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第3回クオリアAGORA 2015/アメリカ映画からみる~



 


 

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第3回クオリアAGORA 2015/アメリカ映画からみる"アメリカ"という国/日時:平成27年9月24日(木)18:00~21:00/場所:京都大学楽友会館会議場-食堂/スピーチ:村田晃嗣(同志社大学学長)/【スピーチの概要】大衆文化としてのアメリカ映画が、近現代の社会や政治をどのように描き、映画を利用してきたか。 アメリカの影響を強く受けてきた戦後の日本、第3回はスピーカーに映画が大好きな国際政治学者の村田晃嗣同大学長、ディスカッサントには自らジャズを演奏する岡田暁生京大教授を迎え、戦後70年を機にアメリ映画を通じて「アメリカ」を検証しながら、これからの日米関係をどう築くかを考えてみたいと思います。 /【略歴】村田晃嗣(同志社大学学長)1964年神戸市まれ。 87年同志社大学法学部卒業。 95年同大学院法学研究科博士課程修了。 91~95年米国ジョージ・ワシントン大学留学。 政治学博士。 広島大学総合科学部助教授、同志社大学法学部助教授などを経て2005年教授。 13年から学長。 アメリカ学会清水博賞・サントリー学芸賞などを受賞。 




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長谷川 和子(京都クオリア研究所取締役)


戦後70年、日本は、アメリカと最も緊密な関係を構築することにより、今は世界第3位となりましたが、経済大国へと成長しました。 先の国会では「安保法制」が成立し、アメリカとの関係はどう変わるのか、が気になる所です。 そんな中、「アメリア映画からみる『アメリカ』という国」ということで、アメリカの大衆文化を中心に、アメリカはどんな国なのかを考えてみたい。 映画やジャズなどを通じて、もう一度アメリカという国を見つめなおし、どのような日米関係を築いたらいいかを考える機会になればと、きょうのクオリアAGORAのテーマにしました。 


では、まず、同志社大学の学長村田晃嗣さんから、映画から見るアメリカの政治や大統領、そして日本との比較などについてお話をしていただこうと思います。 



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スピーチ 「アメリア映画からみる『アメリカ』という国」


同志社大学学長 村田 晃嗣さん

同志社大学学長
村田 晃嗣さん


ただいまご紹介いただきました村田でございます。 大した話はできませんで、話題提供ということでご容赦いただきたいと思いますけれども、アメリカの映画と政治のお話であります。 


数年前、スティーブン・スピルバーグ監督の大作で「リンカーン(Lincoln)」が公開されて、日本でも話題を呼んだことは、これ、みなさんもご記憶だと思います。 ダニエル・デイ=ルイスという俳優が長身のリンカーンを演じて3回目のアカデミー主演男優賞を取りました。 アカデミーの主演男優賞を3回取ったのは彼が初めてなんですけれども…。 この時に、「リンカーン」とですね、もう一つ、注目された作品がありまして、これは、ご存じの方は少ないかもしれませんが、クエンティン・タランティーノっていう、非常にバイオレントな映画を撮る監督がいまして、「ジャンゴ 繫がれざる者( Django Unchained)」という作品を撮ったんです。 これは、南北戦争前の黒人奴隷の物語でありました。 


私が何を言いたいかというとですね、アメリカの映画、まあ、ハリウッドと一言で言いましょう。 ハリウッドだけがアメリカの映画では、もちろんないんですが、ハリウッドは、しばしばですね、第二次世界大戦とナチスについて描いてきたんですね。 だけれども、南北戦争前の黒人奴隷の悲惨みたいなことについては、それほど正面切って描くことはなかった。 カリカチュアとしての黒人ってのは、もちろん映画の中に登場しましたが、黒人奴隷制度というものが、どれほどブルータルで、ですね、反文明的なものであったかということを正面から描くことはなかったと思うんですね。 ある意味で、20世紀における最大の野蛮がナチズムだったとするならば、19世紀における人類の最大の野蛮はアメリカにおける奴隷制であったと言っていい。 アメリカは、20世紀最大の野蛮であるナチズムは盛んに描きましたけれども、19世紀最大の野蛮である自らの黒人奴隷制の問題については、それほど正面から描くことはなかったわけです。 けれども、この二つの映画は、ようやくアメリカが、黒人奴隷制の野蛮みたいなものに、今、向きあおうとしているということを示しているのではないかと思います。 


それから、スピルバーグは、ですね、「シンドラーのリスト(Schindler's List)」を撮ったわけですね。 彼自身もジューイッシュですけれども、ナチズムの野蛮を描いた監督が、今度は、黒人奴隷問題を解決しようとしたリンカーンを描いているというわけなんです。 当然のことなんですけれども、じゃあ、なぜ、スピルバーグはこの時期にリンカーンを選んだか? この映画は、アメリカでは2012年に公開され、日本では13年だったと思いますけれども、12年というのは、言うまでもなく、アメリカの大統領選挙の年であったわけです。 で、この時期に、スピルバーグがリンカーンを描くっていうことはですね、実に、南北戦争の勃発から100年後に生まれた黒人が大統領である、と。 バラク・オバマ大統領ですが、1961年の生まれですから、南北戦争のちょうど100年後に生まれた人物です。 その人が今やアメリカの大統領になっていて、12年には再選をかけて戦っていたわけですね。 オバマの支持率は下がっていて、「リーダーシップが弱い」と、ま、今でもいわれていますけれども、当時も言われていたわけですが、この時期に、スピルバーグが「リンカーン」を作るということは、オバマに対するエールだったというふうに言っていいんだろうと思うんですね。 そのように、実はハリウッドは、しばしば、直接間接に政治的なメッセージを送り、あるいは、政治に影響力を与えようとしてきたわけであります。 


逆に、政治はハリウッドに影響力を及ぼし、あるいは、ハリウッドに干渉(interfere)しようとしてきたことも、何度も何度もあるわけなんですね。 その最も顕著なものっていうか、どなたでもご存知のものは、1940年代の末から50年代の半ばぐらいまで続いたいわゆる「赤狩り」。 マッカーシーという上院議員が後には登場してきて、「マッカーシズム」とも言われますけれども、共産主義のシンパがアメリカ社会の各層に浸透しているというので、共産主義者であるとか、あるいは共産主義のシンパであるということで、いろんな人たちが議会に呼び出され、証言を拒否すると、「議会侮辱罪」などで逮捕されたりして、自らの社会的キャリアを抹殺されていったのですね。 こうして、多くの人がこの「赤狩り」の被害に遭ったんですけれども、ハリウッドもこの被害に遭ってるわけですね。 多くの監督ととりわけ、赤狩りの被害に遭ったのは脚本家。 思想性が一番高いのは脚本家でありますから。 もちろん、俳優とかもやられています。 


赤狩りの背景については、この場で長々とお話できませんけれども、第二次世界大戦が起こって、アメリカが、最終的に真珠湾によって参戦するまでは、実は、ハリウッドの中では、何とか映画の力を利用して、1日も早くアメリカを第二次世界大戦に参戦させようという動きがずっとあったわけなんですね。 何故かと申しますと、ハリウッドの映画関係の有力者の多くは、ユダヤ系であったからであります。 ヨーロッパで、ユダヤ人が大変な被害に遭っている。 アメリカだけが、この悲劇を救えるというんで、ユダヤ人のプロデューサーやあるいは、映画会社の重役たち、いろんな人たちが働きかけるわけです。 しかし、これ、やり過ぎるとですね、アンチセミティズム(anti-Semitism=反ユダヤ主義)みたいなものを生んで、ユダヤ人に対する差別が増幅されるので、非常に、薄氷を踏むような思いで、しかしながら、何とかアメリカの1日も早い参戦みたいなものを、ハリウッドは誘導しようとしたわけですね。 で、実際に、真珠湾が攻撃されてアメリカが参戦をいたしますと、当然ですけれども、軍部もハリウッドも一体になって、戦意高揚映画をいっぱい作るわけです。 ジョン・フォードのような監督もいっぱい作っていたわけです。 


したがって、アメリカが参戦してからの数年間というのはですね、東部のエスタブリッシュメントっていいますか、ワシントン、ニューヨークのエスタブリッシュメントとハリウッドの有力者たちの利害が一致した時期ですよね。 ともに結束して、ナチズムや日本軍国主義と戦うんだ。 そのために、政治はハリウッドを使うし、ハリウッドも進んで協力するということで利害が一致したわけです。 


ところが、第二次世界大戦が終わりますと、そういうエスタブリッシュメントとハリウッドのcoalition(連合)ってのは崩れてしまうわけです。 むしろ、エスタブリッシュメントの側が恐れたのは、戦意高揚映画で示されたように、映画がいかに政治的な影響力を持っているかということでした。 彼らは、そのことをはっきり知ってしまったわけです。 しかも、戦争中には、ソ連が同盟国でしたから、ソ連を賛美するような映画もたくさん作っているわけでして、一旦、ハリウッドが政治性を帯びて、今度は、共産主義に対してシンパシーを示すような映画を戦後も作り出したら、それがどういう大きな影響を及ぼすのかと、今度は、エスタブリッシュメントの側が、ハリウッドに対してある種の恐怖感を持つ。 そこに、当然ですが、anti-Semitism、ユダヤ人に対する差別意識が重なるというので、それが「赤狩り」」という形でハリウッドを襲うということになって、大きな傷跡を残すことになったわけです。 これは、政治の側が映画=ハリウッドに介入をしていった顕著な例であります。 


それから、これも多くの方が、少なくともタイトルはご存知だと思いますけども、スタンリー・キューブリックという有名な映画監督が作った「博士の異状な愛情(Dr. Strangelove )」っていうSF映画があります。 核戦争になってしまう話です。 これ、1964年に作られた映画です。 この映画と類似の映画が、この時期たくさん作られているんですけど、私が何を言いたいかというと、ご案内のように、西暦が4で割れる年って、アメリカの大統領選挙ですから、1964年も、アメリカの大統領選挙だったんですね。 この年は、現職が「ケネディ暗殺」の後を受けた民主党のジョンソン大統領。 そして、共和党の対抗馬が、バリー・ゴールドウォーターという人で、この人は、アイダホ出身の上院議員でしたけども、極端な保守主義者。 そして、ソ連共産主義と戦うためなら、核兵器使用も辞さないというふうに公言したこともありました。 


1964年に民主党が作ったテレビ広告で、あまりに衝撃的だったので1回きりしか使われなかった有名なのがあります。 お花畑に少女がやってきて、しゃがみこんで、ヒナゲシでしょうか、それを手に取って、花占いで花びらをちぎり始める。 すると、途中からそれが、4、3、2、1、0というカウントダウンの声に変わって、バーンってキノコ雲が出てきてですね、「バリー・ゴールドウォーターに投票するとこうなる」と。 これは、民主党のネガティブキャンペーン。 つまり、ゴールドウォーターなら核戦争をやるというわけですね。 私が、何を言いたいかというと、64年に、「博士の…」はじめ、核戦争ものの映画がたくさん作られたのは、ゴールドウォーターのような極右が大統領になれば、世界核戦争が起こるかもしれない、ということをハリウッドは暗に示すためにこういう映画をたくさん作った。 つまり、大統領選挙にハリウッドは介入しようとしたということになるわけなんです。 この時は、実際、ゴールドウォーターは敗れるわけですから、ハリウッドが成功したかどうかは別にして、意図通りになったわけです。 



ところが、ずっと後ですが、マイケル・ムーアという、彼を、ドキュメンタリー監督と呼ぶ人もいますが、彼が撮るものがドキュメンタリーというかどうか、まあ、ドキュメンタリーとは何かというのは大問題なんですけども、彼を有名にした作品に「華氏911 (Fahrenheit 9/11)」(2004年)というブッシュ政権のイラク戦争を徹頭徹尾こき下ろした映画があります。 これ、なんとカンヌ国際映画祭では最高賞(パルム・ドール)を受賞しますが、カンヌも反ブッシュの思いが強くて、ムーアにグランプリを出したんですね。 この映画も、2004年、大統領選挙の年なんです。 つまり、この映画は、ブッシュの再選を阻止するというはっきりした政治的メッセージを持っていたと思います。 ただ、この時は、失敗してブッシュは再選されるわけですね。 このように、映画=ハリウッドの側が、政治に攻撃を仕掛けるということが度々あって、そういう、日本では考えられないような映画と政治のインターアクションみたいなものが、アメリカではあるということだと思うんですね。 


これには、いくつかの理由があると思うんですが、アメリカの民主主義、あるいは政治の象徴というのは、当然、プレジデント、大統領ということになると思うんですけれども、アメリカの大統領が、今のように絶大な権力を持つ、そして文字通アメリカを代表する存在になるというのはせいぜい、19世紀の末からであるということなんです。 ジョージ・ワシントンとかジェファーソンのような「ファウンディング・ファーザーズ」といわれる偉大な人たちは別にして、その後、アメリカの大統領は必ずしも偉大な人がなるとは想定されていないわけですね。 実際、例えば、われわれ日本人が、普通に名前を上げることのできる19世紀のアメリカの大統領って、リンカーンを除けば、ほとんどいないと思いますね。 タイラーとかですね、ハリソンとか、普通そんな大統領は、日本人は知らないわけですね。 リンカーンだけしか知らない。 何で知っているかというと、アメリカ最大の戦争である南北戦争の時の最高指導者であり、アメリアかの歴史で初めて暗殺された大統領だったから。 


これも、学生にアメリカの政治を教える時にいつも言うんですけれども、合衆国憲法を見れば、それは明らかなのであって、合衆国憲法の第1条は、大統領に関する規定ではなく、議会に関する規定から始まっているわけですね。 つまり、アメリカは、長らく政治というのは議会が行うものであって、大統領というのは、議会が決めた立法をたかだか執行する人物である、というふうに理解されていた。 で、必ずしも、国を代表するような偉人がなる必要があるとは思われていなかったんですね。 


ところが、19世紀の末以降、ドンドン大統領の役割が大きくなっていった。 これには二つの理由があるわけですね。 一つは、国内において行政府が拡大していく。 小さな政府から大きな政府へ。 教育にも社会福祉にも、行政が責任を負わないといけない。 連邦政府のファンクションが大きくなると、行政府の長である大統領のプレゼンスが大きくなる。 これが一つの理由。 二つ目の理由は、アメリカが大国化したから。 19世紀の末には、工業力でイギリスを抜いて世界一の経済大国になり、20世紀は文字通りアメリカの世紀になっていくわけです。 このように、国際政治におけるアメリカのプレゼンスの増大と国内政治における行政府の拡大、これが相まって、大統領というのは、非常にパワフルな存在になっていく。 


実は、その頃に、映画というものが発明されているんですね。 19世紀の末です。 だから、アメリカの大統領が非常にパワフルになった。 これを、歴史学とか政治学では「モダンプレジデンシー」といいますけれども、アメリカでモダンプレジデンシーが誕生した頃に、映画という文化も同時に誕生している。 だから、アメリカの大統領と映画っていうのは、ある意味でツイン=双子の関係にある。 両方ともヒーロー性を求める、そして、両方とも大衆性を求める、両方ともイメージの操作を必要とする―という意味で、アメリカの大統領に代表されるような民主主義と映画という大衆文化の親和性というのは、非常に高いということだと思うんです。 


これも、ご存じの方も多いと思いますが、映画評論家といいますかあるいは映画史家といったほうがいいかもしれませんが、四方田犬彦さんの表現を借りると「19世紀が植民地主義とオペラと小説の時代であったとすれば、20世紀は、ファシズムと精神分析と映画の時代であった」と。 ファシズム、精神分析、映画の三つに共通するのはイメージ、シンボル及びその操作ということで、映画と民主主義は、そういう意味でも共通している。 じゃあ、われわれが生きている21世紀は、どうなるのか。 21世紀については、四方田さんは語ってくれておりませんが、フランスの経済学者でダニエル・コーエンという人が、「21世紀のグローバリゼーションは、シリコンバレー発のテクノロジーとウオール街発のガバナンス規範と、そしてハリウッド発の映画によるものである」と言っています。 つまり、21世紀も引き続き、ハリウッド映画が大きな影響力を持つんじゃないかということなんです。 


ハリウッドの映画が、大統領をどう描いてきたかということについて、少しお話を申し上げて私の話題提供を終えたいと思います。 「映画に登場する実在の大統領ベスト10」という表があるのですが、ダントツに描かれたのはリンカーンなんですね。 続いてジョージ・ワシントン、その次がフランクリン・ローズベルト、ジョン・F・ケネディという順でいわゆる偉大なとされている大統領たちが描かれてきているわけですが、若干の例外があるものの、今日のオバマに至るまで実在のほとんどの大統領が、映画の中で何らかの形で描かれてきている。 それほど、やっぱり、この実在の大統領というのは、アメリカ映画にとって格好の材料であるということなんであります。 



では、こんどは、フィクションの大統領はどうなのかということなんですね。 実在の大統領だけでなく、架空の大統領も、もちろん映画の中ではたくさん描かれてきたわけです。 こっちの方はある意味でおもしろいんですけれども…。 まずですね、黒人の大統領については、私が知る限りには、もう1970年代の映画で描かれています。 「ザ・マン―大統領の椅子(THE MAN)」(1972年)という映画で、たまたま副大統領になった黒人が、大統領以下が次々倒れてしまって、大統領になる。 そして、これに対して、この黒人大統領を引きずり降ろそうという陰謀が渦巻くという政治映画です。 ま、それを別にしますとね、80年代、90年代にも黒人大統領が登場する映画っていっぱいあるんですけれども、多くのものはですね、例えば巨大惑星が地球にぶつかって来て、地球が滅亡するっていうような時に、モーガン・フリーマンのような黒人俳優が黒人の大統領を演じるというのがございました。 つまりですね、80、90年代のフィクションの黒人大統領が何を意味してたかって言ったら、これは、「非現実のアイコン」なんですね。 地球が滅びるといような非現実の、およそ起こりそうにないSF的な映画の中で黒人の大統領が出てくる。 つまり、これは現実の話じゃない、フィクションなんだよ、というアイコンとして黒人が使われてたわけです。 


しかし、もうすでに2008年には、アメリカの実際の政治は、黒人の大統領を選んでしまいましたから、したがって、もう黒人をそういう非現実の政治のアイコンとして使うことはできなくなった、と。 それ以降も、黒人大統領は描かれていますけれども、そういう非現実的なストーリーというよりは別の文脈で描かれるようになってきた。 女性の大統領も数は少ないけれども描かれている。 ヒラリー・クリントンがもし、来年、大統領に選ばれたならば、それ以降、ハリウッドが女性の大統領をどういうふうに描くかっていうのも非常に興味深いだろうというふうに思います。 


つまりですね、このエスニシティですね。 黒人であるとか、それから、テレビ映画なんかだと、一部ヒスパニックの大統領っていうのが登場してきて、アメリカの、この、エスニックダイバーシティみたいなものが、映画の中のフィクションの大統領に反映している。 今度、女性の大統領が登場してきたりすると、ジェンダーダイバーシティみたいなものをおそらく映画は描こうとすると思うんですね。 


もう、黒人も描かれてしまったし、女性の大統領を描くことにもそれほど新規性がないとするならば、これから、どういうフィクションの大統領をアメリカの映画が選んで描こうとするかっていうことは、アメリカの社会的変化のトレンドというものを考える上でも興味深いことではないかというふうに思います。 場合によっては、もう女性では面白くないので、性的マイノリティーのですね、レズビアンやゲイの大統領が描かれるかもしれないし、もう、ヒスパニックというだけでは面白くないとするならば、今度は、プエルトリカンであるとかキューバンとかですね、特定のエスニシティに結びつけた大統領が選ばれるかもしれない。 そういう、映画の中でのフィクションの大統領の描かれ方に、アメリカの社会トレンドっていうものがある程度反映もされているし、映画から、それを読み解くこともできるのではないかということなんです。 


今、アメリカの映画と政治、大統領と映画のお話を駆け足で、若干エピソード的なことで申しあげたのですが、最終的には、言うまでもなく1980年代にロナルド・レーガンという人物が大統領になってしまうわけでありまして、ここに映画と政治の融合は頂点に達するわけであります。 


さて、最後に、私の好きな映画なんですが、ロバート・ゼメキスという監督が作った「バック・トゥ・ザ・フューチャー(Back to the Future)」という映画がございます。 これ、なかなか見方によってはおもしろいんです。 この映画、タイムマシーンに乗って未来や過去を行き来する物語ですが、1985年に作られた第1作は、85年のアメリカからタイムマシーンに乗って主人公の高校生が55年のアメリカに行き着き、そのころの大人に会う設定です。 主人公は、「85年から来た」というのですが、もちろん大人は信じません。 それでも、「わかった、わかった。 じゃあ、その時代の大統領は誰か言ってみろ」と聞くんですね。 主人公は、自信満々で「ロナルド・レーガンだよ」と答えます。 大人はびっくりします。 当時、レーガンは、映画で売れなくなってテレビの司会業をやっている。 そんな人物が大統領になるなんてとても信じられないわけです。 この映画にはもう一つエピソードがあって、55年の若者たちがたむろするカフェテリアみたいなところで黒人の若者が清掃の仕事をしている。 この若者は非常に熱心で、お金をためカレッジに行って将来は政治家になりたいと言っている。 それを聞いた同年代の白人たちはそんなことはありえないことと思っているので、「まあがんばれ」と口では言うものの、まったく相手にしていない。 ところが、30年後、85年のその街では、この黒人の青年がメイヤーになっているわけですね。 実際に、85年のアメリカには多くの黒人のメイヤーがいたわけです。 若干ですけどコングレスマン(下院議員)もいました。 上院議員は、まだいませんでしたが。 


「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のパート2は、今度は85年から、2015年の未来に行き着くわけです。 ですから、パート2をご覧になれば、80年代末のハリウッドが、15年をどうイメージしていたかっていうのが手に取るようにわかるわけです。 


それはそれで興味深いのですけれども、今度は、逆にですよ、若者が「2015年から来た」って言った時に、1985年の大人は信じない。 それで「わかった、じゃあ、2015年の大統領は一体だれだ。 言ってみろ」と聞いてきて、未来から来た若者は「バラク・フセイン・オバマだ」と答える。 でも、きっと誰も信じません。 フセインというイスラームのミドルネームを持つアフロアメリカンの男性がアメリカ合衆国の大統領である。 南北戦争から150年目のホワイトハウスの主であるっていうことを、1985年に信じた人はほとんどいないと思います。 さらに、タイムマシーンに乗って、30年先の2045年から誰かが今ここにやってきて、何か言っても、われわれはそれを信じない。 でも、2045年のアメリカの大統領がメキシカンのレズビアンであっても、これは、実は、驚くには当たらない。 それだけのソーシャルチェンジみたいなものが、アメリカの社会では起こっているということだと思うんですね。 


今、アメリカのお話をしたんですけれども、翻ってわが日本。 わが日本の映画が、政治や政治家をどう描いてきたかというのは、アメリカとは大違いと言わざるをえないです。 まず、何と申しましてもね、日本映画も非常に歴史があって、特に1950年代の映画というのは世界的な影響力を持ってたし、それだけのボリュームと質を持っていたと思います。 しかし、少なくとも第二次世界大戦が終わってしばらくするまでは、この国には「不敬罪」というものがございましたから、そもそも、戦前の日本の映画が天皇及び皇室を描くことはまったくできなかったわけです。 政治家を描いてはいけないわけではなかったですけれども、戦前の日本の政治体制からして、政治家を揶揄やからかいの対象として描くことは殆どできなかった。 私の知る限りで、山県有朋とかが、非常に立派な人物として一瞬描かれているとかいうようなことはあるにしても、政治家を映画が正面から描くということは、戦前においては殆ど無かったわけですね。 これは、法律的な問題と同時に、日本の場合は、権威は天皇にあって、権力は政治家にあるというふうに分散している。 これに対してアメリカは、権威と権力が大統領に一元化されているので格好のモチーフになるけれども、日本はこのように分散型なのでもう一つ面白くないということもあります。 


戦後になって、何のタブーもなくなったわけですけれども、それで、天皇や総理大臣が大々的に描けたかといったら、なかなか描けていないんですね。 実は、1960年頃に、新東宝映画の「明治天皇と日露大戦争」など天皇を主役にしたシリーズがあり、嵐寛寿郎が明治天皇役をやったんですけれども、新東宝が何であの時、明治天皇を大々的に選んだかといったら、あれ、テレビスクリーンの拡大なんですね。 シネマスコープというそれまでなかった大スクリーンでやるのだから、登場人物も大物でないといけないというので明治天皇の登場となったわけですね。 それ以外には、天皇を正面から描いているのはなかなか少ない。 まあ、今年、1967年に製作された「日本の一番長い日」がリメークされて、昭和天皇が描かれましたけれども、まあ、天皇が描かれることは非常に少ない。 政治家についても、私が知るかぎりでは、実在の総理大臣を主人公にして正面から描いたものってのは、「小説吉田学校」(1983年)で森繁久彌が吉田茂を演じたのと、10年ほど前の「プライド・運命の瞬間」(1998年)で、戦犯になった東条英機を津川雅彦がやった以外では、総理大臣級の人物が描かれた例はほとんどありません。 


なぜ、日本の映画の中で総理が描かれないかっていうのは、先程もいいましたように、日本の政治システムが分権型ということ。 そして、総理大臣がコロコロ変わる。 それから、アメリカでもそうですけども、リーダーを描きやすい時ってのは、危機の時が一番描きやすいわけですね。 リンカーンみたいに、南北戦争とか暗殺とか、いろいろ描きやすいわけです。 戦後日本の映画が政治家を描きにくい大きな理由として、危機がなかったということもあると思うんです。 フィクションの中でも、総理大臣が大活躍することは少なくて、数少ない例外は、小松左京原作の1970年代の作品「日本沈没」(73年)ですよ。 丹波哲郎がかなり重要な役割をします。 日本が沈没するという究極の危機の時には総理大臣が多少の役割を果たしますけれども、基本的に戦争をしないことを国是に生きてきて、危機のない国においてはですね、SFもサスペンスも総理大臣を主要なプレーヤーとして描きにくいということです。 


ところが、日本の映画も1990年代から若干の変化が起こってきて、総理大臣がややシリアスに登場するものが出てきた。 それは、なぜかと言ったら、90年代以降、日本が危機を発見したからなんですね。 北朝鮮の核攻撃があるかもしれない、北朝鮮のテロがあるかもしれない。 すると「亡国のイージス」(2005年)のように、日本のイージス艦が北朝鮮のテロリストに奪われ、シチュエーションルームで危機に対応する総理大臣が描かれた。 というように、危機を発見するとリーダーが描かれるようになるんだけれども、しかし、アメリカと比べると政治が映画の主要なテーマになるということは、日本の場合はまったくないし、映画が政治に働きかけようと言うようなことも全然ない。 


アメリカの場合、政治家がほとんど俳優のようになっているんですね。 セレブリティーポリティックスっていうか、セレブのような雰囲気とカリスマ性と人気を持たないと、そもそも政治家としても成功しないっていうように、スター性とステーツマンシップが融合しているけれども、日本の場合は、そういうことがないまま、小粒のタレント政治家が輩出してきていて…。 この点でもアメリカとずいぶん違うのではないかと思います。 以上、若干の話題提供ということでお話いたしました。 この辺で終わらせていただきます。 





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