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第8回クオリアAGORA/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

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ディスカッサント


堀場製作所最高顧問

堀場 雅夫 氏


佛教大学社会学部教授

高田 公理 氏


花園大学社会福祉学部教授

渡辺 実 氏


同志社大学大学院総合政策科学研究科教授

山口 栄一 氏




高田 公理(佛教大学社会学部教授)


山極さんと私は、知り合って、かれこれ40年ぐらいになります。 27、8歳ごろ、私は酒場を経営していたのですが、山極さんは、その店の常連さんだったんですね。 酒場というのは、カウンターの中から客席を眺めていると、どこか動物園のサル山みたいに見えます。 おごったり、おごられたり、新しい付き合いが始まったり、喧嘩が起こったり……。 それは、ちょうど山極さんがアフリカへ調査に出かけるようになった時期と重なっていたんではないかと思います。 もっとも、そのころは、山極さんのことを、「アフリカへ、ゴリラに調査されに行ってるんとちゃうか」などと言っていたような気がします。 


それが本日のスピーチを、あらためてきちんと聞かせてもらうと、じつに包括的に「ゴリラから学んだこと」を話されて、まあ、40年の時間の経過を、感慨深く振り返っていたような次第です。 


で、お話を聞いていて考えたことはいろいろあるのですが、なかに家族は「禁止」と「独占」の上に成り立っているといったことがあったように思います。 それを少しずらせながら思い出したのは、人類社会に普遍的な二つのタブーについてです。 すなわち「インセスト(近親相姦)」と「カニバリズム(喫人)」ですね。 これらが許されると、人はアイデンティティ崩壊を起こし、家族をはじめ、共同体が解体してしまうわけです。


もっとも、こればいわば「タテマエ」であって、実際にはしばしば、タブーは破られるのですが、そんな話を女子大生相手の講義のなかで話したところ、とんでもない不思議な反応が返ってきました。 いわく、「父と母は、セックスしてもインセストにならないんですか」 いやあ、ある意味で見事に虚を突かれたような感じがして、驚かされたのですが、そんなことを今日のお話しを耳にしながら思い出しておりました。 


そういえば最近、「妻だけED」などという言い方があって、余りに慣れ親しんでしまった男女の間では、イスラエルの同じキブツで育った男女の間における「ウエスターマーク効果」のようなものが作用して、セックスをするのがむつかしくなるのかなあ、といったことを考えさせられたりもしました。 


今ひとつは、家族成員の間の「共感」に関するものです。 動物としての人間の特質の一つは、食物や食事に関することで、「料理をすること」と「食物を互いに分配して共食(きょうしょく)すること」だと言われます。 ところが、最近の日本の家庭生活をイメージしてみると、余り料理はしない、家族成員が集まって共食する機会が減っている、といったことが言えそうです。 いわば「食をめぐる人間らしさ」が減退しているわけです。 なかでも極端なのは、若い学生たちの「便所飯」――便所に隠れて、独りで食事をする学生がいるというんですね。 


こうしたことを考えると、今日、ヒトはヒトとしての特質を失いつつあるのか。 あるいは家族という集団を媒介としない新しい生き方が誕生しつつあるのか。 このあたりのことも考えてみる必要がありそうです。 


そして最後に、人類の言語について、こんなことを考えさせられました。 つまり、現代世界には約5千種類の言語があるといわれます。 それらの言語は、普通「コミュニケーションの道具」だと言われるのですが、たしかに同一言語を使う人々の間では、その通りです。 でも、これだけ異なった言語に分化していることを考えると、それは同時に、異なった言語を使う人々には理解できない「ディスコミニケーションの道具」でもあるわけでしょ? 


もっと極端なことをいえば、理解できない他言語は、けっして共感を呼び起こすことのない「隠語の体系」だとも言える。 言語は、そういう両義性をはらんでいると考えるべきなんですね。 


それに対して、音楽や「互いに見つめる」という行為などは、見知らぬ人との間にも共感を呼び起こす可能性をはらんでいる。 


このように言語を、必ずしもコミュニケーションの道具ではないのかもしれないと考えてみると、そこからいろんな展望が開けるかもしれない。 まあ、そんなことも、山極さんの話からインスパイアされたような気がします。 




堀場 雅夫(堀場製作所最高顧問)


大体、小さい子どもはどっちかいうと嫌いで、3歳ぐらいになってきて、こっちに対する反応が出てきたらやっと面白くなってくると思っているんです。 


それで、ゴリラのオスは、喜んで子供を育てているの? それともしゃあないと…、どういう感情をもって育てているんでしょう。 そして、オスに育てさせている間、メスは何をしているのかなあ。 



山極 寿一(京都大学大学院理学研究科教授)


ゴリラも堀場さんと一緒で、生まれたばかりの赤ちゃんには関心を持ちません。 さっきもいいましたように、父離れするとメスがオスのところに運んで来て対面させるんです。 すると、その時、子どもが父親にちょっかいをかけ出し、背中とかであそび始める。 お父さんは、子どもたちが群らがってきたり、背中を滑り台にして遊んでくれるのが、どうも心地いいようですねえ。 


決して、子育てに積極的というわけではないんですが…。 



高田


その点では、ゴリラと堀場さんとは同じだといっていいわけですね。 


堀場


ゴリラも私レベルになっているのかな。 (笑い)



山口 栄一(同志社大学大学院総合政策科学研究科教授)


父親の問題はおもしろいですね。 日本の父親というのは、確かに昔は「恐るべき存在」で、近寄りがたくて、という感じだったと思います。 それが、家族の確固さを守ってきたわけですが、高度経済成長期に入って、その父親が日本社会からいなくなってしまった。


企業が、父親を連れ去ってしまい、家庭にはいない。 子どもが物心ついたころには、父親はもう家庭にはいないわけです。 いるのは日曜日だけなんでしょうが、それもゴルフとかに出かけるので、不在になる。 これが、今日の日本社会を色濃く性格づけたと私は思います。 


私は、ヨーロッパで長く暮らしていました。 その時感じたことは、欧州の子どもはすごく独立精神が強いということです。 13 、14歳でもう結構強い独立精神を持っている。 このことが、日本より盛んな「起業家精神」と強くつながっている。 これって、実は、父親が確固として家庭にいるから、子どもは少々飛び跳ねてもいいんだ、というところから出てきているのではないのかなと、勝手な推測をしています。 


日本人の父親の希薄さって一体何だろう。 父親が希薄だから、却って独立精神が養われないのではないか。 渡辺さんにおうかがいできますか。 



渡辺 実(花園大学社会福祉学部教授)


そうですね、産業革命もあって、明治以降、突然、子供の数も増え、学校ができ、教育も父親のあり方も随分変わってきたのですが、特に、戦後、高度経済成長の中で、家族の中での父親の存在がどうなっていったのか、もう一回考えなきゃいけないですね。


私は、京都市で小学校、保育園の巡回相談をしていますが、今、何が一番問題になっているかというと、お父さん、お母さんたちが、子どもと遊べないということなのです。 子供たちはビデオゲームをして、お父さん、お母さんは仕事に疲れて、という状態で、親子でキャンプに行くとかもほとんどありませんし、トランプをするなんていうことすらもなくなっている。 遊びが大事だと思うのですが、家族の中での父親の存在っていうのは、子どもに遊びを伝え、その中で、子ども同士がルールや言葉を覚えていったりしたわけで、実に父親の役割は大きかった。


先ほどの山極先生のゴリラのオスと同じで、人間でも見守る大人というのが重要なのですが、子どもに遊びを教え、遊ばせながら見守る、そういうお父さんや近所の大人が、地域社会の変容もあって、最近だんだんいなくなっている。 


それから、小学校になると、「ギャング・エイジ」といって、子供たちは、結束の強い友達グループを作って、大人から自立を図ろうとするのですが、ゴリラにも、群れて大人になろうとする子どもたちを見守るお父さんがいるというお話だったのですが、人間にも共通していると思います。 そういう存在がなくなっていることが、「いじめ」とかの問題につながっているように思うのですが、山極先生どうでしょう。 



山極


いろんな時代区分はあると思いますが、どの世界や文化でも、子どもはある特定の男に結び付けられるんですね。 父親がどういう行動をしようとしないとにかかわらず、その子どもは、どの男の庇護と責任のもとに置かれるという共同体の合意ができるんです。 それが、人間の父親というもので、ただ、父親がどう子どもに接するか、相当、文化や社会の環境によって違いがある。 渡辺さんもおっしゃったように、江戸時代から現代に至るまで大きな変化を受けていると思います。 教育では、学校ができてから、子どもの育て方に誰が責任を持つかなんて、随分変わってきましたよね。 


ところで、人間の男が、生物学的に持っている声変わりという特徴があるんですね。 動物行動学でいえば、男にしかない声変わりは、太い声は男の特質として、女から選ばれることで進化したと解釈されているんですが、私は、子育ての能力かもしれないと思うんですね。 つまり、人間の男は、女とは違う子育てをする必要が生じたので、太い声を出せるようになった、ということです。 例えば、敵を震え上がらせ、子供たちを逆に安心させる。 あるいは、子どもたちの間のトラブルを太い声でしずめる。 昔の雷親父ですね。 これは、父親でなくてもよかったんです。 声変わりをするようになった大人が子どもに対して、どういう関係を持っていたかっていうことを、生物学的に如実に反映させてくれる特質だろうと私は、思っているんです。 


高田


なるほど……そこで思い出すのは1955年ごろ、日本では半分以上の大人の男が俸給生活者になって、つまりは家から外に出て稼ぐようになったという事実です。 それまでは、農家も商家も職住近接で、父親と子どもは一緒に生活していたのですが、高度成長期に父親たちが俸給生活者になるにつれて、そうした関係が壊れてしまった。 結果、子供たちが、大人の男の太い声を聞く機会が減少したというわけですね。 


山極


例えば、学校教育でもそうで、今、学校に行けば、クラスがあって同世代の子どもたちが集められて、優しい女の先生が、お母さんのように接してくれる。 で、叱ってくれる怖い声の先生はそれほどいるわけじゃないし、例えいたとしても、子どもは集団でいますからあまり怖がらない。 ルールやマナー、エチケットを身近におぼえさせてくれる存在が非常に少なくなったということは確かですね。 


渡辺


先ほど堀場さんが、赤ちゃんはわからないから、とおっしゃっておられましたが、実際、心理学者も、赤ちゃんのことをやり始めたのは、ここ2、30年のことなのです。 それまでは「暗黒の2歳」といわれていて、言葉をしゃべるようにならないと、子どもの能力がわからない。 まあ、男の研究者がだらしなかったのですが、知能検査も言葉なのですね、だから3歳ぐらいからしかわからなかった。 最近、女性の心理学者がたくさん出てきたということもあって、だんだん、赤ちゃんのコンピテンス、いろんな能力がわかってきたんです。 それで、先ほど太い声ということで思い出したのですが、赤ちゃんに語りかける時、女性の場合は声が高くなりますが、その一方、子どもたちは、男性の太い声も好むんですね。 山極さんが、ゴリラの声を出しながら、ゴリラに近づいて行かれるところを見たことがありますが、あの「う、うーん」という声で、ゴリラは安心して警戒心をといていましたね。 ヒトの赤ちゃんも、男の低い声で安心するところがあって、共通したものがあると思います。 


山極


ああ、それは面白いですね。 


高田


ところで、ゴリラは声変わりしないですか。 


山極


いや、するんですよ。 ただね、人間の男は声帯が太くなりますね。 ゴリラは、声帯ではなく、「共鳴袋」というものが発達して、その袋で声を増幅させるんです。 その違いはありますが、声変わりすることには変わりはない。 メスは、この袋が発達しません。 


高田


ということは、大人のオスとメスで、声は違うわけですね。 


山極


違います。 全然、違います。 


山極


人間の場合は、お乳をやっていても妊娠することがあります。 でも、基本的には子供ができる率は下がりますので、実は、江戸、明治時代、子どもをあまりつくりたくないので、お乳をずっと飲まし続けたということがあったし、今も、そういう文化はあります。 実は、類人猿の中で一番乳離れが悪いのは、オランウータンなんですよ。 次に、チンパンジー、ゴリラの順で、ゴリラは割と乳離れが早いんですね。 それは、お父さんがいて、託児ができるからなんです。 ところが、オランウータンはね、メスもオスも1頭で暮らしている。 単独生活で、託児をしない。 そのため、ずっと1対1で、お母さんと赤ちゃんがいるっていう環境で、乳離れをせず、7年ぐらいお乳を吸い続けることができる。 その間妊娠しませんから、非常に子どもが少なくなりますね。 ですから、「ゴリラ化」というより、むしろ「オランウータン化」といえるんじゃないですかね。 







堀場


今じゃ、もう見られませんけど、昔は、市内の路上でもよく見た光景で、牛馬が荷車なんか引きながら、所構わず糞をするんですね。 それで、オランウータンとかゴリラは、どうするんですか。 どこか見られないところでしたり、あるいは所構わずするんですか。 


山極


それはね、きょうお話しなかった、「おしめ」に関連することなんです。 基本的に人間や霊長類はあたり構わずできます。 なぜならば、樹上生活だから、地面にいくら落ちても自分にはほとんどかからない。 しかも、熱帯雨林ですから新陳代謝が非常に激しく、フンコロガシとかたくさんの虫がいて、糞は、あっという間に分解されます。 だから全然汚くない。 それと、霊長類は基本的に、フルーツを食べます。 これは、フルーツを食べてあたり構わず糞をしてもらうよう、植物側が、仕組んでいる。 動けない植物が美味しい果実を提供し、その代わりにいろんなところに糞をしてもらって種子を運んでもらうというサルと植物の関係なんです。 人間もそういうふうにできているはずです。 肉食獣は食いだめがききます。 しかし雑食の胃腸を持っている人間は、サル同様、毎日食べなくちゃいけないし、毎日糞をしなければいけない。 しかし、定住生活をするようになって、あたり構わずできなくなりました。 また、地上で暮らすので、いろんな糞がかかるし寄生虫や汚染の問題なんかも出てきて、特別のところに貯めたり、トイレを作ったりしなければならなくなったというわけです。 赤ん坊は、サルの体で生まれてきますので、時間、場所を構わずしますので、人間の体にするため、おしめがいるということなんですね。 


堀場


昔でしたら、10カ月くらいで、尿意、便意が出たら、親に伝えるという教育をしたものなのですが、このごろの親は、いつまでたってもそういう教育をしない傾向があるんですかね。 実は、こないだ、2年もおしめをしたままという子どもを知って、病気かと思ったがそうではない。 平気でそうさせている、という。 なんだか、学校も親も教育がすっかり変わってしまったな、と思うんですが、ゴリラは、マナーとかトイレのこととか、教えることがあるんですか。 


山極


ゴリラには、教育はありません。 今の堀場さんの前半の話に答えると。 人間の子どもが成長するには、あまり便利でない方がいい場合がある。 日本も、昔は家に土間がありましたが、アフリカやアジアにも、土間があり、そこで、子どもたちはおしめをせず、垂れ流しています。 それを家畜が入ってきてきれいに食ってくれる。 ただ、二足で歩いている子どもは、立って垂れ流すと気持ち悪いから、年上の子がトイレでしているのを見て真似をし、だんだんとトイレでできるようになる。 しかし、今のパッケージのおむつは快適ですから、気持ち悪いという感触が起こらない。 おしめが取れるのは、おしめ自身が不便なものだったからだと思いますね。 


ゴリラの場合には、基本的にはネガティブな教育しかしません。 こういうことをしたらダメ、という時には、ぶったり、押しのけたり、噛み付いたりして教えます。 だけど、子どもにとってよくなるように教育しているとは思えない。 何かトラブルがあって、どやされるだけであって。 こういうことをしたらいいんだよ、と導くような教育はゴリラにはなく、人間だけですね。 


高田


教育というより、しつけだと思うんですが、ゴリラの親はどんなことしたら怒るんですか。 


山極


例えば、子ども同士が遊んでいる時に、大きな方の子どもが小さな子どもから餌を取っちゃったり、噛み付いたりして小さな方が悲鳴をあげた時、大きな方をどやします。 


高田


大変リーズナブルですね。 


山極


ええ、大変公平な仲裁の仕方をします。 ゴリラは負けをつくらない。 勝者を必ずやっつける、ということをやりますので。 それは子どものころからそうですね。 きょうは、あまり、深入りしなかったんですが、ゴリラとサルの大きな違いは、サルは勝ち負けを決めて平和を作り、ゴリラは、勝ち負けを作らずに平和を作る。 そういうふうにルールのつくり方が全然違う。 


高田


ヒトも本来、勝ち負けを作らずに平和に過ごそうという方向に進化してきたはずや。 そういうことですか。 


山極


私は、そう思っているんです。 「負けず嫌い」ってことです。 「勝ちたがりや」じゃあなくて、負けず嫌い。 この二つは、違うんです。 


高田


とことん競争させて、立ち直れへんようになるまで負け続ける人をつくる。 今時の世の中には、そういう風潮があるような気がするのですが、どうなんでしょうか。 


山極


それはね、元を正せば負けたくないからなんです。 でも、負けたくないために、勝者にならないといけない時代になってきた。 勝者になっても、その勝ったことをみんなが称えてくれなければ、実はほんとは、楽しくないんですよ。 そういう環境があるからこそ、勝ってうれしいっていうことができる。 実は、人間社会は、元々、みんなが負けたくないっていう気分でつくりあげられてきたんだけど、その中で、だんだん勝者を称えるような社会を作ってきた。 それが、今ちょっと過熱してね、むしろ、勝者にならないといけないような形になりつつあるんじゃないのかなと思います。 


高田


しつけのことですが、現代のように、一組の男女の親だけに育てられるというのは、人類史を展望すると非常に特殊なんではないですか。 日本でも少し昔は、両親や祖父母、兄弟姉妹などの家族にしつけされると同時に、ご近所の人にもしつけられていた。 そういうことがあったので、子供たちは、自分の両親の考え方や暮らし方が特殊なんだということに気づくことができた。 ゴリラの場合は、父親の個体ごとの差異や個性はないんですか。 


山極


個性は出てくると思うんですが、そんなに違いはないですね。 


高田


渡辺さん、しつけについてどうでしょう。 


渡辺


しつけということなんですが、人間の社会でも本来、ゴリラのように、勝ち負けをつくらず、平和共存したいというのが、もともとのしつけだったのです。 それが、勝ち負けというか、親から、一方的な権威を押し付けられる中で、社会的規範を身につけるようにされるのがしつけというふうに思われてきた。 しかし、発達心理学の立場からすると、しつけというのは「問題解決学習」なんです。 例えば、2歳ぐらいの時に、大好きなお母さんから、おしっこはトイレでしてねといわれるとか、好きなおもちゃで遊んでいる時、ご飯だから早く食べてねといわれたりする。 この時、子どもが、嫌だと、その思いを通すか、親のいうことを聞くか、という、勝つか負けるか、みたいなことになるんですが、本来は、そうではなくて、その時、家族が共存するためにはどうしたらいいか、その場で話し合うということが大事なんですね。 


子どもと大人がいかに仲良くできるかというのを話し合うのが、本来のしつけの場だったのです。 大好きなお母さんから、自分が嫌なことをしなさいとか、嫌なことをいわれるとか、子供にとっては大変な矛盾と葛藤を2、3歳のころに経験するということなんです。 これで、人生というのは大変なものだと学び、その後の人生で、主張すべきは主張し、我慢すべきは我慢するということを、幼児期に学び、身に付けるはずなんです。 これが、今は、なくなってきているわけで、先ほどのゴリラの話にはすごく共感しました。 


山極


もう一ついえばね、少し前には、表向き教育とはいわれていないが、学ぶ場はたくさん用意されていたんですね。 高田さんのバーもそうなんですが、教育の場だったんです。 私の学生のころも一杯飲み屋のママがいて、自分の悩みを打ち明けて、こうすりゃいいと教えてもらったりして大人になっていったというプロセスがあって、何か、家族、学校ばかりでなく、いろんなところに教えてくれる人がいた。 それが社会の優しさであり、一つの仕組みだったのではないかと思ったんですがね。 それがまあ、単一的になっていった。 個人と何かをつなぐものばっかりになっていったっていうのが、現状ではないかと思っています。 


高田


場の話が出ましたが、「酒場のママ」って、なんで「ママ」っていうのか。 あらためて考えれば「酒場のおばさん」に過ぎないのに、それを「擬似的にママと見なす」わけでしょ? そこに「デキの悪い(擬似的な)息子」が、夜ごと、やってくる。 で、愚痴をこぼしたり、悩みを聞いてもらったりして、元気を回復して帰っていく。 酒場のママは、ただ擬似的な息子の話を聞いてあげるだけなんですけどね。 


まあ、心理療法家の河合隼雄さんも、クライアントの話を聞くだけだったようですから、ひと昔前の酒場のママは、一種のサイコセラピストだったんででしょう。 ところが昨今の酒場では、「そんな鬱陶しいいこと、ごちゃごちゃ言うてんと、カラオケでパッと行きまひょ」と背中を叩かれて終わり、でしょ? 結果、本職のサイコセラピストが商売になってきた。 実際、精神科のお医者さんの数も、ずいぶん増えているようですし……。 


ま、それはそれとして、後のワールドカフェのテーマかと思いますが、家族という社会の最小単位が壊れ、互いに共感できる組織がなくなったら、これから社会はどうなるのでしょうか。 家族に代わる組織は、果たしてありうるのでしょうか。 このあたりについて、山口さんどう思われますか。 


山口


その前に、ちょっと山極さんに聞きたいことがあるんですが、先ほど、弱気を助け、強気をくじくお父さんゴリラの話がありました。 これって、お母さんゴリラもそれをやるんですか。 


山極


お母さんは、自分の子供がかわいいんです。 自分の子どもを助けたい。 でも、お父さんはちょっと子どもから距離を置きます。 子どもたちを対等に付き合わせたいと思うんですね。 


山口


ということは、そこには文化があるということになりませんか。 お父さんゴリラが全体の和を保つためにやっているってことは、欲望から来てないですよね。 そうやって育てられると、子供がお父さんになったら、やはり連鎖的にそれをやる。 文化ではないでしょうか。 


山極


文化っていう定義が合うかどうかはわかりません。 みんなの合意でつくられる計画性というのが、ぼくは文化と思っているので、もし父親というのがそうであれば、文化に近いと思います。 


山口


さて、高田さんの「家族に代わる組織はあるのだろうか」というご質問です。 原発事故以来、日本がすっかりへたれちゃったみたいなところがありますよね。 それでも私は、リスクにチャレンジして、それに打ち勝った者を称える社会であってほしいと思います。 我慢の文化はよくない。 強い者が現れる社会がよくないとは、決して思わない。 いろいろ競争して、最終的に勝ち残ったものは褒め称えるような社会、もちろん、弱い者は助けられる。 そういう社会に日本になってほしいと思うんです。 そのためには、家族を超える市民社会が必要だと思います。 きょうのお話を聞いていて、日本は、まだまだゴリラの社会に近いなと思ったのですが、市民革命を経たヨーロッパは、やはり一皮むけているなあと思いました。 


高田


堀場さん、何かありますか。 


堀場


いつも思うことですが、人間はあまり進歩してないということですね。 50万年、100万年前とほとんど変わっていないし、これから、100万年生きていてもあまり変わらないと思う。 家族とか社会とかいろいろいうてるけども、なにか行き過ぎては回帰して、昔の状態に戻してまた行ってを繰り返し、ある範囲の間を行き来するというのが、私の最近思うことなんですね。 






~では、会場の皆様からご意見を伺いましょう。 ~



木村 美恵子(タケダライフサイエンス研究所所長)


ゴリラの母親は、具体的に子どもを産んで、小さい間におっぱい飲ます以外に、メスの役割はなんでしょう。 


山極


お乳を飲ませる3年間ぐらいは、母親と子どもはべったりですよね。 子どもは母親のそばにいることが一番幸福。 でも、子どもは、母親から別れていかなければなりません。 オランウータンもチンパンジーもなかなか乳離れができないが、ゴリラは、託児をするので、どっちかというと勇んで離れていきます。 そうなると、子どもの責任はオスに移りますから、ほかの群れに移ったりして、メスは、恋をするんです。 ある意味とてもフリーに動いている。 母親の時期と、恋をしている時期は明らかに違うということですね。 


柴田 一成(京都大学花山天文台長)


あるところで、ゴリラには言語がないと聞いたのですが、どうやってコミュニケーションしているんでしょう。 特に、山極さんはコミュニケーションできるのか。 文法なんかなくても、人間とはだいぶ違う方法で、なにか言葉を発してコミュニケーションをしているのですか。 


山極


人間は今、言葉なくしては生きられません。 しかし、人間の身体能力からすると、言葉はとても新しいものです。 まだ、できてから数万年しか経っていませんから。 それまでの、数百万年間は言葉なしでやっていたわけですね。 そっちの方が体に残っていると思うんです。 ゴリラと人間は、体の大きさは違いますが、特徴はそう変わらないですから、身体によるコミュニケーションは似ていて、体を使えばできるし、実際できているわけですね。 それは何かというと対面して顔を合わせるコミュニケーションなんですね。 人間は目を見、ゴリラは顔全体を見る。 ただ、われわれは、言葉なしに相手に何かをわかってもらおうとすると、とても大変です。 これは言葉が情報というものを担保し、指示するからです。 でも、情報なしに何かを伝えようとすると、体をいろいろ動かさなくちゃいけないわけです。 それは全体的なメッセージとして伝わる。 


相手の心を動かすということでは、言葉より体を動かす方が通じるわけです。 また、体を動かすより、情報を担保しない音楽の方がよく伝わるんですね。 だから、ゴリラの声というのは、極めて音楽的です。 ゴリラにハミングというのがあるのですが、非常に音楽的に聞こえ、それは彼らの感情がよくわかる。 われわれが歌っている声を聞いて、犬や猫など身近な動物が反応するのはそのせいだと思うんですけれど、言葉より歌に反応すると思います。 


横田 誠(京都大学学際融合教育研究推進センター)


ゴリラの子育てなんですが、オスは、自分の子どもしか面倒見ないのか、メスが連れてくれば父親として育てるんでしょうか。 これを伺うのは、ヨーロッパではフランスで顕著なように、婚外婚が多くなっている中で、母親が子どもを連れてくるケースが多い。 で、父親のあり方がどうなっているか気になっているんですね。 日本でも、特に、東京のような大都会では、父親がほとんど家にいないのが当たり前になっている。 これが一般化している状況で、子どもたちに対する父親の役割や機能をどう考えたらいいのか、大きな問題だと思うんです。 


山極


実は、きょうお話ししなかったゴリラ社会の暗い側面として、「子殺し」があるんです。 どういう時に起こるかというと、連れ子をしてメスが入ってきた場合です。 自分の子供でないことははっきりしている。 ゴリラの場合、その群れのメスはそこのオスとしか交尾をしませんから、ほかのオスと交尾するチャンスはありません。 メスは、自分の所属する群れのオスが死んだ時、行きどころを探し、乳飲み子を連れてほかの群れに移るんですね。 その時、その子どもは、必ずといっていいほど殺されます。 だから、まず、移籍して、そこのオスと交尾して子どもを産まないと、そのオスは自分の子供としてみなさない。 ただ、自分の子供でなくても、その群れのオスの子どもなら育てることはあります。 実際、子どものDNAを調べると、育てているオスの子どもではないことがあるので、「自分の群れ」という意識が、その子育てを支えているかもしれない。 ゴリラがする連れ子殺しは、人間でも起こりうるんだろうと思います。 最近の、継親による連れ子の虐待にも引き継がれているのかもしれませんね。 


塩田 浩平(京都大学大学院思修館設置準備室教授)


最近レストランに行って気がつくことをちょっとお話しします、若いカップルはよく話しているんですが、話さないグループがある。 それは、年ごろの子どもとその親の組み合わせと熟年の夫婦です。 子どもは、いやいや一緒に来て食わせられていると思っているのか…。 ゴリラから見ると、これはどういう社会なのでしょうか。 


山極


ゴリラの社会では、オスは歳をとっても群れから追われないんですね。 若いのが台頭してくると、身体的に劣るので若いオスとは喧嘩すると負けます。 しかし、子ども、孫とかは、年寄りのオスの方が好きなんです。 メスは、さっき話したように、子どもを連れてほかの群れに移れませんから、子どもが残り、歳をとるほど子供が群がってきます。 老境に達したオスは、子どもと本当に仲がいい。 日本の現象ですが、これまで、夫婦だけにされるということがあまり起こっていなかったんじゃないか。 それで、若い時のように、二人でどっかに行ったりすると、戸惑ってしまうのではないでしょうかね。 こないだ、ちょっと産婦人科の医者の先生に聞きましたが、「産後リスク」ということをおっしゃっていました。 男女のパートナーに対する信頼感の話なんですが、産前産後が一番高く、子どもが大きくなるに従ってどんどんその信頼感が薄れていくんですね。 それも、女性の方が、男の倍ぐらいのスピードで薄れていくんだそうです。 で、結局、日本の家庭は、「母子家庭」になっているんじゃないかと思うんですね。 父親は家にいないので、母子の絆ばかりが強まって、もう父親は邪魔だというようになっている。 それが今の日本の社会なんじゃないのかな。 



~では、この後のワールドカフェですが、山極さんからお題をいただきたいと思います。 ~


山極


きょう、ちょっと話に出なかったんですが、日本の会社は家族のようなイメージで経営されていたフシがある。 そういうものがこれからも日本の社会の中で続いていけるのか。 あるいは、家族はもういらない、別の考えで組織は組み立てて行ったほうがいいのか。 自分の職場を念頭にお話いただきたいと思います。 

≪マウンテンゴリラの群≫


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