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第9回クオリアAGORA 2016/科学と仏教の関係性



 


 

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第9回クオリアAGORA 2016/~京都から2030年の未来をつくる~「この世の真理を摑む!~科学と仏教の関係性~」/日時:平成28年3月17日(木)18:00~21:00/場所:場所:京都大学楽友会館会議場-食堂/スピーチ:佐々木閑(花園大学文学部仏教学科教授)/【スピーチの概要】大学の「知」と京都人の「暗黙知」を繋ぎながら新たな価値づくりに取り組んできた今年度のクオリアAGORA、最終回は、科学と仏教の関係をとりあげることとしました。「現代社会が2500年の歴史を刻んできた仏教に学ぶべき所は多い」と語る佐々木閑氏。京大工学部で化学を専攻後、文学部に入り直し仏教学に転じたという異色の経歴の持ち主である佐々木氏を囲んで、両者の共通性、関係性を論じながら、2030年を未来志向で考える機会にしたいと思います。/【略歴】佐々木 閑(しずか)(花園大学文学部仏教学科教授)1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学後、米国カリフォルニア大学バークレー校留学を経て90年花園大学専任講師、2002年から現職。文学博士。専門はインド仏教学、仏教哲学、仏教僧団史。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞を受賞。著書に「出家とはなにか」「インド仏教変移論」「科学するブッダ 犀の角たち」「生物学者と仏教学者 七つの対論」「『律』に学ぶ生き方の智慧」「仏教は宇宙をどう見たか」等。




科学と宗教は本質的に相性が悪いように思われているが,特定の視点を設定することで,両者を連結したかたちで取り込むことも可能である。特に古代インドで釈迦が創設した原初期の仏教にはそういった特性が強く表れている。この点を幾分詳しく紹介することで,科学,宗教,それぞれの本質的差異と,将来の融合性に関する考察の一助としたい。

≪WEBフォーラムはコチラ≫

 


長谷川 和子(京都クオリア研究所取締役)


今年度最後のクオリアAGORAですが、仏教と科学との関係性を追究するなど、哲学不在といわれる今、とっても興味のある研究を続けておられる花園大学の佐々木閑教授をお招きいたしました。佐々木さんは、京都大学の工学部で学ばれ、その後文学部にもう一度入り直し、仏教研究者になられたという変わった経歴をお持ちの研究者でいらっしゃいますが、2500年前に、釈迦がいろいろ示した考え、発想が、今の時代に役立つことがたくさんあると言われる。また、一方で、客観的に真理を解明する科学との関係も深いというお話をずっとされてきて、ぜひ一度このAGORAにいらしていただきたいと思っておりました。それが、きょう実現しました。これから、「出家としての科学界」というテーマで、まず、スピーチをしていただきます。



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スピーチ 「出家としての科学界」

≪佐々木さん 資料ダウンロード (496KB)≫


花園大学文学部仏教学科教授 佐々木 閑さん

花園大学文学部仏教学科教授
佐々木 閑さん


日本は仏教国なので、仏教という宗教は周りに、たくさん満ち満ちている感じですが、もちろん日本の仏教は大乗仏教で、今日、私がお話したいと思っております科学と関係性を持つ仏教ではございません。私が念頭に置いているのは、あくまで2500年前の釈迦が作った仏教で、この仏教の末裔というか、直系というのが、今のスリランカや東南アジアのいわゆる「上座部(じょうざぶ)仏教」と呼ばれるものなのですが、しかし、それも、もうすっかり、伝統が固着しておりまして、釈迦の時代の斬新さは失われており、すっかり錆び付いた感じになっております。なので、言ってみれば、まあ、現在の世界にはどこにもない仏教を、まず念頭に置いて、それを科学と比較、対比してみようということであります。


まず、仏教とは何かということですが、それは明確な定義があります。「仏・法・僧」、これが、万国共通、唯一の仏教の定義でございます。これ以外の定義はありません。「仏」は仏陀ですから、その人の日常の活動、行動、思想すべてが仏陀という人を信頼して行われているということが第一条件である、ということですね。仏陀以外のものを根底にはおかないということで、まあ、これは、宗教ですから当然のことです。「法」とは、仏陀が説いた教えです。仏陀は、もう亡くなっていますから、今、われわれは仏陀に会うことができないのですが、その仏陀が説き残した教えが残っております。まあ、俗にいうお経と呼ばれるものなのですが、実は、きょう申し上げます「律」と呼ばれる仏教独自の法律もまた、この法の中に入りますので、結局は、釈迦が説き残した教えと法律、ということになります。これを信頼する、これもあたりまえのことですね。


3番目の「僧」が、今日の話のメインテーマになるだろうと思うのですが、これは、お坊さんという意味ではございません。僧というのは組織名でありまして「僧伽」=「サンガ」というインド語の音写語であります。サンガはそれだけで、もう「集合体」、「組織」という意味のインド語ですから、僧というのは僧侶が集まって作る組織を意味します。定義しますと、4人以上の男性僧侶、または、4人以上の女性僧侶が集まって共同生活を送っている場合にのみ、これを「僧」と呼ぶのであります。


この仏と法と僧侶の三つの要素がすべて揃っているものを仏教と呼ぶというわけですから、仏教は必ず組織宗教なんですね。お坊さんが、ひとりで仏教を背負っているということはありえないのであって、修行をする組織が存在すること自体が、もう、既に、仏教の第一定義になっているわけです。ちなみに言いますと、ひとり一人のお坊さんを何と呼ぶのかといいますと、正式には、男性は比丘、女性の場合は比丘尼であります。これが、個々人の僧侶を呼ぶ呼び方ですね。


この三つの中に「僧」が含まれているということは、仏教は、本来的は組織として活動する宗教であることが、明確に示されているわけです。しかし日本は、正真正銘のサンガがないんです。何ていうか「サンガもどき」はいくらでもあるんですが、サンガそというのは、日本の仏教にはございません。日本仏教を隅から隅まで、どこを眺めても、実は仏と法しか見つからないという、非常に特殊な状況にありますので、それだからこそ、ここで日本にない仏教のお話をする価値があるわけです。


では、仏教の誕生ということについて話します。仏教というのは第一が「自己努力によって、心のうちの煩悩を滅除し、それによって、永遠の平安を手に入れたいと願う人たちが、その(煩悩を消すという)生き甲斐を実現するためにサンガという組織を作り、ひたすらその目標に向かって努力する」―その活動を仏教というのであります。これが本来の形ですね。


そして、基本理念。これは、私の考えたものなんですけれども、まず、第一が「超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する」。これが、まず、仏教と科学を考える場合の共通点の第一でありまして、仏教が想定する、もっと言うと釈迦が設定した世界観の中には、われわれを救済する救済者はおりません。もちろん、創造者もおりません。つまり、何らかの人格的な存在が、われわれに力を及ぼすというようなことは、一切ないというのが、釈迦の本質的な考え方であります。ですから、仏教の中には、「何々天」と呼ばれる神様がたくさん出てくるんですけれども、あの神様は、全く力がないものたちであって、われわれと同じように苦しみ、煩悩の中で悶えている生き物なんですね。「帝釈天」とか「梵天」と呼ばれる神々は、みな、そういう存在です。


釈迦の考えた世界は、超越者がないということはですね、例えば、世界はなぜ動くかということに関しては、「原因と結果の因果則で動くのである」というわけです。これを仏教的に言いますと、「縁起」、つまり縁によって起こる、というわけですね。ここでまず、仏教が設定している世界と、いわゆる科学的な世界観というものを比べた場合、そこに、非常に近親性があるということが言えます。


仏教と科学の共通性について、きょうは、二つ申し上げようと思っております。ひとつは、今言いましたような思想的な面。もうひとつは、サンガの組織、人間活動としての組織体の共通性というものです。


で、基本理念の二つ目は、「努力の領域を、肉体ではなく精神に限定する」。これは、つまり、「修行」は精神であるということで、肉体的な修行はすべて排除いたします。従いまして、日本の仏教に見られような、滝に打たれるとか、火の上を歩くとか、山の中を走るとかは、一切ございません。修行というものの本質は、精神の内部における集中力の養成なのです。これは、ヨーガといったり、瞑想といったり、いろんな言い方をいたしますけれども、要は、集中した精神によって自己の内部を観察し、それによって是正すべき点を発見し、繰り返しのトレーニングによって、実際に、精神内部を是正していく。修行は、これだけなんです。ですから、修行している人の姿を外から眺めると、何をしているように見えるかというと、何もしていないように見えるわけで、ただ座っているんじゃないかと。日本でいうと、坐禅につながりますけれども、これが根底にある形です。ですから、今でも、スリランカやタイのお寺に行きますと、お坊さんは何をするかというと、ひとつは、座って瞑想をする。もうひとつは、お釈迦様の教えである法を学ぶために、お経や律などを唱えて覚える―この二つが二本柱よいうか、これしかないんですね。例えば日本ですと、お掃除が修行だとか、托鉢が修行だというように、日常的な活動も修行だというような傾向がありますが、こういうことは一切ありません。掃除は修行の邪魔であります。托鉢もしないでよければしない方がいい。時間の無駄ですから。すべては、座る修行に集中して、全生活をその一点に焦点を当てる。この活動の形式が、もうひとつの、科学との接点のもう一点につながっていくことになるわけですね。それで、理念の3番目です。「修行のシステムとして、出家者による集団生活体制(僧団=サンガ)をとり、一般社会の余り物をもらうことによって生計を立てる」、これが非常に重要なポイントになってくるんですね。これ、後でもうちょっと詳しく言います。そして、仏教の特性は「徹底した合理主義により、精神の法則性を見通し、それを基盤にして精神の改良を図る」―というものです。


したがって、釈迦を中心として集まってきた多くの弟子たちは、みなこの方針で暮らすわけですから、全員が同じ生活を行うことになります。で、仏教には絶対者がおりませんので、信仰と呼ぶものはありません。何かを信仰して、それにすべてをゆだねて、その絶対者の救いを期待するということがありませんので、信仰生活がないんですね。あるのは、修行だけ。修行するということに、すべての時間とエネルギーを使うわけです。すべてを修行というものに投入することになる。釈迦とその弟子たちの基本的な考え方は、できるだけ、ありとあらゆる時間、エネルギーを修行につぎ込むということです。その結果として、どういう組織が生まれてくるかといいますと、生産活動を完全に放棄して、修行というものにできるだけの時間を費やす人たちが集団で暮らす組織です。これが、サンガです。


このサンガが維持されていくための一番のネックは、食べていけないというところなんですね。それはそうです。生産活動を全部放棄するわけですから。釈迦は、生産活動を一切するなと禁じたわけです。生産活動をする人は、自分のところには来てもらいたくない、と。そういう人は「在家」の生活をしていればいい。自分の弟子になる以上は、生産活動は一切放棄せよと言った。そうしますと、もちろん食べていくすべがありません。お弟子さんは多分ね、数百人から千人単位でいたはずなので、それだけの人が家も財産も捨てて入ってきていますから、私、いつも言うんですけど、住所不定、無職の人間を千人集めて、この人間を食べさせていくのが釈迦の仕事だったんですね。これを何とか考えなきゃいけない。で、釈迦はどう考えたかというと、できるだけ、町や村のそばに住めっていうんですね。町まで歩いて通えるくらいの距離のところに住んで、朝になったら、みんなして町に出かけて行って、そこの残り物、余り物、捨てるようなものをもらって歩く。もらって歩く時、容器をもっていかないともらえませんから、自分で用意する。それが鉢です。鉢をもって毎朝回る。これが托鉢です。この托鉢こそ、釈迦が、仕事をしないで千人を食べさせるという課題を解決するために考えた方法なんです。


当然のことながら、托鉢自体は、修行とは何の関係もないものですから、できれば、しない方がいいのですが、せざるを得ないということで、時間を限定しまして、午前中だけしか托鉢はしてはいけないと決めました。というのは、ご飯をもらえないということで、午後も回っていると、仕事をしていると同じ事になりますので、放棄したはずの仕事が托鉢という仕事に変わってしまったら困りますから、それで、午前中で托鉢はやめる。ご飯は一日一回だけ。


これは一例ですが、このようにして、仕事をしないで、自分がやりたい修行という活動だけに精力を費やす目的で集まった人たちが暮らしていくという原理から、やがて、自然に、サンガが活動する方針が生まれてくるわけです。例えば、今言いましたように、ご飯は1日1食、午前中だけ、というふうに決まっていくわけですね。「髪の毛とひげを剃れ」というのもあります。これは、一種のID、身分証明であります。「ご飯をもらえるなら、私も」って、仏教とは関係のない人が僧侶のふりをして回ってくることもあります。それで、われわれは、ほかの人たちと違いますということの証明として、当時のインドの男性のあるべき人間性を表す証拠を、全部取り去ってしまう。つまり「われわれは、社会人ではございません。まともな人間じゃないんです」っていう、その覚悟をして示すのが、頭を剃ってひげも剃るということになる。


着るものは裸でもいいんですが、それでは、風紀を乱すことにもつながるので、最低限の衣を着るということになります。しかし、衣を手に入れる方法はありませんので、道端に落ちている汚い雑巾の切れ端のようなものを少しずつ集めてきて、ミノムシのように、それを着る。これが、インド語で「汚い泥色」を意味する「カシャーヤ」と呼ばれ、それが、中国、日本で「袈裟」となったわけです。だから、袈裟というのは、どろどろの汚い雑巾のような衣という意味なんですね。



それでですね、例えばですよ、信者さんの中にお坊さんのファンがいましてね、托鉢に行こうとしたら、「托鉢に行くの大変でしょう。明日、私のうちでご飯を用意します。そうすれば修行もはかどるでしょう」と提案する。この場合、釈迦は、「それは素晴らしい、ぜひ受けなさい」という。何事も修行優先で、効率よく修行ができるならOKなんです。衣も同じで、「反物差し上げます」っていわれたら、受ける。ただし、真っ白の衣をそのまま着ると、一般人とおなじになるので、道端で拾った衣であるかのようにする。反物を短冊に切って、ぼろ布のようにし、黄色に染めて着ます。黄色い衣は、すべてパッチワークです。日本の仏教にも形だけ伝わってきていて、お坊さんの着ている袈裟は、たとえ500万円もするような、どんな高いものでも、全てパッチワークになっています。


という具合に、全ての仏教サンガの運営の形は、修行に全エネルギーを使うという原点から全部出てくるわけなんですね。それと、大事なことですが、一番僧侶たちが気をつけなければならないのは、托鉢に行ってお布施、ご飯がもらえなくなるような事態。これが最も恐ろしい。もし、布施の道を絶たれたら、ほかに食べる方法がないわけですから、仏教サンガは崩壊するわけです。なので、一般の人たちが、「あの人たちには、お布施をしたくない」と思わせるようなことは絶対しないということになります。


ところが、それは一体、どんなことですかと聞かれると困る。なぜかというと、千人集まれば、その人たちは、みんな出生が違います。いろんな生まれ育ちの人たちがいるわけですから、行儀作法一つとったって、生まれと教育によってみんな違うわけです。こっちの人はいいと思うが、あっちの人は、それはいけない、と。とにかく、サンガが社会から見てどう思われるかということが、問題なわけですから、そこで釈迦は、こういうことを考えました。社会の人たちから見た理想的な出家者集団=サンガというものをまず想定し、それを守るための最低ラインとしての「生活の規範」を決める。法律を決めるんです。「最低でもこの法律だけは守れ。」それを守れば、世間の人たちから、少なくとも、後ろ指はさされない。というわけで、サンガの中に法律が制定されることになります。この法律のことを「律」といいます。


仏教文献は「経」「律」「論」と三つに分かれるのですが、「経」は、どうすれば悟れるか、まさに精神的な思想面の教えを集めたもの。一方、「律」というのはサンガの法律を意味します。これがないと、サンガが成立しません。実は、仏教には、お経と並んで必ず律がなければならない。ところが、日本の仏教にはないんです。サンガがないから、律もない。ただ、「律宗」というのがあるんですね。でも、律宗というものがあること自体が、もう矛盾です。仏教は、全部、律宗でなければならないわけで、律のない仏教なんてありえないんだけども、日本はとにかく特殊です。


それで、律の規則はどれだけあるかというと、まず、禁止事項としておよそ250が決められております。第1条は、「いかなる形においてもセクシャルな行為をしてはならない」。男性と女性だけではありません。同性間、さらには動物とまで、全部してはダメと決められております。第2条は、「物を盗むな」。3番目は「人を殺すな」。4番目は面白いですね、「自分は悟っていないと知りながら、悟ったと嘘をつくな」というものであります。この四つが「波羅夷(はらい)」と呼ばれる罪で、250ある法律の中の一番の重罪であります。これを犯した者には大変な罰がある、出家社会からの永久追放です。


今、250の禁止事項と申しましたので、その罰についてお話しますと、この律というのは、サンガを維持していくための法律でありまして、ひとり一人のお坊さんが、悟りに向かうために守るべき規則ではありません。サンガが一般社会からお布施をもらえなくなると困るので、一般社会から非難されないように決められた、最低ラインの生活規則なのであります。ですから、この律を犯すと何が起こるかというと、それによって、サンガの世間的評判、信用が落ちます。そしてそれは、サンガの存続を揺るがす一大事になりますので、したがって、その律を犯したメンバーに対しては、サンガが主権者となって、罰を与えることになります。なぜかというと、サンガという組織を守るための法律なんですから、それを処罰しないことには、その律というものの効力、有効性が一切出てきませんからね。ですから、律というのは、正真正銘の法律なんですね。


そして、律とは別に、仏教には「戒」というものがあります。「戒律」の戒ですね。律と戒は別物でありまして、戒というのは、ひとり一人の僧侶が、自分が向上して悟りを開いていくために守るべき規律であります。これは、一般で言いますと「道徳」に当たる。あるいは「倫理」と言っていいかもしれません。そうしますと、まあ、例えば、例を一つ挙げますと、「生き物を殺すな」という規則があります。これは、戒の中にも、律の中にもあります。それで、戒の中にある「生き物を殺すな」という教えは、どのような生き物も殺すなという教えであります。ミミズも殺すな、人も殺すな…ですね。では、殺してしまったら、どうなるか、ということですが、戒の場合は、何の罰則もありません。なぜならば、それは自分が向上していくための心がけとして、仏教が定めたものでありますから、それを犯した人間に対する罰は、外部の組織が与えるのではなくて、自分が向上できない、悟れないという形で戻ってくるだけであります。これは要するに、道徳を守らない人間の、その人間性が下落して、堕落していくというような話なんですね。


ところが、それと並行して「生き物を殺すな」という教えは、律の中にもあります。その場合、その教えは二つに分かれます。ひとつは「人間を殺すな」。もうひとつは「その他の生き物を殺すな」ということになります。これは、何故かというと、社会的に外から見た場合、人殺しと人以外の動物を殺す場合とでは、明らかに、社会的な批判の度合いが違うからです。従いまして、律によりますと、人を殺した場合は、最大の罰が与えられます。最大の罰は何かと申しますと、仏教僧団からの永久追放であります。もう二度とお坊さんになれません。仏教世界から完全追放になるということですね。で、それじゃあ、人間以外の生き物、例えばミミズをわざと殺したらどうなるかというと、これは、非常に軽い罪です。誰かに向かって「ごめんなさい」と言えば、それでいいんです。それで、その罪は消えます。出家した比丘や比丘尼は、この二つを、戒と律を両方重ねて守ります。


ところがこれが、中国で言葉が混乱しまして、戒と律といっていたものが、いつの間にか「戒律」という言葉になってしまって、本来ならば一緒にしてはいけない単語が一緒になって、それを今、われわれ、日本でもね、戒律という言葉がさも初めからあるように申しておりますけども、これは、本来的には分けて考えなくちゃあいけない。


それでは続いて、科学の話をちょっと申し上げますと、出家者のあり方というものを、宗教的な面を取り除いて言いますと、こうですね。つまり、ある特定の生き甲斐を持った人たちがいる。その生き甲斐というのは、世俗の中で社会活動をする―もっと言うと、お金儲けをして人並みの生活をするという形の目標ではない目標。そういう世俗ではないことに生き甲斐を感じている人たちがいます。その人たちが、何とかその生活を実現したいと考えます。で、同じ傾向性を持った人たちが集まって組織を作る。それが、サンガなんです。ですから、そのサンガにいる人たちは、みなが同じように、世俗とは違う同じ方向性の目的を持って暮らしている訳です。その人たちの日常は、自分のやりたいことを自由にやってるわけです。そのかわり仕事はしない、という立場ですね。仕事はしませんから生産性はない。その生産性のなさを何で補うかというと、一般社会の人たちからの支援、つまりお布施で補うということになるわけです。


当時の、インドの支援者、日本でいうとまあ、檀家さんにあたるんですが、そういう人たちの思いは、どういうものであったかというと、ひとつは、自分たちが日常生活の中ではできないような大変崇高な目的を持った生活をしている人たちへの尊敬の念であります。自分も出家をしたいんだけど、いろんなしがらみの中で、それができないという人たちが、「私たちの代わりにやってくれている」という思い。それから、もうひとつは、「果報」があるということです。お布施でお坊さんたちを支えることによって、やがて、その果報が自分の方に戻ってくるんだ、という思い。これが大変強い。日本人以上に強く、インドには、「業」の思想がありますので、よいことをすれば必ず楽しみがもどってくるという思いがしみついていますから、その一番の形が「布施」なんですね。ですから、「よき人たちを支えることが、必ず自分にとってのリターンになる」という思いがある。これが、仏教サンガが支えられてきた一番大事な一般の人たちの思い。



では、そういう形でお釈迦さんが、2500年前に作った仏教サンガがどうなったかというと、今も続いております。それが、スリランカやタイなどのあの集団です。それだけじゃありません、日本以外のほぼすべての仏教国では、サンガが存続しています。ということは、サンガという組織は、2500年続いているわけです。恐らく、人類史上、最も長く続いている組織体であろうと私は思います。で、そのサンガの法律である律というものも、同じく、2500年、その骨格として維持されてきて、今もスリランカやタイではそのまんまの律が使われておりますから、これも、恐らく人類史上最も長く有効性を持ち続けている法律だろうと思うんですね。これはある意味、釈迦の設定した組織のシステムが有効であることの、紛れもない証拠です。実証されていますからね、2500年続いているということで…。


それで、その出家者を、科学者に変えてみたらどうなるか、という話なんですね。自分のやりたいことをやる人たちです。その「やりたいこと」というのは金儲けではありません。宇宙の真理の発見であります。どんなに売れるにしてもね、どんなスケールであるにしても、真理の発見である。その真理の発見に全てを注ぎ込むんだ、と決心をした人たちが作っている「科学界」というものがある。古代インドならば、情報がそんなに伝達できませんから、全員が一緒に集まって暮らさなければいけませんが、現代ならば一緒にいる必要はないので、情報さえやり取りができればいいわけですから、言ってみれば、世界全域に「科学界」と呼ばれるひとつのサンガが散らばった形で存在していると考えても、それほど違わない。その科学界のメンバーは、四六時中、24時間、仕事ではなく自分の生き甲斐に時間を費やしますから、仕事ができません。なので、仕事ができない分を補うために、一般社会からの支援をいただく。これは、いろんなものがありますが、主には税金でしょうね。それが、どういうふうに使われるかというと、もちろん研究費に使われるのもそうですけれども、まず何と言っても大学教授のポストの給料がそうです。それはみんなお布施なのです。


宇宙物理学者の佐藤勝彦さんとこんな会話をしたことがあります。「先生のやっておられるインフレーション宇宙論というのは、何の役にも立たないんですよね」―すると、佐藤先生はうれしそうな顔をして「そうなんです。私のやっていることは何の役にも立たない」。で、私が「社会からのお布施で、やっておられて、幸せですね」というと「そうなんです。私はほんとに幸せなことをしています」とおっしゃる。実はこれ、科学者だけでなくじゃないんです。例えば、政治家もそうなんです。つまり、金儲け以外のいろんなことに生き甲斐を持っている社会があった場合は、それは、何らかの点で共通性が出てくる。その時に大事なのは、その社会が律のような法律を持っているかどうかということです。自分たちが社会から養ってもらうという、雑な言い方をしますと「虫のいい生き方」をしているわけなんですが、その生き方を社会に許してもらう代わりに、自分たちを律するための規則を設定しているか、ということです。


仏教の律というのは、お坊さんたちが自分たちで勝手に考えて作った規則ではありません。必ずそこには、一般社会からどう見られるか、という視点が条件になっていて、二百何十条というものの全てが決まっているわけなんですね。お布施をもらうためには、それを守るということが、絶対的に必要になってくる。例えばですね、古代の仏教寺院というのは、24時間オープンです。人を締め出すということはしないんです。信者さんが夜中にやってきて「開けてください」といった場合、もちろん、泥棒とか来ると困るので、閂だけはかけていますが、信者と確認できたら、必ず24時間、門を開いて入れなくてはいけません。それはどういうことかといいますと「お布施で生きている私たちは、お布施をやましいことには使っておりません」ということをすべてオープンにしなければならないという、釈迦の考えに基づくものなんです。だから全てを見せる。また、修行も24時間の形で、人に見せる。ですから、人からものをもらって暮らす代わりとして、その人は、その人の人生、24時間、365日、全てがもらったお布施に対応する生活をしていることを示す義務がある、ということを仏教では教えとしているわけです。


そして先ほど、いろいろ罰があるということを言いました。自分たちが自主的に、自分たちのメンバーを処罰することが非常に重要だと釈迦は考えましたので、処罰の主体は、必ずサンガであって、一般の司法には任せません。例えば、お坊さんが人殺ししたらどうなるか、ということになりますと、先ほど申しましたように、セックスをする、物を盗む、人を殺す、悟ってないのに悟ったと嘘をつく―この四つが重罪で、これを犯した者は僧団からの永久追放になるわけです。それで、人を殺して僧団から永久追放になったお坊さんは、その後どうなるか。これ、よく質問されるのですが、その後のことについてサンガは一切関知しません。追放されたその人をどう扱うか、それは社会が判断し、やることです。サンガとしては、人を殺した僧侶は必ず僧団から永久追放しています、ということを社会にきちんと示すことが大事。それが重要なんです。


ところで、「悟ってないのに、悟ったと嘘をつく」のが、なぜ重大かおわかりでしょうか。お坊さんが「悟りました」というと、膨大なお布施が集まるんですよ。悟った人のところには、ファンがいっぱい増えて、山のようなお布施が集まるんです。ということは、悟っていないのに悟ったと言ってお布施を集めたら、支援者からだまし取ったことになる。それは大いなる窃盗罪で、サンガの信頼を最も損なう行為の一つですね。一旦そういうことが行われますと、もう二度とあのサンガにお布施はするものかという思いができますので、これで、サンガは一挙に崩壊するわけです。これを4番目の重罪に入れておくことには大変意味がある。


これも、科学の世界に置き換えますと、いろんなことがわかってきますね。「悟っていないのに」っていうのを「見つけていないのに」と言い換えると、さあ、どうですか…。で、それに対して科学界は、自浄作用をちゃんと発揮していますか、と。


サンガは、組織自体がそのメンバーを処罰するということをきちんとやっているかどうかが一番重要だということを、律の中で明確に打ち出しているんです。


さて、組織論としては今話したようなことです。残念ながら、時間が来ましたので、この辺りにしますが、もうひとつのテーマである「世界観」、「縁起によって動いていく世界で、この世の中をどう見ていくのか」という点について仏教は、ほかの宗教に比べれば、はるかに科学に近い世界観の中で活動しています。これについても、もう少しお話したいのですが、この場はここまでにとどめておきたいと思います。





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