い顔が違うんですね、一人一人。 怪獣の顔じゃないと笑顔の描けない人もいたりですね。 そういうのがその人らしさにつながっていたりして、子どもたちのやっていることから、先生の方が教わることがすごく多いと思います。 もちろん、そういう気持ちで臨めばということで、ただ単に描かせるだけではダメなんだと思いますけど。 そういうところで使っていくと、マンガっていうのは、その人が何かを吐き出すための非常に重要なツールになっていくと思います。 



山極


今、おっしゃったことでなるほどなあって思ったのは、マンガって必ず主人公が出てきますよね。 例えば、道徳教育や何にしても、行為ってのが出てくるだけで、主人公が出てこないんですね。 それを聞く方は、行為には同化できないけれども、主人公には同化できるわけです。 それは、人間の持っている性質だと思うんです。 それを利用して、この人だったらば、こういう時にこういうように振る舞う。 それが美しく見えたり、とても恥ずかしく見えたりする。 それがまさに、共感を利用した一つの行動の示し方なんだろうと思うんですね。 そういう道筋をはっきり付けて、子どもたちに感動を与えることというのが、実は、文化の共有やリテラシーというものの伝達に非常に大きな効果がある、と考えたんですが、どうでしょう。 



竹宮


いいと思います。 あと、例えば、自信のない人っていうのは、はっきりと、主人公が人間だったら、自分の言葉だと思われてしまうから描けないってことがあると思うんです。 でも、主人公がネコや怪獣だったら、自分の言葉をしゃべらせられるっていうこともあるんですね。 そういう意味でのコミュニケーションの仕方というのもあるだろうと思います。 で、一度できるとですね、次の段階にいけるんです。 



山極


竹宮さんは、少女マンガから出発して、途中で、それを超えて、少年マンガに進出をして、一般化をしていったわけですけど、少女マンガっていうと、ちょっとお茶目で、そんなに頭がよくなくて、美人じゃないけどちょっと可愛らしいっていうのが必ず主人公になるじゃないですか。 その固定したイメージがあったんですけど、これも一つの日本文化だと思うんですけどもね、そのあたりの変遷していったことについては如何ですか。 



竹宮


いや、あのう、私は、実は、少女マンガは苦手なんです。 適合しないんです、っていうか、主人公と同化できないタイプなんですね。 で、自分がそうだから、何とかして少女マンガとして成立するものを描かなければいけないと思って、まあ、だんだんにっていうんですかね。 少年であれば、自分は同化できるので、少年だったら、女の子にとっては、ある意味、わからないけど、憧れている存在でもあるので、例えば、外国の少女誌の表紙は全て男の子だって言われると、ああ、なるほどね、日本は、まだ、そこまで行ってないけれど、そういうことがあるんだ。 であれば、男の子を描いても同調してもらえるかもしれない、と思って最初は描き始めたんです。 自分が素直になれる形を、まず求めたんですね。 そしたら、それについてきてくれる人がいたっていうことなんですけど。 



山極


宮﨑駿さんが、描くものは、いつも少女が主人公になるんですよ。 それと似たとこがあるんですかね。 異性で…。 



竹宮


そのほうが描きやすいってことはありますね。 



山極


今、私、国大協の「男女共同参画推進委員会」の委員長をやってましてね、日本で、女性の社会への参画をどう進めるかっていうことに苦慮しているんですけども、全然進まないから。 でも、マンガから変えていけるかもしれませんね。 「ロールモデル」っていうのが、マンガの中には出てきますからね。 



竹宮


そうですね、やっぱり、男の子の形で、私が主張していったことが、少女にとっては受け入れやすかったと思います。 女の子がしてはいけない行動を男の子はできるので、それを主人公として自分と同調させることをしているうちに、同じような主張をできるようになる。 そういう形で、少しずつ、世の中と一緒に変わっていったっていう感じですかね。 







高田


なるほどねえ。 さまざまな事実についての知識を、巧みにマンガにすると、心に染み通る物語になるのかもしれません。 さきほど高橋さんがおっしゃったように、新しい未知のことがらを研究して解明するプロセスは、物語づくりとは違い、きちんと事実に基づいてやらないと成功しないのでしょう。 でも、解明された知識は、それを物語にした瞬間に面白くなるのではないでしょうか。 何故か、というと、そこで「知識が主体化される」からです。 つまり、生きた人間が、そこで動きまわるわけですから、ある種の共感を持って眺めることができるようになる。 結果、感情移入がしやすくなる。 こうなると、なかなか忘れない。 そういうことになるのだろうと思います。 


そこで思い出すのは、堀場さんの会社の「おもしろおかしく」という社是です。 これって、ある種の普遍的価値を表現しているのだと思います。 というのも「面白い」の語源ですが、これは昔のお祭の風景と不可分なんです。 まず、お祭は夜に始まります。 で、人間の願いのために神様を、いわば買収するわけですが、それには酒とご馳走が不可欠です。 ただ、それだけだと充分じゃない。 腹がふくれ、酒に酔うと、歌や踊りが楽しみたい。 というので、神様が楽しんでくれる「お神楽」という芸能が生まれました。 そのお神楽は夜、篝火の明かりに照らされて演じられるわけですが、それが「おもしろ」かったら、人々の顔が舞台に向けられる。 すると、人々の顔が照り返されて「白く輝く」わけです。 そういうのを「面白い」という言葉で捉えたんですね。 柳田國男が『野鳥雑記』に、そういうことを書き残しています。 


今一つ、面白いことに出会うと、人は笑います。 その笑いについてフランスの哲学者ベルグソンは、笑いの条件を二つに整理しています。 一つは「笑いを呼び起こすのは、今までになかったパターンにであうことだ」というのです。 今一つは「その新しいパターンが従来の権威をひっくり返すようなものであることで、一層インパクトが高まる」――つまり「新しいパターン」と「権威を忽(ゆるが)せにする」ことが、笑いの背景にあるというのです。 


こう考えてみると、「おもしろおかしく」というのは、普遍的価値と革新を2つとも孕んでいるのだということになります。 同時に、マンガもまた、そういうことをやってのけてくれる非常に面白いメディアなんだということになるのかなあと思っているところです。 



竹宮


そうですね、それが許されるメディアなんだと思います。 マンガっていうのは「たかがマンガ」っていう時期が長かったので、「たかが」だからこそできることっていうのがたくさんあって、仮説を立てることもですね、非常に大胆にできるといえます。 「当たり」なことを、それは多分事実になるだろうことっていうのを、今の時点では認められないことを大胆に展開してみよう、とやれる。 すると、それが終わるころには、事実になっていってというケースがたくさんありますので、仮説を立てて、大胆に、恐れずできるというメディアだろうなと思います。 



高橋


きょうのディスカッションを聞いて、今、ふと思ったんですけど、マンガが日本特有の文化だなと思った時、「ゆるキャラ文化」をちょっと思い出したんです。 いい悪いはともかく、日本全国でゆるキャラが出てきて、ほんまもんの人間が語っても誰も聞かないのに、ゆるキャラに語らせるとみんな聞くようになって、一体これはどないなるんやろうとか思てるんですけど…。 要するに、何か、共通するようなところがあるかなあ、と。 まあ、物語性の議論も出ましたし、現実だけではなく、ちょっと違うところで物語を展開させるという文化っていうんですか、竹宮さんはどうお考えですか。 



竹宮


ゆるキャラの中で人気のあるものというのは、大抵、後ろに物語が隠れています。 ちゃんと設定がされているんですね。 それが、たくさんあればあるほど、人気は高いです。 ゆるキャラっていうものが、ほんとにすごい数、今あるわけなんですけども、「ふなっしー」っていうのは、ほんとうに掟破りなんですよね。 しゃべってはいけないものがしゃべる、激しく動いてはいけないものが動くんですよね。 そういう掟破りというものが、ここまで増えて起こってくるっていうのが面白いと思いますね。 しかも、「ふなっしー大嫌い」と言っていた人が、ふなっしーテレビにさんざん出るようになって、裏側が見えてくると、何かちょっといいかもしれないと思うようになったりするっていうのが、非常に曲者だと思いますけど。 



山極


では、フロアからのご意見をうかがいましょうか。 



堂免 惠 (東京工業大学金属工学科非常勤講師)


私、「風と木の詩」は中学生の時だったんです。 それで、さっきから聞いていて、すごくストレスがたまったのは、竹宮恵子と萩尾望都の作品を、伝記マンガシリーズみたいなやつと一緒にしないでほしいということでした。 ほんとに芸術だと思うんです。 文学とはまったく違うジャンルの芸術というふうに、私は、多感な少女時代に読んで捉えていたと思います。 絵の美しさとストーリーとが渾然一体となった美しさを、夢中になって読んだんだと思うので、「文学と違うジャンルの芸術というふうに捉えてます」ってことを、さっきから言いたくて仕方なかったんです。 ゆるキャラなんかと一緒にしないでほしい、と。 あ、すみません。 ゆるキャラはゆるキャラですごく面白いとは思うんですけど、それとはやっぱり違う。 芸術じゃないですか。 


きょう、お話をうかがって、竹宮先生は、ああ、これだけ完璧に考えてらっしたのか。 だから、あんなに夢中になったんだなってことをすごく思いました。 どうもありがとうございました。 



竹宮


そういうふうに言っていただいて、非常にうれしいんですけれども、芸術たろうとして、そういうふうにしたわけではないんですね。 表現しようとすることが必要としたので、ああいう形になったっていうふうに思っています。 だから、今、新しいものを描く時に、あの手法を使おうとは思わないですね。 その作品のためにあった手法だって思っています。 それは、多分、他の人の場合も同じだろうと思います。 それの評価を、そういうふうにしてくださるっていうのは、もっとあとの時代にそれを読まれた人が、どう思われるかによって、また変わっていくんじゃないかと思いますので。 


マンガっていうのは、余りにも幅が広くて、ゆるキャラも含めてですね、もういろんなものを含んでいます。 私自身がマンガっていう時、決して自分が描いていたものだけを思っているわけでなくて、ほんとに巻物の時代から、今まで発展してきたマンガの全て。 そして、そこから派生していくアニメなんかも、全て包括してマンガって思っていますね。 



高木 俊介 (ACT-K主宰 精神科医)


私は、日本のマンガっていうのが独自に変わったのは、やはり、手塚治虫からと思うんです。 彼が、ディズニーの映画を、その時間まで圧縮して二次元に閉じ込めちゃった。 四次元まで二次元に閉じ込めたっていう圧倒的な情報量を作ったとこからできたと思うんですね。 ですから、一つの画面の中に時間があるっていうのが、マンガのものすごく大きな特徴だと。 きょうは、その、言語との関係でおっしゃいましたけど、コマ割りって文法が、マンガにとってものすごく大きなものじゃないかと思うんですね。 それから、吹き出しの話なんですけど、尻尾がなくなった話ですね。 あれ、最近増えたって言いますけど、もう竹宮さん自身が、昔からやってしまったことじゃないんですか。 吹き出しすらなくしちゃったでしょう、少女マンガの中で。 



竹宮


でも、それは一緒の話じゃないんです。 吹き出しをなくすというのは「内語」ということになります。 つまり、心の中で思っている言葉なんですね。 それから、吹き出しの尻尾をなくす事ができるのは、限られた場合だけなんです。 すべてのものをなくしてしまうと読みきれないものができてしまうので、私がやったのも、外していいところだけです。 それは、どういう時かというと、読んだ時の印象で、尻尾で音声的に捉えてもらうのか、なくして、意味としてセリフを捉えてもらうのか、っていうような場面、場面の局面の違いっていうのが、多分あると思うんですね。 わざわざ、そういうことで尻尾をなくしてある、というふうに自分では思っています。 



高木


いずれにしても、日本人のマンガへのリテラシーっていうのは、ものすごく、最初から高度だったような気がしますね。 



山敷 庸亮 (京都大学大学院思修館教授)


ぼくは、地球環境問題をやってるんですけども、竹宮先生の「地球へ…」がですね、今読むと、20年後、30年後を見据えて描かれたような感じを受けます。 今、まさに、直面しているのがあの話の前提になっていてですね、そこまでよく予見されたなあというふうに思うんですね。 要は、メッセージ性が高いマンガ、メッセージ性どころか、まるで未来を予知したような作品なんですね。 あの作品のそういうところをもっとまじめに考える必要があるんじゃないか。 竹宮先生は、未来を予見されたのではないかと思うんですが、マンガの社会に対するメッセージ性とか、その辺についてお話ください。 



竹宮


予見になってしまったことを残念に思っております。 あの時点で、ほんとに人間の営みっていうものを考えると、こうなることは割とわかっていたんじゃないかなと思うんですけれども、それがほんとになってしまったっていうことは、私としては非常に残念です。 あの時に、もし、気づいていれば、また違ったかもしれないんですけれども、私自身は、ほんとにニュースでいろいろ報道されることから、ああいう物語を作っているわけですから、こうなりそうだよ、っていう報道を見て、その先を読んで、こうなるかなという結論を導いているわけですけど、予見してたっていわれるとほんとうに困る。 というか、その予見になってしまったのは、ほんとによくないですよね。 ということは、人間が、やっぱり私が思っていたように先読みできない動物。 あるいは、集団として行動する動物なんだなっていうふうに、どうしても思えてしまいます。 集団の恐ろしさっていうのをある種「地球へ…」では描いたつもりなんですね。 自然破壊の問題を描いたのではなく、集団がつくる価値観が恐ろしいよっていうことを言いたかったんです。 


今、ヘイトスピーチの問題であるとか、いろいろありますよね。 集団がつくる価値観みたいなものが、イスラム国の問題でもあるかと思いますが、事実上ある。 マンガっていうのも、実は、それをよい結果をもたらしているという形でできあがっているコミュニティーだと思うんですね。 ですけれども、ほんとに、一度間違うと恐ろしいことになるのがマンガだと思います。 「オウム」もマンガを使っていました。 そういうところがあるものですから、学生には、「諸刃の剣だ」ということを常に言って教えているんですけど。 



大泉 伝 (海洋研究開発機構)


マンガはヒットすると次にはアニメになると思うんですね。 描いていらっしゃる方は、マンガからまず読んでほしいものですか、それともアニメを見てからからマンガでもいいかなと思うものでしょうか。 というのは、マンガは、やっぱり行間があって、そこにこっちがすごい自由に読めるというのがあるように思うんです。 アニメから入ると、その行間が埋まっちゃってるような気がするんですよね。 世界で、留学生の友だちなんかに聞くとアニメから入ってる人が結構多いので、そういう人は、損してるなと個人的に思ってたんですけど、描いてる側としてはどう思っているのでしょう。 



竹宮


私は、「地球へ…」がアニメになると聞いた時、1時間半でおさめられるものではないと思ったので、割といやいやというか承知したんです。 まだ、話が終了してもいなかったので、悩みながら許諾したんですけれども、こうなった上は、アニメがいいか、マンガがいいか、お互いに競争しましょうと、オープンに言いました。 そういうふうに言ったおかげで、アニメから入ったけれどもマンガも読むっていう人がたくさん出てくれた。 アニメっていうのは、子どもたちにとっては、易しい、入りやすいですから、そこから、入ってきた小学生がとても多かったんですね。 高学年ぐらいなので、そこからマンガを読み始めて、私のさまざまなマンガも読んでくれるようになりました。 これは、アニメという窓口がなければ、なかったことではないかと思います。 


「地球へ…」は、非常に難しい、一番表現が難しくなっていた時期のマンガなので、いきなり「地球へ…」から入るとですね、「難しすぎて読みきれませんでした」っていう読者もいますので、今は、全てのマンガが十分なページ数をとって描かれてますから、「地球へ…」の時みたいにぎゅっと詰まってないんですね。 あれ、たった5巻しかないんですけど、5巻で描けるような話では本来ないので、ものすごくコンパクトにする工夫をたくさんしてあの形になっているので、それを読み解くにはすごくリテラシーがいるだろうと思います。 ですから、アニメから入ってきて、話を知っている上で、読み解いてくれるんであればいいかなっていうふうに思ってますね



村瀬 雅俊 (京都大学基礎物理学研究所准教授)


マンガの極意は、禅の極意と同じだなと。 それで、もう一つは、マンガの極意は、ほかの言語でもできるはずで、言語を使って、マンガの極意をトライするんですね。 そうすると、一つの文章だけど、無限の読み方ができるから、無限を表現するっていうことを間接的にできるようになる。 実は、生命とは何かとかを一生懸命考えているんですが、それは、分析していってできる科学ではなくて、表現するんだけど、その表現は、そのまま生命と言えない。 でも、それを読み解く時に、いろんな読み方ができて、実は、これが全体性だ、これが生命だっていう読まれ方ができるというような文章を脱稿したんですけれども、これ、マンガと同じかなと。 


さっき、マンガは芸術だっておっしゃった方がいましたが、まさにそうだと思っていて。 で、文学とマンガはまったく同じだなと。 文学もまさにマンガの極意と同じことをやっていて、単に時間と空間のスケールを圧縮しただけで、その本質には宗教も技も、ありとあらゆるものが凝縮されていて、同じかなっていうふうに思います。 



山極


どうもありがとうございます。 今まで議論があったように、マンガというのは、絵画的でもあり文学の要素もあり、未だに位置づけがはっきりしない、非常に奥行きの深いものだと思います。 これから、ワールドカフェでやっていただく議論も、実は、この表題の通り世界言語としてのマンガが、これからどうなっていくのかってことと同時に、マンガを私たちは、これからの生活や国際性の中にどういうふうに利用できるのか。 もちろん教育も入るでしょうし、経営哲学も入るでしょうし、いろんな形で利用方法があると思うんですが、それを議論していけば面白いものが出てくると思います。 では、引き続きワールドカフェで活発な議論をお願い致します。 






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