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第7回クオリアAGORA_2013/芸術と科学の共鳴


第7回クオリアAGORA_2013/芸術と科学の共鳴の画像1
きょうのテーマは「芸術と科学の共鳴」ということなんですが、先ほど打ち合わせをしておりましたら、既に、もう、これからどんな共鳴になるのかというほど、ご出席いただく方の間でさまざまな話が出て盛り上がっておりました。

これから、京響指揮者の広上さんはじめ、科学者、音楽学者に、いつものメンバーが加わって第7回のクオリアAGORAを進めて行きたいと思います。 

京都人は、京大の先生などを囲んで話をする所から、いろんなヒントが生まれて、それが仕事に役立ったり、研究のヒントとして残り、そこでいろいろインスパイアーされるということがたくさんあったと思うんですが、それが最近少なくなってきたような気が致します。 「クオリアAGORA」は、まさに、そういう場をつくろうということでありまして、業種、業界を越えていろんな方々が集まって、共通のステージでお話をしましょうということなんですが、きょうは多分、5人の方々が、聴衆の方々を忘れるくらいの討論になり、どんな共鳴が響き渡るのかと期待しております。

 


 

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第7回クオリアAGORA 2013/芸術と科学の共鳴~京響指揮者の広上さんとともに/日時:平成25年11月28日(木)17:00~21:00/場所:京都高度技術研究所10F/スピーチ:広上淳一(京都市交響楽団常任指揮者)、村瀬雅俊(京都大学基礎物理学研究所准教授)/【スピーチの概要】「指揮者に求められるのは人間力」と語る京響常任指揮者の広上淳一氏、音楽と向き合い京響ブランドを高める一方、音楽の枠を超えた人間を育てようと教育現場にも身を置く。 「こころとは何か?」「教育とは何か?」「科学や芸術は社会に対して何を貢献するのか?」など根源的なことが問われている今、生命の意味づけなどで学際的な研究を続ける村瀬雅俊京大准教授とともに芸術と科学の共鳴を考える。 /【略歴】広上淳一(京都市交響楽団常任指揮者)1958年東京生まれ。 83年東京音楽大学卒業、84年第1回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールに優勝、翌85年NHK交響楽団の指揮で日本デビュー。 86年よりヨーロッパの著名オーケストラへの客演を開始、ノールショピング交響楽団、リンブルク交響楽団首席指揮者などを歴任。 国内では日本フィル定期演奏会の正指揮者をつとめ、96年には欧州演奏旅行を指揮。 2006年米国コロンバス交響楽団の音楽監督。 07年サイトウ・キネン・フェスティバル松本、08年小澤征爾の代役で水戸室内管定期演奏会を指揮。 オペラでもシドニー歌劇場におけるヴェルディの「仮面舞踏会」、新国立劇場の「椿姫」などを指揮。 08年より現職。 母校東京音楽大学教授、京都市立芸術大学客員教授として後進の育成に努める。 /村瀬雅俊(京都大学基礎物理学研究所准教授)1957年金沢市生まれ。 82年東京大学薬学部卒業、87年同大学院薬学系研究科卒業(薬学博士)。 東京都老人総合研究所、米国Duke大学医学部、University of California, Davis 数学科を経て現職。 京都大学国際フォーラム「新たな知の統合に向けて」などのシンポジウムを主催。 著書に「歴史としての生命-自己・非自己循環理論の構築」など。 




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クオリアAGORA事務局


それでは、まず、広上さんからスピーチを始めていただきたいと思います。  京響の演奏会は、最近、チケットがなかなか手に入らないというほどの盛況ぶりで喜ばしい限りですが、それは、広上さんの「人間力」によるところが大きく、京響の潜在力が十分に発揮され、今のすばらしいレベルが実現したと聞いております。  では、広上さん、よろしくお願いいたします。 



スピーチ1 「音楽の力~指揮者として考えること」



京都市交響楽団常任指揮者 広上 淳一 氏


実は、私は生まれは東京なんですが、亡くなった父は、大学時代を京都で過ごしております。 両親は、ともに富山の生まれなんですが、父は、東京に行くか京都に行くか迷った末に、どういうわけだか京都が好きで、京都大学を選んだということです。 尤も大学に入った途端に戦争に取られ、当時、大学は3年間ですから戻ってきたら、卒業だったそうです。 子どものころ、しょっちゅう京都に連れてきてもらっておりましたことが、かなり記憶に残っておりまして、父はよほど京都が好きだったのか、晩年に、私が京響を引き受けるよといったら、非常に喜んでおりました。 


私は結構、海外生活が長かったものですから、手応えがあるんですけれども、今こうやって、ご紹介に預かりましたように、京都の誇る京都市交響楽団というのは、世界の水準を十分凌駕しているところまで上り詰めてまいりました。 おかげさまで、この1年間は、ほぼ満席が続いておりまして、まあ、今回は満席にはまだ後40席ほど…、もしここで記録を止めますと常任指揮者の責任ということになりますので、みなさんにもひとつよろしくお願いいたします、とまあ、これは冗談ですが、とにかく、大変多くのお客様にも応援して頂いておりましてうれしい限りです。 きっと、どこかで父も喜んでくれていると思います。 


長く、15年ほど、ヨーロッパに住んで飛び回っている生活から、京都のオーケストラをお引き受けした今現在、海外生活が長かったこともあって、日本のオーケストラで常任指揮をするのは、実は京都が初めてなんです。 日本フィルハーモニーは、もちろん育てていただいたオーケストラのひとつなんですが、まあ、会社でいうとNo.2、No.3というか、常任ではなくて正指揮者で、責任を持たされる場所ではなくて「ともに育ててやってるぞ」みたいなところでございましたし、常任は、日本で京都が初めてだと思っております。 


それで、そのオーケストラが、これだけ躍進した秘密はなんですかとよく聞かれるのですが、実は、なんにもしておりません。 変な言い方でございますが、普通通りです。 その、「広上さんが来て鬼のようなスパルタ教育をやってる」とかあるいは「ものすごい徹底的な練習をして、厳しく相手を糾弾しながら、恐怖政治を行いながらみるみるうちにうまくなった」などといわれておりますけども、こんなことはしておりません。 


オーケストラとしてのあり方は、19世紀から20世紀の前半までは事実そういうこともありましたし、まだユニオンという概念がございませんでしたので、例えば、ロシアの名匠ムラヴィンスキー先生、あるいは、オーストリア生まれのカラヤン先生のころからは少し違いますが、その時代のアメリカのフリッツ・ライナー先生には面白いエピソードがあります。 シカゴ交響楽団の優れた常任指揮者だったんですが、このようなながーい指揮棒を持ちましてですね、2ミリほど、とこれは大げさでしょうが、10センチぐらいしか動かさなかったらしいですよ。 新人イビリ、今では訴えられますが、新人が入ると必ず見えないように指揮をしながら、1拍でもずれるとジーっと睨みつけていたんだそうですね。 「ティル・オイレン・シュピーゲル」-ホルンのポッポポッポーというやつをこうやって指揮しては、ニヤーっとして新人をビビらせていたのですが、ある時、シカゴの音楽大学を出た20歳前後のホルン奏者が完璧に吹いたんですね。


新人が完璧に吹くというのは、老匠にとっては非常に不愉快らしいですね。 指揮棒のビートが、どんどん小さくなっていくもんだから、完璧に吹くと言っても、どうしても早くなっていく。 それで、「マエストロ、すいませんが、見えないので、もう少し大きく振っていただけませんか」。 ところが、先生は全く無視して続ける。 その日はそれで終わり。 2日目も変わらない。 それで、次の日、その新人は、何をしても無駄と思ったんでしょう、望遠鏡を覗きながら吹いたそうなんです、完璧に。 すると、ライナー先生は、小さな紙を指揮棒につけ振ったといいます。 そこには「お前は馘首だ」と書いてあったそうです。 


まあ、この真偽のほどはわかりませんが、そんな恐怖政治の時代があったということで、そういう時代から比べると、私たちの時代というのは、決してそんなことをしてオーケストラを鍛えることはありません。 実際、私が常任指揮者をやって、そんな練習は1回も行っておりません。 


広上さんのスピーチ1

楽譜というのは料理人でいえばレシピです。 このレシピ=楽譜というものから、音楽家、オーケストラのメンバーが、ひとり一人違う楽器で実際の音に作りなおして、聴衆の方々に料理として届けるというのが、合奏団の使命でございます。 合奏団、オーケストラは大体80人から100人。 大きい編成のもので120、130人というのもありますが、われわれは通常やっているオーケストラは、60人がステージ上に乗っています。 60人が揃いますとかなり大きなオーケストラの作品になってきますが、ひとり一人が持っている楽器というのは、その料理の、中国料理であったり、日本料理であったり、それからイタリア料理であったり、料理と音楽、共通概念という意味で同じなんだけども、味付けがちょっと違う。 それを作るための技術、楽器で音が違い、奏法が違うということは料理の仕方が違うということなんですけれども、シェフという仕事の分野では全く同じだということになります。


ということは、イタリア料理であろうとフレンチだろうと中華だろうと、目的は、できあがった料理を多くのお客様に、よろこんで満喫して食べてもらうということですから、その考え方でいきますと、われわれ音楽家というのは、レシピ=楽譜から音を起こして、そこに来ていただいた聴衆に喜んでその時間を楽しんでいただいて帰ってもらうのが仕事だと解釈しているわけです。 従って、それぞれの楽器を持っている音楽家というのは、指揮者の下僕でもなければ、もちろん昔にあった奴隷でもなければ、部下でもないですね。 指揮者とオーケストラの音楽家とは上司でも部下でもない対等で、人間同士としてひとり一人尊敬する同僚という解釈になります。 あえていいますと、指揮者は指揮台に立ち、プログラムでも一番最初に名前が出て、写真も載りますので、一般の方々からしますと、指揮者によってオーケストラは操られている、動かされているのではないかと解釈されるかもしれませんが、そうではなくて、心と心をどうやってつかむかをまとめ、取り仕切るような役割なのではないかというふうに思っております。 


そういう意味では、今年優勝したプロ野球の楽天。 多くの野球ファンも応援したと思うんですが、今年、日本シリーズまでいって、最後に、もちろん、マー君がスターではありましたけれども、今年の楽天の日本シリーズで優勝までこぎつけた道筋の中には、やはり心と心の、そのチームメートたちのものすごい信頼関係が築き上げられてなければ、優勝という栄冠にたどり着くことはなかったのではないかな、というふうに思っています。 それと、名将の星野監督の中日時代、あるいは阪神時代のアチチュードからしますと、熟練されたといいますか、まあ、非常ににこやかにですね、選手たちを見守るような境地に至る采配ぶりだったんではないかなと思います。 これ、指揮の仕事と似ておりまして、指揮者というのは、実際に音を出さないで身振り手振りで、彼らとともに時間を過ごすわけですけれども、空気を切るわけですが、空振りでございますね。 これ、われわれの世界で、「指揮棒持って棒振り人生」といいますけども、人生を棒に振るというぐらい厳しい仕事といわれておりますが、実際のところは何てことないことであって、どうしてコミュニケーションを捉えていくかということに至るのではないかと思っております。 


ここで、ちょっと、こないだの私たちが演奏しました演奏会の模様で、なかなかいい演奏をしているのがありますので、DVDを御覧ください。 


有難いことにホールも満席でございますが、あの、今のようなライブ感はCDでは味わえない。 どうしても、クッキングを連想してしまうのですけども、ライブというのは、彼らがその場で音を出していますから、その場で料理をしていると思っていただくとわかりやすいと思います。 昂揚して、心も一緒に共に昂揚しながら、指揮者が出す合図というのは「息吹」なんですね。 指揮者はビートを振っていますけれども、実はビートタイムは、遠くの方の人たちまで正確に来るわけではなくて、実際は練習の段階で、曲の道筋というのはかなりの段階まででき上がっています。 要は、本番で、会場にお客様を受け入れて最後の仕上げは、そこでもう一度厨房で料理を作って、そのできあがった物の味をお客様に提供して食べていただき満足していただけるかどうかが勝負です。


音楽会の場合は、演奏している時に、お客様との息吹も一緒にもらい、オーケストラを昂揚させていくという力に実は変わっておりまして。 意外と聴衆の方々は、そこに座っている自分のことを第三者のように思っている人が多いのですが、実は、お客様も一緒に音楽会を作っているというのが実際なんですね。 「うーん美味しい」と言って、食べていただければ、厨房では、どれだけのシェフが喜んでいるか。 それと同じでありまして、演奏中に聴衆から出てくるオーラのというものを、実は指揮台の背中で感じとりながら指揮をしております。 ですから、うまく行っていない時は、何となく「うーん」というお客さんのため息のようなものが聞こえてくるような気がするんですね。 そうすると「ありゃ、きょうは調子が良くないのがバレているようであるな。 何とかしないといけないな」という駆け引きみたいなものを、背中を向けてはおりますが、指揮台の上から感じているというのが私の仕事です。 


広上さんのスピーチ2

今、演奏を聞いていただいたように、有難いことに、みなさんの街のオーケストラは、かなりの水準にまでなっておりまして、海外のいろいろなオーケストラを回った経験から申し上げますと、今の京都市交響楽団というのは、世界のトップレベルに入っております。 後は、私の夢でございますが、この東京でも大阪でもない、日本を代表する古都でございますね。 この京都、海外に行きますと京都という名前のブランドはものすごく、みなさんが想像する以上に高いものがございまして、でも、「灯台下暗し」という言葉がございます。 京都の方は、自分たちの街が海外でそんなに評価されているのか、この街にすんでることがそれほど羨ましがられているのか、意外とあんまりご存じない方が多いように見受けられます。


特に海外に行って、京都のオーケストラで仕事をしているというと、「すばらしい」というリアクションが帰ってくる。 先週も、アメリカに行って京都のことを話したら、「京都はすごいいい街だなあ」というんで「何回か行きましたか」と聞くと「いや、一度もない」と。 いっぱい、テレビなんかで、京都のインフォメーションが流れているんですね。 ヨーロッパでも、京都はウイーンと並び称されるようです。 ウイーンも歴史的には京都と似たところがあり、恐らく、芸術、文化が根付いている街は、歴史的背景が非常に深いんではないかと思っております。 


私、今、大学でも後輩を教えておりまして、指揮者の卵を教える機会がございますが、やはり、これからのリーダーとなる人間は、自分ばかりが優秀であっても、能力が非常に高いものを持っていたとしても、それだけではダメだと思います。 人をまとめる、人を動かすのに何が一番必要なのかということがわかるかどうかがポイントだと思います。 私は、幸か不幸か、全然優秀な人間ではございませんでした。 そりゃ、亡くなった父親のほうがずーっと優秀で、学校の成績も決してよくなかったです。 ラジオ番組でも話しておりますが、私は、タレントの追っかけをやっておりまして、ミュージシャンを志す前の15歳までは、実は桜田淳子さんの追っかけをしていたんです。 同い年でしたからね。 


父親がNHKに就職していました関係で、転勤をさせられるんですね。 単身赴任ではないので、転校もするわけです。 私は、小学校、中学校、それぞれ3回ずつ転校しております。 転校というのは、やっと育んだ友だち関係を無残にも切り裂かれてしまう。 ということは、全く違う環境に移って、ほんとうに自分がそこで受け入れられるのかという新たな不安を持たなければいけないという経験をする。 私は、その経験を数回繰り返しました。 この不安は、思春期になればなるほど増すものでして、今、指揮者をやっている上でよかったなと思うのは、クラスが違う、違う場所の学校に転向する、すると、自分のキャラクターは変わらないのですが、受け入れられることもあれば、拒否されることもあるということを、子ども心に学んだことです。 いじめにもちょこっとあったことがあります。 かと思えば、クラスの人気者になったこともあります。 ちなみに、さっき、タレントの追っかけのことを言いましたが、この動機は、いじめにあって学校に行きたくなくなり、逃げるようにタレントの追っかけを始めたんです。 そんな時期があったんです。 


指揮者の仕事は旅が多いんですね。 ずーっと、1年中京響というわけには行きません。 日本中のオーケストラ、世界中のオーケストラを回ります。 その時、10のオーケストラを回ると、学生には、8割なんて言っていますが、実際のところ5分5分ですね。 10のうち五つぐらいは、どうもうまくいかないとか、少し練習してみるとどうも咬み合わないというところが出てくる。 これは、言葉の壁ではないんですね。 自分は変わっていないが、「ワンダフル」と言ってくれるところと、「うーん、アイドントライク」という反応のところが出てくる。 相手のリアクションが全然違う。 この時、私の転校生の経験が役に立つんです。 一喜一憂しない術を覚えておりまして、諦めず、無理もせず、自然体に任せて、少しでもコミュニケーションをとれる糸口を探すようにやっております。 


では、最後は、私が、母校で後輩を教えているNHKのドキュメンタリーを見てください。 指揮者を志す若者と教育者としての広上淳一を撮ってもらっています。 こういうことをやりながら指揮の学生を育てているのか、指揮の学生はこんな悩みを持っているのかというところをご覧ください。 


時間の関係で、残念ながら途中までで終わりますが、いかがだったでしょうか。 ここから、頼もしい限りですが、2014年から神奈川フィルの常任指揮者になる優秀な若者も育ってきています。 


では、まとめに入ります。 


これ何の世界でも同じだと思いますけれども、人間のクズはどうしようもないです。 クズというのは、例えば、殺人をおかしてみたりとか、凶悪な犯罪とか、人をはめたり、追い詰めたりする、そういう人間としてどうしようもない人のことなんですが、でも、そうじゃない場合、相手の弱点を、弱点じゃないように勇気づけていく力が、実はものすごく能力を引き出す事につながっていくんです。 そういう体験を、何度もしました。 京響のメンバーは、一人として変えておりません。 昔はダメな人間を馘首にして、すぐ優秀な人間を連れてこなくちゃならないという考え方を持った指揮者がいました。 トスカニーニ先生はよく首を切っていたんですね。 


私は、実は野球でも何でもそうなんですが、今年の楽天や高校野球もそうなんですが、みんながチームワークでひとつのものに向かって躍進する姿に感動、感銘を覚えます。 これは何かというと、心のつながりがしっかりできたチームというのは、絶対粘り強くなる。 今年の楽天は、さっきも申し上げましたようにこれがあったんですね。 星野監督が叱咤激励し、スパルタであそこまでいったとは、ぼくは思いません。 


さっきビデオで見ていただいた厳しいレッスンから、学生たちに、何を学んで伝えていってほしいかというと、団員、ミュージシャンひとり一人の力を、どうやってコミュニケーションでもって引き出し、そして勇気づけることができるかです。 「できないんじゃないんだ。 できるんだぞ」。 あるいは、できない生徒にも「お前はできない」とはいわない。 今は、成績は悪いかもしれない、しかし、広上先生を見なさい、2年も浪人し、成績は悪く、学生の時、この学校の大教授も誰も、今の広上先生を想像できなかった、という話を学生たちによくします。 


人間には、プライドと劣等感の両方が存在していると思うんですね。 私は、自分が、決して能力のない人間ではないと自負していますが、その反面コンプレックスも強かった。 でも、ある時期から開き直るようにして、自分はできないけれど一生懸命生きようと思いました。 それから、人が自分より優れている時は、素直に認め、その人から学ぶようにしようと思いました。 人というのは、「活かしてなんぼである」というものの考え方をする。 京響も昔は、聞かせてやっているというのが当たり前の時代がありましたが、今は、来ていただくお客様に感謝して、また来ていただけるように、お見送りをする態度が出るようにまでなりました。 ぼくは、人というのは、「心」で動かされていくものだと思っています。 これは、音楽に限らず、どんな世界でもそうで、人間というのは、心のつながりの中でより頭脳も発展していくものだと思います。 今は、能力がどんどん追求されていますが、これからは、心をもう少し開拓する考え方を広めていく必要があると思います。 能力がいくら高くなっても、それをなんのために活かすのか。 医者の世界、音楽の世界、学問の世界もそうでしょう。 実は人間の心というのを学ぶために、我々というのは普段努力しているのではないか。 人の幸せを願うために学問をする、人の命を救うために医学を勉強する、私たちは、命は救えませんが、心を癒やす仕事はできるのではないか。 そんな思いで音楽活動を続けていきたいと思っております。 ぜひ、みなさまも、京都コンサートホールに足をお運びいただきたいと思います。 ご静聴ありがとうございました。 





クオリアAGORA事務局


どうも先生有り難うございました。 残り40席とおっしゃっていましたが、きょうお話を聞かれた方が行けば、もう満席は間違いなしですね…。 広上先生は、時代劇がお好きと聞きましたが、そこも人間の心の文(あや)とか、参考になることが多いんではないんでしょうか。 では、続きまして、京都大学基礎物理学研究所准教授の村瀬雅俊さんにスピーチをお願いしたいと思います。 村瀬さんは、いろんなジャンルの方々と、どういうふうに統合的に考えていったらいいのかといったシンポジウムを盛んに開かれておりますが、きょうは標題の「芸術と科学の共鳴」というテーマでスピーチをしていただきます。 



スピーチ2 「芸術と科学の共鳴-統合知の観点から-」

≪村瀬教授 資料ダウンロード (30MB)≫



京都大学基礎物理学研究所准教授 村瀬 雅俊 氏


広上先生、楽しいお話をありがとうございました。 芸術と科学の共鳴というテーマをいただきまして、実は、1カ月、相当悩み続けました。 まず、画面を見てください。 トルストイが映っておりますが、彼は「学校で教えられること 教えられないこと」があると言っております。 例えば「音楽演奏はそれが芸術であるときのみ感染する」と言うのです。 この「感染」というのは興味深い言葉です。 トルストイは、さらに続けて「感染はいとも簡単に引き起こされているように思われるが、演奏者が限りなく小さなきっかけを見つけるその瞬間にしか生じない。 このきっかけを外的形象によって教えることはできない。 それは、感覚に身をゆだねるときにのみ見いだされるからである」と述べています。 つまり、感染の瞬間は教えたくても教えられないと結論づけています。 この写真(資料)は、三羽の鳥が見事なバランスで飛んでいる投稿者の写真ですが、一瞬でもずれるとこうはなりません。 トルストイは、「一本の筆を動かしただけで、死んでいた絵が生き返る」と絵画について述べています。 この写真、まさに自然が描いた絵であり、この感動を引き起こす力が感染力です。 



学校で教えられること教えられないこと



きょうは、実は「進化」をみなさんに体験していただきたいと思っています(スライド3)。 「進化を体験する」というそのこころは、過去を現在に保存すること。 そして、それが「感染」の瞬間を理解する手がかりにならないか、ということをお伝えしたいのです。 後で実際に体験していただくのですが、まず、わかる、認識するというのは頭でするものだとすぐに思うかもしれません。 実は、体も認識するのです。 例えば、免疫系があります。 私たちは、人工の化学物質であっても新しいインフルエンザウイルスであっても、それを認識して記憶することができます。 これは、頭が機能しているわけではありません。 免疫系は病原体に出会った時に備えて、いろいろな細胞をあらかじめ作っておきます。 たまたま、その病原体に対処できるような細胞があれば、その細胞が増殖します。 これが、私たちが病気にかからない秘訣です。 これは頭を使わない体の知恵、体の認識です。 この身体の認識についてもう少し考えてみましょう。 というのも、こうした考察から、私たちが外界を認識するということは、どういうことかが見えてきますから。 



スライド3



免疫系による病原体の認識というのは、私たちの体の中に病原体のイメージがあらかじめ存在しない限り、その病原体を認識することはできないということがわかります。 この免疫理論を作ったのは、オーストラリアの免疫学者バーネットです(スライド4)。 この業績で、彼は後にノーベル賞を受賞します。 ここで考えてください。 免疫系があらかじめ病原体の情報を持っているから、病原体がわかる。 だったら、バーネットは、この理論を作る時には、その理論を前もって知っていなきゃいけないですね。 言っている意味がわかりますか? 新理論を作るときは、自分があらかじめその理論についての知識を持ってなきゃいけない。 じゃあ、それはどんな知識なのだろう。 



スライド4



それがダーウインの進化論です。 バーネットが免疫理論を発表する100年も前のことです。 ダーウインは、生物個体にはいろいろな変異個体があり、その変異個体の中で環境に適合した生物個体が、子孫をたくさん残すと主張して進化論を提唱しました。 ダーウインが描いた進化系統樹をこの図(スライド5)で示しています。 この系統樹ですが、時間軸をひっくり返し、スケールを小さくすると、先ほどのバーネットが示した免疫理論の細胞系譜の図とそっくりになります。 つまり、一方では私たちの「外」の世界で数十億年かけて起こってきた進化があり、また他方では私たちの体の「内」の世界で日常的に起こっている進化があるのです。 私たちは「外」の世界でも「内」の世界でも、進化を体験しているのです。 



スライド5



そうすると、次の疑問が出てきます。 ダーウインが進化論を作ったということは、ダーウインはあらかじめこの理論を知っていなきゃならないですね。 実は知っていたのです。 どのようにして? ダーウインは、栽培植物や飼育動物などが実験レベルでいろいろ変異が起こっているのを知っていました。 これを「人為選択」といいます。 同じことが自然でも起こると考えて、ダーウインは「自然選択」と命名したのです。 


この「外」の世界で起こっている進化(巨視的なレベルで起こっている進化)のメカニズムが、私たちの体の「内」の世界で起こる進化のメカニズムと同じである、ということを発見したバーネットも偉かった。 湯川秀樹は、こうした思考方法のことを同定(注:アナロジーやアブダクションのこと)と言っているのです。 つまり、同定とは全然違うものが、同じメカニズムで働いているということに気づくことです。 この気づきの瞬間というのは、何か、トルストイの言う「感染」に似ていませんか。 これは、音楽でいうと「転調」と言えます。 同じモチーフなのだけれど、違った形で現れてくる。 今、みなさんの前で私が試みていることは、「科学を題材に使って科学物語を演奏しよう」としているのですが…。 


じゃあ、どういうことが次に起こるか。 このモチーフ、実は、あっ、しくじったというモチーフもあるはずです(スライド6)。 それが、免疫系が働く前に病原体が勝手に増殖しちゃった。 熱出して病気になってしまった。 それはウイルスが増殖しているから。 つまりウイルスレベルの進化です。 あるいは、神経細胞の中で異常分子が増殖して、それによって神経細胞が死んでしまう。 アルツハイマー病ですね。 同じモチーフが違った形で転調していく。 こうした状況はすべて、先の図(スライド4)が、「反転」あるいは「否定」された状況、つまり、免疫系が失敗した状況に対応しています。 こうした展開こそ、実は芸術になっていく。 



スライド6



同じように、この図(スライド7)、がんの理論です。 バーネットが免疫理論を発表してから四半世紀経った1976年に提唱されました。 先の免疫系では、自己の細胞が変異することで、非自己である病原体が認識できるようになったわけです。 それを「反転」あるいは「否定」してみる。 すると、自分の体の中の分子に対して、勝手に正常細胞が異常化して増殖していくという状況も考えることができます。 同じモチーフなのですが、これは、がんになっちゃう。 頭で考えられることは、どこかに現実の現象があるのです。 そして、みなさんは、意識していないけれども、進化が現実に身体の「内」の世界で起こっているのです。 ウイルスに感染して風邪をひくと、熱が出て気分が悪くなります。 その後、回復して治っていく。 そういう体験全部が進化です。 



スライド7



単一のモチーフが、増殖して分化して、知識があたかも生き物のように変容していく。 私の講演では、スライドが次々と、次は何かなと期待させながら、出てくる。 それが実は進化。 今、伝えられないようなことを、お伝えしようとしているのです。 「進化を体験する」(スライド8)をご覧下さい。 今見たことは何か。 マクロの世界で起こること―大きな進化、ミクロの世界で起こること―体の内の小さな進化は同じ原理に基づいていた。 そこで、心で起こる、わかるっていうのも実は進化じゃないか。 逆に言えば、進化が「内」でも「外」でも起こっているがために、進化を許容するような心、つまり何が起こっても動じないような心がなければ自然なんて理解できない。 ですから、心によって現象のイメージが作られることが可能な時、その時はじめて現象が現実のものになるのだということです。 これができる時っていうのは、実は、あたかも対象が構成されるのと同じように、メタ(超、高次な)自己が構成され、自己知(注:自分のことがわかる知恵)が深まります。 つまり、対象がわかるようになればなるほど、自分のこともよく分かるようになっていきます。 (これについては、後でまた触れます。 )



スライド8



このような、理解の爆発的な展開こそ、トルストイのいう「感染」なのです。 このプロセスを、何とか捉えてみたいのです。 進化の本質を体験する、感情の変革を体験する―感情の変革というのは、実際に風邪をひくと感情は変わりますが、風邪をひかなくても、サイエンスの醍醐味を聞いて心が変わり、あるいは、心が変わって行動が変わるような、そういう体験を共有できないだろうか。 こういうことを、言葉で、学問でやって来た人たちがいます。 彼らを画面(スライド9)に映してみます。 まだまだ、他にもたくさんいますが…。 実は、西田哲学の「場所の論理」における「場所」というのは芸術をさしているのです。 国や時代が違っても同じような考え方に行き着くのはなぜか?こういう問いに対して、ユングは「心の中に元型(注:動物の本能に対応)があるのじゃないか」と考えた。 一方で、「つくられる」というのを、ピアジェは構造主義によって理解しようとした。 鈴木大拙は「余計な意識が邪魔をしておるのだ。 無心になれ」と禅仏教を説いた。 それでは、物理学ではどんなふうに考えてきたか。 



スライド9



パー・バック、若くして亡くなってすごく残念なのですが、「砂山のモデル」を提唱した。 砂粒を落とし続けます。 一定のスピードで落としていくと山が作られていき、やがて崩れます。 それでも構わず落とし続けるとまた山になり、そして崩れるということを繰り返します。 このモデルを頭のなかで90度回転してみましょう。 横から、砂粒が動いてくる。 それによって崩壊と回復が繰り返される。 これは地震のモデルです。 大きな地震は1000年に1度、小さな地震は頻繁に起こりますが、砂山も同じで、大きな崩れは長時間の間隔を経て起こり、小さな崩壊は頻繁に起こるという相関が見えてくる。 しかも、システムを作るメカニズムが、実はシステムを壊している。 全く対立する現象が同じメカニズムで引き起こされているということを示しています。 さらに、重要なことは「いつ大規模な崩壊が起こるか」が予測できないのです。 後でも述べますが、それがカオスの特徴です。 つまり、システムは非常に単純なのに、その振る舞いは極めて複雑です。 というのは、システムは法則性に支配されているのに、その挙動には法則性が見られないからです。 こうしたカオスの問題に、物質と生命、東洋と西洋の接点を解く鍵が隠されているのかもしれません。 


シャルル・リシェ、この人もノーベル賞をもらっています。 彼は、こんなことを言っています。 安定性とは全然動かない不動の状態をいうのではない。 生命は、瞬時に刻々と変わっている、この状態が安定である。 ですから砂山も常時形を変えています。 あれが安定なのです。 じゃあ、柵を作って砂を崩れないようにしたらどうなるでしょう。 柵を作りますね。 確かに、崩れにくくなりますが、結局、崩壊が起こってしまう。 長い時間スケールで見ると、柵はあまり役に立たない。 


ここに載せている砂山の図(スライド9)は、実は、神戸大学の精神医学の中井久夫先生が、心の病が発症する瞬間を、砂山が崩れるモデルで表現しようとしたものです。 パー・バックさんと中井先生は、全然コンタクトがないのに、全く独立に、異分野の先生が同じモデルを頭のなかで考えた。 (ユングは、こうした現象を共時性として捉えていた。 )一つは物理システムのモデルで、他方は、心の病む瞬間のモデルです。 このことは、トルストイのいう「感染」の瞬間と例えられるかもしれません。 一気に伝わる瞬間を、こういう崩壊現象によって表現でできるのではないか。 ですから、トルストイは学校で教えられないことと言っているが、実は教えられそうな気がしているのです(注:京都大学全学共通講義で、必死になって伝えようとしています)。 まあ、それ、ぬか喜びかもしれませんが…。 これまでのお話の中で、「過去を現在に保存すること」イコール「進化」と言ってきました。 実は、このスライドの中にいろんな人(スライド9)が、出てきています。 過去をこのスライド1枚に保存しています。 それによって、みなさんの理解が深くなる。 これが進化です。 認識は進化です。 


ロラン・バルトは、物語の構造分析を行いました。 彼は「物語を理解することは、単に物語の展開を追うことではない」と言っています(スライド10)。 「物語を理解する」ということは「物語の階層を認めることであって、物語の筋の横の連鎖を暗黙の縦の軸に投影すること。 物語の現実性というのは、構成される論理にある」というわけです。 音楽でも同じことだと思います。 単に聴いているだけじゃないのです。 新しい軸(新しい次元)を構成している。 ちょっと難しいですが、これが時間軸で、いろいろな音だったり、フレーズだったり、私たちが体験しているのですが、順序はあまり意味がない。 それより全体をどう捉えるかが、この縦の軸、これがバルトのいう縦軸に相当するのではないかと思っていて、その時に意味付けができる。 一つ前のこのスライド(スライド9)で試みたことは、いろいろな過去の事象をスライド1枚に保存したことです。 そのプロセスが、この図(スライド10)に対応している。 これが認識の発展段階、つまり進化です。 



スライド10



そうすると、ダーウインが進化論を思いついたというのは、二重の意味で進化です。 こちらの図(スライド11)の中では、二重の意味で過去が現在に保存された一つの絵になっています。 右側の図が、進化の系統樹。 もう一つは、それまで独立にバラバラな生物種として存在すると思われていたものが、どれもお互いに関係しあう生物種として位置づけることができた、それが横の時間軸です。 これも進化。 でも、こっちは実は認識。 進化を理解するには、認識を飛躍させていくしかないということです。 認識とは進化である。 この移行の瞬間というのが、実は、芸術の「感染」の瞬間ということです。 これ見ていただいて、「客体の理解を通して主体の理解が深まる」と書いています。 (前にも、この点に触れました。 )本当か?実は、本当です。 この絵とこの絵は同じ絵なのです。 )右側の絵を見た時は、いきなり違和感をおぼえますが、左側の絵は、単に右側の絵を反転させているだけです。 何が、本当のモナリザの絵と違うかというと、目と口が逆転しているのです。 さて、今の絵を小学校に行ってお子さんに見せた時、私の方がびっくりしました。 小学生は、見た瞬間に「気持ち悪い」といったのです。 もう種明かし分かっているのと聞くと、「だって、目と口がさかさま」という。 えー、大人はわかんないよ、と。 このように客体を通して、私たち主体のことがわかるのです。 



スライド11



どういうことかというと、こちら(スライド12)ですが、子どもは、2歳から12歳の臨界期と呼ばれる期間に、その地域の言語を習得します。 それまでは、いろいろな単語の連鎖の中で、それを奥行き、ロラン・バルト(先のスライド10)のいう縦軸を作るということに挑戦している。 言語がわかるようになるということは、文法構造が自律的に構成されることに対応している。 これは人から教えてもらって作るのではなくて、自分で作り上げるのです。 同じように、「数」の概念を習得する時というのは、8歳ぐらいまでは、数はバラバラのものだった。 それがある時、一気に「数」の概念として全体性が理解される。 ですから、無限の数を覚えてなくても任意の数を駆使できるのは、「数」の概念を持っているからです。


ここで、さっきの顔の話も、同じように理解できます。 つまり、われわれは、モナリザを含めて一般に顔の概念を持っている。 そのために、細かいところは捨象しちゃっている。 だけど、臨界期の前にある子どもは、細かいところにすぐに反応しちゃって、モナリザの顔が「気持ち悪い」ということになる。 ただ、7歳、8歳を越えちゃうとなかなかそうはならなくなる。 実は、芸術というのは、「その瞬間をいつでも体験させてくれる場」ではないかと思うのです。 なぜ、そういう体験が必要かというと、「客体の理解を通して主体の理解が深まる」からなのです。 



スライド12



このことは、科学でも同じだと思います。 この図(スライド13)は、科学の発展がエンドレスに飛躍的に起こっていく様子を示しています。 それは、子どもが「数」の概念を習得していくのと一緒です。 ピアジェの理論なのですが、子どもの精神発達と科学史が比較研究できるのです。 これはすばらしい創造的な理論だと思いませんか。 1千年、2千年の科学の歴史が、実は子どもの発達過程を調べることで理解できる。 これをクルッと90度回転させると、こういうらせんになり、私のいう自己・非自己循環過程(弁証法的らせん運動)になります。 私たちが通常考えている時間スケールは、この平面の図です(スライド13 右下図)。 でも、実際に飛躍が起こるのは縦軸で、縦軸にこの円錐が広がる瞬間が飛躍です。 



スライド13



話を変えます。 これまで、私たちは、痛みを知覚するというのは脳が外からくるシグナルをただ受け取るだけと思っていました。 ところが、こういう実験があります。 このグラフ(スライド14)は、横軸は時間、縦軸は被験者にランプの輻射熱を当てることで受ける主観的な痛み感覚の強さです。 じっとしているとだんだん熱くなってくる。 もうダメという時、外の人から、いやいやまだ耐えられると言われると、そうかと思って痛み感覚が減っていく。 これはすごいことと思いませんか。 脳は単に体の発する信号を受動的に受け取るだけではないのです。 脳が能動的にも解釈している。 だから音楽を鑑賞するのも、人の話を聞くのもみんなそう。 単に聴き(聞き)流すのではなくて、さっき広上先生がおっしゃったように、観客もその場の芸術を作っている。 これが、飛躍であり、感染ではないか。 



スライド14



心の持ち方で、痛み感覚が変わるということは、このことを、ひっくり返(反転)しましょう。 そうすると、例えば、ジョギングをすると気持ちがよくなります。 これは、脳の中で分泌されるホルモンの量が増えて、神経細胞の活動状態のバランスがよくなるためです。 つまり、心の持ち方で身体の痛み感覚が変わる、逆に、身体の状態で心の状態が変わる。 心身は独立ではないということです。 これが、先にお話しした心身相関です。 


心の持ち方で、痛み感覚が変わるということは、このことを、ひっくり返(反転)しましょう。 そうすると、例えば、ジョギングをすると気持ちがよくなります。 これは、脳の中で分泌されるホルモンの量が増えて、神経細胞の活動状態のバランスがよくなるためです。 つまり、心の持ち方で身体の痛み感覚が変わる、逆に、身体の状態で心の状態が変わる。 心身は独立ではないということです。 これが、先にお話しした心身相関です。 


ここで、次の言葉の意味を考えてみたいと思います。 「対象を理解するのに、対象以外の情報を知る必要がある」。 え~、って思われるかもしれません。 この絵を見た時に、みなさん、何が見えますか。 ここで、私は大事な情報を言っていなかった。 これは隠し絵ですよ、と言います。 すると、たちまちゾウが見える。 トラもサルもサイも見えてきます。 つまり、対象の情報(その情報は、先に免疫系などを例にお話したように、あらかじめ知っていなければならない情報ですが、その情報に)にプラスして、それは何に関する情報か、という第二の情報が加わって初めて対象の理解が深まります。 



スライド15



次は、健康と病気のパラダイム転換(スライド15)。 「これまでは、健康な生命現象を理解するのも困難なのに、病気の理解はさらに困難だ」と考えられてきました。 これは心拍変動(心拍間の間隔の変動)のグラフです。 4人のデータが示されていています。 この中で1人だけ健常者がいます。 どのグラフが健常者のデータかわかりますか。 そうです、2番めです。 見た感じ心拍変動の波形が安定していません。 なぜ、これが健常かというと、不安定な状態こそ瞬時にいろんな状態に変われるからです。 これは、実はカオスです。 (先ほどの砂山の運動を分析すると同じようにカオスが出てきます。 )実は、もともとの心電図の波形がばらついています。 そのバラつきが、カオスなのです。 カオスの特徴としてフラクタル構造があります。 フラクタル構造というのは、部分を拡大しても、全体と相同な形をしている。 例えば、植物の根や枝葉の構造は、それを拡大してみるともとの全体の構造と相同であることに気づきます。 つまり、フラクタルなのです。 「外」の世界もフラクタル、私たちの体の「内」もフラクタルなのです。 これは、株価の変動、地震、あるいは進化と、このギザギザと相同性があるのです。 どれもフラクタルです。 



スライド16



さて、こちらの図(スライド16)を見てください。 感謝している時(appreciation、下)と欲求阻止の時(frustration、上)の心拍変動のデータが出ています。 心の持ち方次第で、見事に心拍変動のパターンが変わってしまいます。 右側は、そのスペクトルです。 感謝の時、周波数は0・12ヘルツ。 10秒足らずの周期の心拍変動パターンのゆらぎ―リズムが出ています。 これは、イライラしている時に、「はい、ここから感謝の気持で」というとすぐに心拍変動のパターン-心の状態が変わるということを示しています。 音楽もこういう効果があります。 だから、音楽療法、音楽、芸術を通した教育は、今後ますます必要になるだろうと思います。 



スライド17



これは、さらに凄いことです。 心臓と脳がシンクロ、つまり共鳴しているというデータ(スライド17)です。 これ(右下の図)は心臓から放出される電磁場です。 磁場と電場があります。 電場は脳が放出する電場の約60倍。 磁場は約5千倍です。 心臓が拍動を繰り返している時、脳波はそれに引き込まれています。 心臓が収縮した時、左の図にあるように脳波はそれに位相を合わせている(注:そのことを引き込みと言います)。 このずれた時に出てくるパルスは、血流が脳に届くのに、0・2秒ぐらいかかることを示しています。 その右の図は、感謝している時とそうでない時で、脳の全体で共鳴している領域が増えているか減っているかを示しています。 一目瞭然ですよね。 感謝の時には、α波の領域が脳全体で広がっています。 心の持ち方で痛みが減少するように、心の持ち方で、脳の活動も変わるのです。 


そうすると、人と人が近寄って行くと影響があるのではないか、ということが考えられます。 実際に、そうなのです。 (スライド18の図10)こちらは、夫婦が寝ている時の心拍変動のグラフです。 呼応しているでしょう。 この場合、2人は接触していません。 離れて並列に寝ているだけです。 これが電磁場による相互作用です。 右下のグラフは、子どもがペットの犬と一緒に遊んでいる時、離ればなれになっている時の心拍変動を示しています。 一緒に遊びはじめた時、心拍変動が呼応していることがわかるでしょう。 先ほど、人と人、心と心のつながりのことを広上先生がおっしゃいました。 実は目に見えないけれども、物理学的にもこういうつながりが無視できないのです。 このような共鳴というのは、音ではよく知られているのですが、電磁場でも共鳴が起こっています。 


次のスライド(スライド19)は、地球の表面とその周りを取り囲む電離層の間に、稲妻がエネルギー源になってつくられた電磁場が定在化している様子を示す模式図です。 その周波数スペクトルを表したのが右下の図です。 ピークがいくつかあるのは、地球の周囲に定在化した電磁場の1次波(1波長で地球を1周、ピーク値は7.83 Hz)、2次波(2波長で地球を1周、ピーク値は14.1 Hz)、3次波(3波長で地球を1周、ピーク値は20.3 Hz)・・・に対応しています。 発見者の名前にちなんで、シューマン共振と呼ばれています。 それらのピークが、ちょうど脳波のθ、α、βに対応した周波数領域の境目に対応しています。 何がいいたいかというと、この真ん中のグラフを見比べてみましょう。 地球が本来持っている電磁場と人間の脳波とがすごくよく似ています。 つまり、私たちの脳波は、地球の電磁場によって駆動されているということが考えられます。 だから、脳波を理解しようとして、脳内時計とか脳内ペースメーカーを探すという研究は、もしかすると失敗するかもしれません。 脳波のペースメーカーは「外」にあるのです、「内」ではなくて。 常に、人と地球の電磁場は共鳴し合っている。 だから、太陽活動がちょっと変わって、電離層が破壊されると、もちろん人工衛星は電磁場の相互作用で故障します。 同様の影響は人でも起こっていて、精神状態が変わり得ます。 このことについては、既に40年か50年くらい前に、入院患者の精神状態が変化するということや、精神病院への通院患者の数が増加するという統計データがネーチャーに発表されています。 


次は、「誤りを招く先入観」についてです。 この絵は、お面なのですが、鼻が飛び出て見えます。 左側がお面を裏から見た写真で、正面から見たのが右側の写真です。 このお面の鼻は、飛び出ているのではなく、実はへこんでいる。 これを飛び出て見ちゃうのは、われわれの先入観です。 これは、科学でも同じじゃないか。 先入観があるがために、本当に見たいものが見えなくなっている。 「前提を問う」(スライド20)-要するに先入観なのですが-このことで、湯川秀樹はすごく大事なことをおっしゃっています。 「数学では、前提を認めれば結論が導かれるが、前提が正しいかどうかということは、数学は保証してくれない」。 つまり、誰がやっても同じ結論が導かれるから真理なのですけど、その前提が正しいかどうかは数学では証明できないとおっしゃっている。 それを証明するのは、人間の経験と心の働きです。 生態学者のグレゴリー・ベイトソンも「科学がよって立つ前提が正しいかどうか、それが誤っているかもしれないという認識を持たないといけない」と同じようなことを言っています。 



スライド21



じゃあ、その前提を問うということを具体的に体験してみましょう。

 

これ(スライド21)は、教科書的な生物学の図版です。 そもそも、細胞ってなんだろう?膜があって水が入っていて、その中に色んなものが浮いている。 これはみなさんの今の常識です。 ところが、これ間違いです。 なぜかというと、実は、細胞の膜を破壊すると、水が出てきて細胞は死ぬはずですよね。 でも、水はあるが出てこない。 細胞は死なない。 凍結保存ってご存知ですね。 受精卵とか精子や卵子。 なぜ保存できるか。 血液は永久保存できませんね。 結晶になった時、氷ができていろんなものが壊れるんです。 ところが細胞は、氷ができないのです。 細胞の中にはいろんな極性をもったタンパク質があり、それに極性をもった水分子が配列していて既に構造を作っているのです。 この構造を壊して氷にするには、すごいエネルギーがいるから、いくら氷点下になっても細胞の水は氷になりません。 だから、細胞は氷点下から元に戻してあげると、元通り活動するのです。 この辺で、唖然としてもらうことを期待しているのですが…。 


ですから、細胞って何、というと、この図では、左側が昔のイメージ、右側が新しいイメージです。 いろんな繊維が入り組んでいて、これテントを張った時と同じような構造ですね。 硬いものや柔らかいものからできていて…。


そうすると、力学的な歪、化学物質がつく、あるいは重力が加わる、電磁場が働く―原因は違うのですが、細胞にとっては同じように形が変わる。 そうすると、そういう細胞は「内」にも「外」にも繊維を張り巡らして、体中にめぐらせている。 これが東洋の神秘、経絡の本質ですね。 血管がないところ、神経が通ってないところ、ツボに鍼を打つ。 そうすると痛みがとれたりしますよね。 これは神秘ではなく、そういう経絡に沿って伝達していたシグナルがブロックされるために、痛みがなくなるのです。 



スライド22



これまで、神経は、プラスとマイナスのイオンが、出たり入ったりしているというのが、神経シグナルが伝わるメカニズムとして教科書に載っています。 これは間違いではありません。 ただ、もうひとつ別のシグナル伝達システムがあるのです。 それは何か?神経繊維に沿って電位差があるのです、プラス、マイナス。 すると直流の電流が流れるのです。 半導体電流です。 さっき言った細胞の中のいろいろな繊維に沿って、半導体電流が流れている(スライド22)。 骨ももちろんそうです。 骨折してなかなか治癒しない時は、電磁波を使うのです。 すると骨細胞が増殖して、骨折が治ります。


電磁波というのは、もう既に消滅しているかもしれない遠い星の状態を知るのに、電波望遠鏡を使います。 目で見ることのできない分子の形も、分子から出てくる電磁波を測定して、スペクトルを同定して分子構造を明らかにします。 それなら、身体の中、タンパク質とタンパク質、あるいは細胞と外界の情報伝達も、電磁波を使っているのではないか。 現代文明では、車がそうです。 昔はカギでドアを開けて、でも、新しい車はみんな電子キーですね。 電磁波は人間が考え出す前に生物はすでに使っていたのではないか。 これまだ仮説の段階ですけが。 こういうことが納得できるのは、これまでの過去のデータを現在に保存するという形でみなさんにお伝えしているからです。 



スライド23



もう一つ、「ゾーン」(スライド23)。 これは何かというと、昔、私が、父親とお風呂に入っている時、手を話して溺れそうになった。 その時、お風呂の中で一回転するのがスローモーションで見えたという経験があります。 同じような経験した人が結構多いようです。 オートバイで転倒した時、オートバイがスローモーションで飛んで行くのが見えたとか、いっぱいそういう話が出てきます。 危機一髪の時には、世界がスローモーションで見える。 なぜか?


これは簡単に説明できます。 通常の神経活動は、イオンが流入流出するのに時間がかかるので、1秒間に10フレームぐらいしか世界を認知できないのですが、先ほど、体内に半導体電流が流れているとか電磁波で交信しているというお話をしましたが、この場合は、シグナル伝達速度は飛躍的に速くなります。 危機一髪になると、その働きで、シャッターを切るタイミングが早くなり、世界がゆっくり見えるんです。 ですから、ゾウリムシなどの単細胞は、神経細胞はないのですが、外界刺激に対してレスポンスをします。 また、多細胞でも下等な生物には神経細胞はないのですが、それでも記憶をします。 おそらく、多様な細胞の繊維に沿って半導体電流が流れ、それが記憶を担う役割をしていると考えられます。 



スライド24



これは、エッシャーの絵(スライド24)です。 エッシャーは、長年にわたって、平面を分割する、「正則分割」に取り組みました。 「正則分割」とは、余白なしに平面を埋め尽くすことができるような相補的な図形はどのぐらいあるのか、その配列はどういうものか、を考えることです。 彼は芸術家でしたが、科学者が関心を持ち始めるより20年も前に「正則分割」を考えていたのです。 芸術には、こういうパワーがあります。 ですから、芸術というのは、科学では足踏みするようなことを、平気でやってしまってこういう絵を描いてしまう。 彼は有限の素材で無限を表現したいと考えた。 だから、この絵、相補的な図ですね。 悲観主義者と楽観主義者が、中央で手を結ぶ。 対立しているものは統一されるのだということを、モチーフとして提案しようとしたものです。 円環上の動きによって、有限の素材で何とか無限を表現しようとしたかったのです。 


これからお見せするのは、私が描いた芸術作品。 任意の対象に対して、それは必ず逆の側面があります。 でも、その逆の側面は対立しているように見えるが、いつかは、それは統合されるべきもの。 だけど、その統合されたものもまた対立します。 その対立は、さらなる高次の統合のきっかけになっていく。 



スライド25



今お示ししているスライド(スライド25)は、今日、お話している内容を図示してみると、こうなるというものです。 これは、進化のプロセスを表現していると同時に、みなさんが認識を深めていくプロセスがこうやって表現されている。 大事なことは、最初の状態と最終状態が相同なことです。 だから、自分の外にも内(なか)にも同じ状態がある。 そして、色抜きしているから斑(まだら)になっています、これが曼荼羅(まんだら)です。 「認識」「生命」「生成」「進化」「病気」―新しいものを作られるということは、いいことばかりじゃない。 病気も起こる。 そのことをこのモデルは説明しようとしています。 


対象そのものに価値があるのではなく、それを媒介して創発するそのプロセスに価値がある。 だから、データだけでは、実は無価値なのです。 だけど、みなさんが、こういうプロセスを通して自ら創造性を体験した時に、価値が現れるのではないか。 というより、創造性を体験することこそが永遠に価値があるのです。 そういう意味では、美術や芸術や医術や学問―すべて同じことで、自分が苦労して創造のプロセスを体験しないとだめなのです。 



スライド25



この図(スライド26)ですが、らせんの図を上から1つの平面に射影してみたら、先のスライド25のようになるのです。 これまでの科学は、「主観主義」―主体が全て、客体はその投影に過ぎないという考え方。 その逆で客観主義―客体こそが全てで、主体はそれのコピーを受け取るに過ぎない。 これどっちが正しいか。 実は両方正しい。 らせんが、それらの間を行きつ、戻りつして、結び合わせているのです。 こういう見方が、進化的認識論、発生的認識論として提唱されていて、これを、私は構成的認識論として統合しようとしているのです。 この図の中にもうひとつ、これを描いた時に描かれていないメッセージが同時に含まれている。 


それが西田哲学の「逆対応」(スライド27)。 1つの構造が構成される時に、その逆の構造も認識すべきなのです。 対象にすべてが含まれているのではなく、そこからどのように展開されるかが問題になります。 その意味では、絶対に対立している状態が重要なのです。 ですから、先ほどの図も絶対重なり合わない。 これが、西田哲学の絶対矛盾的自己同一と言えます。 現実の世界と裏返した世界、両方ペアで、だから、どこまでも進化は終わりがない―これが「ゲーデルの不完全性定理」といって、数学で証明されていることです。 つまり、これで満足という段階は、いつまでたっても達成できないということです。 同じことが現実世界でも起こっている。 ですから、私たちは心を常に新しく持たなくてはならない。 そう言う意味では芸術と科学の共鳴はすごく意味のあることだと思います。 なぜなら、芸術に触れることによって、今まで気づかなかった自分を発見することができるようになるからです。 


これは最後のスライド(スライド28)です。 この世の中は問題だらけです。 それは、世の中でも創造のプロセスが働いていて、そのために問題が次々と立ち現れるからです。 アインシュタインは「問題を作り出したのと同じレベルの発想では、解決は望めない」といっています。 つまり、問題解決のためには、発想自体を変えないといけないということを言っています。 問題が作られ続けている現実世界を理解するには、こころの世界においても何か創造のプロセスが働かないといけない。 ですから、科学も芸術も手段は違うのですが、「感染」という本質においては、同じ創発のプロセスに従う「心の働き」というのを求めているのではないかと思います。 


つまり、科学であれ芸術であれ、対象の理解を通して、自分自身のこころの理解を深めていくことができ、それによって逆に、対象の世界で今まで気づかなかった問題を発見できるようになる。 こうした循環を形成していくことができるかどうか、多難な現代を生き抜く私たちに課せられた課題なのかもしれません。 本日は、ご静聴ありがとうございました。 



スライド26


 




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