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ワールドカフェ
日本の企業の特色といえば、家族的経営と言われてきました。 ところが、グローバル社会の到来とともにこの「家族」という概念が組織からなくなろうとしています。 企業にとって家族的経営とは何か、またこの変化をどう考えるかなどについて対話しました。
[ 各テーブルのまとめ ]
●第1テーブル 報告者 三浦 充博 (庵営業チームリーダー)
家族と会社。 企業というのは、上手にマッチングするかどうかをベースに話し合いました。 いろいろな地域でどうだろうかということも話が出て、京都なら文化もあるので家族的経営ができそうだということになったんですが、ま、スケールとして、5、6人ぐらいだったら意志の共有ができてうまくいくかなという意見がありました。 この、お題をもらって、はっと、思わされたのは、家族と企業を一緒に考えてみなさいというのが、日本的だということでした。 常に、背負っている問題であると思うんですが、これをどう考えるか、まとまらず、です。 結論としては空中分解でしたが、こういうことを話し合える相手が会社の中にいるというのが、一番大切だということが私の思ったところです。
●第2テーブル 報告者 内崎 直子(大阪ガス近畿圏部)
日本の企業は、家族的な経営、人の顔が見えるような会社というのが大きく育ってきているという歴史的な背景があります。 その中で、昨今、確実に利益が出るもの、経済性を優先するようになってきている傾向があるのですが、その対極の家族に通じる「ファジー」と「信頼度」と「顔の見える」ということを大切にすべきだということになりました。 つまり結論は、家族的な経営をするべきということです。 ファジーと信頼度と顔の見えるということなんですけど、会社の方からすると、顔の見える関係をどうやって保っていくかの方が重要なんですね。 そして、結末としてはファジーなものを育てることになるだろう。 確実なものばかり追い求めていくと、硬直化して自由度が失われる。 ということはファジーなものが必要になってくる。 ただ、ファジーなものを担保するには信頼がなければいけない。
山極 寿一 (京都大学大学院理学研究科教授)
家族がファジーなのは、なぜかというと、みんなが無条件に信頼できるからです。 会社の中で信頼できる関係がつくれるというのは、まさに顔の合わせられる、顔が見える関係ってことなんだな。 ということは結果として、家族的なものをうまく持ち合わせ、ファジーさをきちんと未来につなげられる会社がいいんじゃないかな、ということになったわけです。
●第3テーブル 報告者 赤畠 貞宏 (同志社大学ビジネス研究科)
日本の企業は家庭的かというところから、家庭的とは何かという話になりました。 それで、家族的経営の反語としては欧米化ということになったのですが、欧米の企業にもイタリアとか家族的なのもあるぞということになって、その後、俄然、京都の企業の話で盛り上がりまして、なぜ京都の企業が強いか。 渡辺先生が、東京から京都の大学にこられたんですが、なぜこんなに京都は強いかでお話になりました。 ちょっと先生一言お願いします。
渡辺 実(花園大学社会福祉学部教授)
京都は閉鎖的と思われているかもしれないが、渡来人はじめ、いろんな人が京都に来て、それを取り入れて発展してきた。 ただ、京都には、常に核になる人たちがいて、安定するところがあったので、いろんな人やもの、考えなどを取り入れることができたんじゃないかということを申し上げました。
いやあ、京都は最高ということです。
●第4テーブル 報告者 山本 勝晴 (浄土宗西山深草派 僧侶)
まず、企業は家族的であるべきか、というところから始まり、その中で、いろいろな会社があるが、常識のない若者が多い。 これは、親のしつけができていないためであるし、会社でも、社長がしっかり怒ることをしないからだという指摘がありました。 さらに、若者が飲み会に参加しないということが顕著になっていますが、彼らは、行くメリットがないという。 それはどういうことかというと、見習うべき先輩がいないのではないかということです。 これ、ちょっと身につまされました。 それで、カンパニーというのは、パンを一緒に食べるという意味らしいので、言葉からしても会社は家族的でなければいけないんだなという話もありました。 結論としては、会社、組織の有り様は、これからの日本にとって家族的であっていい。 ただ、条件として、社員も独立とリスクを背負う考えを持つべきだというものでした。 社長を先頭に、利益を上げるということを共通の目的に、本音で付き合えることで、いいサイクルが生まれるのではないかということに。
終りに...
長谷川和子(クオリアAGORA事務局)
先ほど退席された堀場さんは、家族的な経営は、200人ぐらいならできるのではないかとおっしゃっていましたが、1万人いても、部とか課で50人とか100人の顔が見える組織にしていけば、それが可能になると思われます。 研究施設でも、同じステージで議論できたはずなんですが、それができなかったのがちょっと残念でしたね。
ところで、きょうは、ニワトリの胚を使って発生生物学を研究されている京都大学の高橋淑子さんが初めてお見えになったので、ちょっとお話していただきます。
高橋 淑子(京都大学大学院理学研究科教授)
山極先生には、いつもこき使われている高橋でございます。 発生生物学をやっておりまして、今、時のものになっているIPS細胞のもとになったES細胞を日本で初めて培養いたしました。 山極先生に誘われ、参加しましたが、いろんな意見が出て楽しかったです。 それで、家族的企業ということで話し合いがされ興味深かったわけですが、ただ、「家族的」という定義を、ちょっと考えていただいたら面白いと思います。 女性の立場から申し上げますと、世界では、家族的ということが必ずしも前向きではないことが歴史的にもあったでしょうし、今も一部の宗教ではあるのかなと思ったりします。
もう一つ、最近の若いものは、と私もよく思いますが、私、奈良に住んでいるんですが、平城京を掘ると木簡がたくさん出てきます。 そのころ、平城京の役人はとてもダラダラしていたらしいのですが、その役人が木簡に「最近の若いものは」と文句を書いているんですね。 そうか、最近の若いものは、というのは、おそらく人類としての知恵が出てきたころから、いつの世もそんなことをいってきたんだなと思い、私も、そういいそうになる時は、このことを思い出すことにしています。 今の自分の常識は常識ではないんだと。 奈良に住んでいると、そういうことを考えるようになるんです。 ちょっと、生意気なことをいってしまいました。 きょうはありがとうございました。
山極
高橋さんから、今の若者はという話が出ましたが、最近の若いものはタメ口をきくというんですが、それがよくわからなくて、娘に聞いてみたんです。 それはね、さん付けで呼ぶとか、やけに親しげな言葉で語る。 これ、若い者にとっては、信頼を担保するものなんですね。 家族には限定されず、むしろ友達同士で、やけに馴れ馴れしい。 彼らにはこれが重要なんですね。 ここに家族の意識はないんですよ。 昔はね、おとっちゃん、おっかちゃん、それに兄弟のような口をきくというようなことだったんだろうけど、今はそういう縦筋は通っていなくて、横筋なんです。 そういうふうに若い世代は思っていて、それがすごく大事な世の中になってきたということだと思うんです。 それを作ったのはIT社会であり、いうならば、今のコミュニケーションが通じる社会なんです。 つまり上の回路は閉ざされてしまったのではないか。 そこに世代間のギャップをうまく参入させていかないと…。
きょう、家族が重要で、それに特徴的なファジーや信頼、顔が見えるということを会社経営に取り込んでいくのが重要だねという話になったのですが、彼らは、家族という話なしに、もう、そういうものをつくりつつあるのかもしれないと、私は思っています。 面白いテーマなので、ぜひ、これからもクオリアで発展させていって欲しいものだと思います。
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